HOME目次方臘之乱

復燕雲


(01)徽宗の政和元年(1111)九月、端明殿学士の鄭允中と宦官の童貫を遼に派遣した。

童貫は西方部族を平定すると、遼も征服できると言い始め、さらには遼に使者となり、国情を偵察したいと申し出た。そこで鄭允中を賀遼主生辰使とし、貫を副使とした。「宦官を上介(特使)にするとは。国に人はいないのか」と非難するものもいたが、帝は「契丹は貫が西方を平定したのを知り、会いたいと言って来たのだ。ついでに遼を偵察させるつもりだ。これこそ善策ではないか」と庇った。こうして貫は派遣された。


(02)冬十月、童貫は遼の李良嗣を連れて帰国した。そこで〔良嗣を〕秘書丞とし、趙姓を授けた。

燕人に馬植という男がいた。もとは遼の名門貴族で光禄卿になったが、品行が悪く、他人を馬鹿にしていた。童貫が遼に使者となり、盧橋を通ったときのこと。夜中、植は貫の側近を見つけ、燕を滅ぼす策があると言って、貫との面会を取り付けた。貫は植と語り、その奇才に感心した。そこで宋に(1)連れて帰り、姓名を李良嗣と変え、朝廷に推薦した。

植はただちに献策した。――「女真は遼をひどく怨んでおります。ましてや天祚(遼の皇帝)は暴虐不道です。もし本朝(宋朝のこと)が登州・莱州から海を渡り、女真と好みを通じ、遼の攻撃を約束すれば、遼を征服できましょう。」

朝廷には「祖宗の時代からその通路はありました。しかし蛮族の近地というので、商売の交通を禁じて以来、今でもう百有余年になります。一旦これを開けば、恐らく中国の利にはなりますまい」と批判する意見もあったが、聞き入れられなかった。

帝は植を呼んで意見を求めた。

植、「遼は必ず滅びます。陛下におかれましては、彼地の民の塗炭の苦しみを念慮とし、中国の故地を回復し、天に代わって遼に譴責を行い、治をもって乱を伐っていただきたい。さすればひたとび王師が出るや、必ず〔彼の地の人々は本朝の〕兵を歓んで迎え入れるでしょう。もし女真が契丹を征服してしまえば、今と同じようにはいきますまい。」

帝は喜んでこれを納れ、〔良嗣に〕趙姓を授け、秘書丞とした。燕州平定の議はここから始まった。


(03)重和元年(1118)二月、武義大夫の馬政に命じ、海上から金に向かわせ、遼の挟撃を約束させた。

これ以前、建隆年間、女真は蘇州――女真の地――から海を渡って登州を訪れ、その地で馬を売っていた。その通路がまだ残っていたのである。

ここに至り、漢人に高薬師という男がいた。海を渡って宋に到着すると、「女真は国を建て、しきりに遼の軍を破っている」と言った。登州守臣の王師中が報告書を提出した。そこで蔡京と童貫に詔を下し、〔この案件に対して〕共同討議をさせた。また師中に命じて人を募らせ、薬師らとともに馬売買の詔を持たせ、金に向かわせた。しかし海を渡れず、引き返した。帝はまた童貫に使者の選定させた。こうして馬政を薬師とともに海上から金に向かわせることになった。

政は金の君主に言った。――「主上(皇帝のこと)は貴朝(金朝のこと)が契丹の五十余城を破ったのをお知りになり、そこで貴朝と好みを通じ、ともに遼を討伐したいとご所望です。もし許していただけるなら、また使者を派遣していただきたい。」

これ以後、金との通好を始めた。


(04)宣和元年(1119)春正月、金の君主は粘没喝(ネメガ)と討論の結果、渤海人の李全慶と女真の散覩を宋に派遣することにした。そこで国書および北珠・生金等を持たせ、馬政とともに使者を宋に派遣し、通好を計った。

〔金からの返答を受け、宋では〕詔を下し、蔡京らに遼の挟撃を指示させた。善慶らは〔帝の挟撃了承の意向に〕頷いた。十日の後、政を趙有開とともに金に向かわせ、詔書と礼物を運ばせることにした。そこで善慶らと海を渡って金に報告させたところ、〔使節一行が〕登州に到着するや、有開が死んだ。たまたま密偵から「遼は金の君主を帝に封じた」と報告があったので、政の渡航を禁じ、平海軍校の呼慶だけを善慶らの帰国に付き添わせた。

〔宋の返答を使者の慶から受けた〕金の君主は、慶を帰国させたが、その際こう言付けした。――「私は既に遼の数路を手に入れた。お前は帰国すればこう伝えよ。もし通好を望むなら、早く国書を示すべきだ。なおも詔書を用いるようなら、通好は難しい。」

これ以前、高麗が医者を求めてきたときのこと。帝は二人の医者を高麗に向かわせた。ここに至り、〔二人の医者は〕帰国し、報告書を提出した。――「高麗の医官は甚だ勤勉で、いつも用兵・布陣・防御の方法を研究しております(2)。その高麗が言うには、『天子(宋の皇帝)は女真とともに契丹を討伐されるとか。しかし契丹があれば、まだ中国の守り手ともなりましょう。ところが女真は虎狼の人々、理解し合えるものではありません。早くに備えをなさいませ』と。」帝はこれを聞き、喜ばなかった。

安堯臣が意見書を提出した。

陛下は即位したばかりの頃、求言の詔を下されました。そこで剛毅な人々は忠節を立てました。しかし邪悪な者共が陛下を誤らせ、〔先帝〕誹謗の濡れ衣を〔反対派に〕加え、陛下に諫言拒否の非難を負わせました(3)。それ以来、世の人々は口を閉ざしてしまいました。先程宦官(童貫)は勅命を専らにし、権臣(蔡京)と結託し、北伐の謀事を唱えましたが、宰執以下、一人として陛下のために発言するものがおりません。私見によれば、燕雲の役が興れば、国境に亀裂が生じ、宦官が権力を専らにすれば、陛下の権能は衰えます。

むかし秦の始皇帝は長城を築き、漢の武帝は西域に通じ、隋の煬帝は高麗に遠征し、唐の明皇は幽薊に遠征しましたが、あのように失敗しました。周の宣王は北方の玁狁を伐ち、漢の文帝は匈奴に防備を構え、元帝は賈捐之の議を納れ、光武は臧宮・馬武の謀事を斥けましたが、あのように成功しました。

我が太祖皇帝は、乱世を治め不正を正し、みずから甲胄を身につけられました。当時の将軍・大臣はみな太祖ともに天下を取った人々にございます。その勇略智力をもって幽燕両州を下し得ぬはずがありましょうか。蓋し両州の地は、契丹が必ず争うであろうとて、我が赤子を戦禍に苦しめる忍びなかったに過ぎません。章聖皇帝(真宗)の折りも、契丹に勝利を収めながら、その和睦を許しました。これもまた国の根本を固め、民に休息を与えようと思し召されたからに他なりません。

現在、童貫は蔡京と結託し、二人して燕人の李良嗣を懐刀とし、謀事をめぐらしております。このために燕雲平定の議が起きたのです。しかし恐らくいつの日にか、脣亡歯寒の喩えのごとく、辺境に乗ずべき亀裂を生じましょう。夷狄は鋭気を蓄え隙を狙い、大いなる欲望を逞しくせんとするでしょう。これこそ私がいつも陛下のために寒心するところにございます。

陛下におかれましては、祖宗以来の艱難を心に留め、歴代君臣の得失に鑒み、辺隙を塞ぎ、〔景徳以来の〕旧好を謹守することで、夷狄が隙を衝いて中国を狙わぬようにしていただきたい。上には宗廟を安んじ、下には生霊を慰められませ。

帝はこれに賛同した。また久しく言路が遅滞していることに留意し、言路を導く意味も込め、褒美として堯臣に承務郎を授けた。しかし後日邪悪な人々の手により、帝の意向は撤回させられた。


(05)二年(1120)二月乙亥(四日)、趙良嗣を金に派遣した。

これ以前、呼慶は金から帰国すると、金の君主の意見を報告した。また金国の来書を提出し、別の使者を派遣して金と通好すべきだと言った。当時、童貫は燕州奪回の密旨を受けていたため、右文殿修撰の趙良嗣を派遣したいと申し出た。そこで馬の売買を名目としつつ、実際は遼の挟撃を金と約束し、燕雲の地を奪回しようとした。


(06)八月、金人が宋に来て、遼の挟撃および歳幣について議論した。馬政を派遣して金に報告させた。

これ以前、趙良嗣は金の君主にこう言った。「燕はもともと漢の土地です。遼を挟撃する場合、金が中京大定府を取り、宋が燕京折津府を取るようにしていただきたい。」金の君主はこれを許可し、ようやく議論は歳幣に及んだ。

そこで金の君主は手札を良嗣に渡した。――金兵は平地松林から古北口に向かい、宋兵は白溝から挟撃すること。さもなくば従えない、と。こうして金は勃菫(金の高級官僚)を良嗣とともに宋に派遣し、その君主の言葉を伝えさせた。

〔金の返答を受け、〕帝は馬政を派遣して金に報告させた。帝の書には「大宋皇帝から大金皇帝に書をお渡しする。遠く親書を特使から承けました。特に函書をお示しします。契丹討伐のこと、約束の通りに致しましょう。すでに童貫に命じて兵を動かし、〔金兵に〕呼応させました。なお宋金の兵ともに関を越えては成りません。また歳幣は遼と同額にします」とあった。また〔両国とも〕契丹と講和しないことを約束しあった。


(07)四年(1122)三月、金人が宋に来て、遼の挟撃を約束した。童貫を河北河東路宣撫使とし、兵を国境に集め、挟撃に応じさせた。

これ以前、煕河鈐轄の趙隆は契丹討伐の不可を極言した。

童貫、「一緒にこの戦いを成功させれば、君にも格別の抜擢があろう。」

隆、「私は武人だ。恩賞のために、祖宗二百年の友好を破ることはできぬ。いつの日にか禍が起これば、死してもなお罪を謝するに足らぬ。」

貫は悦ばなかった。

鄭居中も挟撃の不可を強く意見し、蔡京に言った。――「あなたは大臣でありながら、両国の盟約を守り得ず、軽々しく紛争を引き起こした。全く我が朝廷のためにならぬ。」

京、「陛下は歳幣の五十万を厭われておいでなのだ。」

居中、「漢の時代、夷狄と和戦を繰り返したが、その費用がどれほどか貴方はご存じか。百万の民に塗炭の苦しみを与えるのは、あなただ。」

このため〔契丹挟撃の〕議論は沙汰止みになった。

金がしばしば遼兵を破るようになると、童貫はまた出兵を求めた。

居中はまた「敵の災を幸いとして兵を動かしてはならない。自滅を待てばよい。」

当時、睦州の叛乱(方臘の乱)が平定されたばかりで、帝もまた〔契丹への〕挙兵を悔いていた。しかし王黼だけは言った。――「中国と遼は兄弟の国ですが、百年の間、しばしば彼らは領地を奪い、我らを馬鹿にして参りました。それに弱国を兼併し、愚昧を後略するは、武門の道。今にして燕雲を取らねば、女真がすぐ強大となり、中原の故地ですら保つことはできますまい。」帝はついに挙兵を決心した。

黼は三省(宰相府)に経撫房(対契丹特別対策本部)を設け、辺境問題を総理し、枢密の関与を防いだ(4)。そして天下の壮年男子をかき集め、戸の収入を計算し、六千二百万緡の銭を戦費に充てた。また黼は童貫に書簡を送っては、「太師(童貫のこと)は北に向かえば、死力を尽くして欲しい」と訴えた。

たまたま耶律淳の自立が伝えられたので、貫に命じ、兵十五万を指揮し、金に呼応すべく北辺を巡回させ、幽州と燕州に投降を呼びかけさせた。また蔡攸を〔この戦いの〕副官とした。そこで帝は貫に三つの策戦を授けた。――「もし燕人が悦んで投降し、旧領を回復できれば、策の上。耶律淳が帰順し、〔我が朝廷の〕藩と称すのであれば、策の中。燕人が服従せず、兵を率いて国境を巡〔り、軍を損なわずに帰還す〕(5)るのは、策の下だ」と。

中書舎人の宇文虚中は意見書を提出した。

用兵の策は、まず強弱虚実を計り、彼を知り己を知り、万全を期さねばなりません。現在軍費の多寡を論じては、宣撫使管下を指して軍費豊富と言いますが、辺境諸地方に軍費はなく、兵糧もなく、これには目を覆っております。また兵卒の強弱を論じては、宣撫使管下を指して兵甲精鋭と申しますが、辺境諸地方に兵の訓練なく、軍備に欠陥ある状態でありながら、これには目を瞑っております。そもそも辺境に敵に応ずる備えなく、軍府に数日の兵糧もない状態では、たとえ孫子や呉子が甦ったところで、兵を挙げることはできますまい。これ我らに万全の策のないことを意味します。

用兵の道は、防ぐに易く、攻めるに難く、城を守る者は易く、城を攻める者は難いと申します。守る者は内におり、攻める者は外におります。内におる者は主人となって常に逸楽し、外におる者は客人となって常に労苦します。逸楽であれば必ず安全、労苦あれば必ず危険です。現在宣撫使の兵は約六万おりますが、辺境の動員可能な兵は数千に過ぎません。契丹の九大王の耶律淳は、知謀に溢れ、平素より人々の心をつかんでおります。君主はこれに国権を委任して疑うところがありません。今すぐにも我が兵を燕の城下に進めたらどうなることか。もし契丹が西山から軽兵(軽装備の兵)でもって我らの糧道を断ち、さらに営州・平州から精鋭でもって我らの陣営を圧迫したならば、我らの糧道は続きますまい。そして耶律淳は人々の心を奮い立たせ、堅く己の城を守ったならば、我らは危機に陥りましょう。これ彼らに対して必勝の兆しのないことを意味します。

そもそも我らに万全の策なく、彼らに対しても必勝を約束できない。ならばこの一挙は安危治乱の繋がるところ、軽々しい判断は避けねばなりません。

中国と契丹が講和すること、いまに至るまで百年。まま〔契丹に〕貪欲の心があったとて、たかだか関南の十県を求めただけのこと。まま傲慢の心があったとて、たかだか中国に対して礼節を欠く態度のあっただけのこと。それとても女真が侵略を始めてからというもの、向こうから本朝(宋のこと)に慕い寄り、一切が恭順になりました。ところが今その恭順の契丹を捨て去り、彼らを助け、我らの藩屏として用いようとせず、かえって遠く海外に手を伸ばし、強力狡猾の女真を引き入れ、我らの隣国にしようとしております。

女真は百勝の勢を背に、虚勢を張っての驕慢。とても礼儀で服すこと適わず、さりとて言葉で諭すこともできません。女真は中国と契丹が兵を用いて止まず、戦争が解けず、勝負が決せず、強弱が分かれぬのを目にし、卞荘両戦の説(6)を持し、兵を率いて古北口を越え、兇悪の衆を持ち、累を契丹君臣に繋げ、朔漠の地(北方の砂漠地帯)に拠ろうというのです。その貪婪の心は止まず、辺境では横暴を極め、中夏を凌ぐことになりましょう。

我が百年怠惰の兵でもって、彼の新鋭の難敵に当たり、我が寡謀安逸の将でもって、血みどろの争いをする。巧拙の謀を誤り、勇怯の道を違えております。恐らく中国の辺境は安寧になりますまい。譬えるならば、こういうことです。――万金の資産を持つ富豪がおり、貧乏人の隣家であったとします。富豪は貧乏人の地を奪い、屋敷を広ぐべく、強盗を引っ張り込み、こんな謀略を申します。「彼の土地の半分をお前にやろう。あれの財産は全部お前にやろう」と。強盗がこの謀略に従ったとします。しかし貧乏人が死ねば、今度は万金の富を持つ富豪が、日夜強盗に付け狙われることになります。これでは枕を高くして寝ようと思っても、一日とて適わぬでしょう。愚見の譬えるところ、ひそかに確実と思うております。

陛下におかれましては、祖宗創業の艱難を思し召し、隣域百年の盟好を心に留められ、私のこの意見書を朝廷に下し、百官に議論させていただきたい。もし私の発言に採るべきものがあれば、請い願いますは、詔旨を下し、兵を朝廷に帰し、辺境の紛争を拡大しないでいただきたい。中国衣冠礼儀の俗をして、長く昇平を保ち得れば、天下の幸いです。

そこで意見書を三省に下げ渡した。王黼はこれを読んで激怒し、他の事をかき集め、〔虚中を〕集英殿修撰に左遷し、〔帝に〕戦争を急かした。こうして北伐の議は収集がつかなくなった。


(08)五月乙亥(十八日)、蔡攸を河北河東宣撫副使とし、童貫とともに兵を統べさせた。

攸は愚昧で兵を知らず、功を立てるなど簡単だと発言していた。帝に出陣の報告をしたとき、二人の妃が帝の側に侍っていた。攸は二人を指さし、「私が成功して帰還した暁には褒美として賜りたい」と願い出た。帝は笑って非礼を咎めなかった。


(09)庚辰(二十三日)、童貫は高陽関に到着すると、雄州知事の和詵の計略を用い、黄榜および旗を降ろし、弔民伐罪の意を示した。そこで「燕京から投降する豪傑がおれば、すぐ節度使にしてやろう」と触れ回り、都統制の种師道に諸将の軍を護衛させた。

師道は「今日のこと、例うれば盗賊が隣の家に入りながら、それを救わぬどころか、それに乗じて隣家を分けようとするのと同じ。恥ずべきことです」と諫めたが、貫は聞かなかった。兵を二方面から進め、師道は東路の兵を指揮して白溝に向かい、辛興宗は西路の兵を指揮して范村に向かった。

癸未(二十六日)、耶律淳は〔宋の〕北伐を聞き、耶律大石と蕭幹に防がせた。師道が白溝に到着すると、遼人は囃しながら前進し、師道の前軍統制の楊可世を蘭溝甸で打ち破った。宋は多くの負傷兵を出した。師道は前に進み出ると、大梃を手に持たせ、防戦に務めた。このため大敗には至らなかった。

丁亥(三十日)、辛興宋も范村で敗れた。


(10)六月己丑(二日)、种師道は退却し、雄州を守った。遼人は〔師道の軍を〕追って城下に逼った。帝は敗戦を知って恐怖に打ち震え、撤兵を命じた。

遼の使者が〔貫のもとに〕来てこう言った。――「女真は本朝(遼のこと)に反旗を翻したのですから、南朝にとっても憎むべき敵です。ところが南朝は一時の利を見て、百年の好を棄て、虎狼の隣国と手を結び、他日の禍を作ろうとしております。とても計を得たものとは申せません。災害を救い、隣国を哀れむは、古今の通義。貴国にはこれを考えてもらいたい。」貫は返答できなかった。

种師道はまた和平を求めたが、貫は聞き入れず、ひそかに「師道は賊の手助けをしている」と弾劾した。王黼は怒って、師道を右衛将軍に責授し、そのまま致仕させた。


(11)秋七月、王黼は耶律淳の死を聞きつけ、また童貫と蔡攸に兵を統べさせた。河陽三城節度使の劉延慶を都統制とした。


(12)九月戊午(二日)、朝散郎の宋昭を除名した。

昭は意見書を提出し、「遼を攻めてはならず、金と隣国になってはなりません。後のち金は必ずや盟約を破り、中国に禍をもたらしましょう。王黼・童貫・趙良嗣らを誅殺していただきたい」と口を極めて批判したばかりか、さらには「両国の盟約には、『これを敗るもの、その災禍は九族に及ぶ』とあります。陛下は孝をもって天下を治めながら、歴代聖帝の御霊をお忘れですか(7)。陛下は仁をもって天下を包まれながら、河北の民を塗炭の中に置き、血みどろの苦しみを与えてお出でだ。これをなんとも思わないのですか」と。

王黼は激怒し、昭を除名処分にしたばかりか、勒停・広南編管とした。


(13)己未(三日)、金人は童貫の挙兵を知り、朝廷(宋朝)が簡単に燕の地を領有してしまい、歳幣が手に入らぬのではないかと心配し出した(8)。そこで徒狐且烏歇らを派遣して戦争の期日を議論させた。帝は趙良嗣を派遣して金に報告させ、「当初の盟約には背かぬ」と言付けさせた。


(14)己卯(二十三日)、遼の将軍の郭薬師は、涿易二州を従えて宋に投降した。

当時、薬師は遼の常勝軍の将軍として涿州を守っていた。〔淳が死んで、〕蕭后が立つと、蕭幹が権力を握ったが、多くの国民はこれに反発した。

薬師が部下に言うには、「天祚帝は逃亡したし、女の政治ではうまくいくまい。宋の天子の精鋭が我が国境に逼っている。今こそ男児として金印(高級官僚の証)を取るときだ。」薬師はついに部下八千人を率いて、二州とともに投降した。

童貫は投降を受け入れ、帝に報告した。詔を下し、薬師に恩州観察使を与え、劉延慶の指揮下に入らせた。


(15)冬十月、燕京を燕山府に改め、涿・易など八州に名を与えた。


(16)癸巳(八日)、童貫は劉延慶と郭薬師に十万の兵を授け、雄州を出発させた。郭薬師の手引きで白溝を渡った。

延慶の軍には規律がなかった。薬師は「我が軍は無秩序、無防備。もし敵の伏兵にでもあえば、我が軍は混乱し、敵軍を前に戦意を失いましょう」と諫めたが、延慶は聞なかった。

延慶の軍が良郷に到着すると、遼の蕭幹は兵を率いて防戦に当たった。延慶はこれに負け、防塁を閉ざして出ようとしなかった。

薬師、「幹の手勢はわずか一万。その全兵力を出して我が軍を防いでおります。ならば燕山は必ずやからっぽです。願わくは、私に奇兵五千を授けていただきたい。これで燕山を急襲すれば、城を落とせます。」また延慶の息子の光世の後援を願い出た。延慶はこれを許し、大将の高世宣・楊可世・薬師に六千の兵を授けた。

薬師らは夜半に盧溝を渡った。明朝、常勝軍の将軍の甄五臣は五千の騎兵を率いて迎春門を突破し、薬師らも相継いで到着した。人を遣って蕭后に〔投降を〕打診した。后はひそかに蕭幹に報告した。幹は精鋭三千を率いて燕に戻り、城下で宋軍と戦った。光世は約束を違えて軍を出さなかった。薬師は援護を得られず、幹の軍に敗れ、可世と馬を棄てて城外に逃げ延びた。宋軍の死傷者は半数に上った。世宣は戦死した。

延慶は盧溝南方に陣取っていた。幹は兵を分けて糧道を断ち、糧道守護に当たっていた将軍の王淵を生け捕りにした。また漢軍の二人を捕縛し、二人に目隠しを施し、帳の中に閉じ込めた。夜半、幹らはこんな嘘を密談しあった。――「我が軍は漢軍に三倍。十二分に余裕がある。だから軍を左右両翼に分け、精鋭を真ん中に置き、漢軍を包み込んでしまおう。火が挙がれば軍を動かすのだ。連中を皆殺しにしようぞ。」会議が終わると、こっそり捕虜の一人を逃がしてやった。

延慶は捕虜の話を信じ込み、明朝〔契丹軍から〕火が挙がると、延慶は敵軍の到来と思い込み、すぐに陣営を焼いて逃げ去った。宋軍は恐慌を起こし、死体は百余里にも渡って続いた。幹は兵を出して宋軍を追跡し、涿河まで来て引き返した。

〔この敗戦で〕宋は煕寧元豊以来の軍をほとんど失った。延慶らは雄州まで兵を退けると、その地を守った。燕の人は宋の無能を知り、賦や詩歌を作ってあざ笑った。しかし薬師は帰還すると安遠軍承宣使に昇進した。


(17)十一月戊寅(二十三日)、金人が宋に来て、燕の地の処遇を議論した。


(18)十二月戊子(三日)、趙良嗣を金に派遣した。

これ以前、朝廷が金と約束したのは、石晉が契丹に与えた土地だけで、平・営・灤三州のことを忘れていた。この三州は石晉が与えた土地ではなく、劉仁恭が援軍を得るべく契丹に献じたものだった。すぐに王黼はこれを悔い、三州も奪おうとしたが、金の君主は許可しなかった。

趙良嗣が金に赴くと、金の君主は蒲家奴を遣わし、「宋は兵の期日に遅れた」と良嗣を批判し、さらに「今更もとの約束のことは言うまい。〔そちらに渡すのは〕燕京の薊・景・檀・順・涿・易の六州だけだ」とも言った。

良嗣、「もとの約束は山前と山後の十七州でした。ところが今はこう仰る。金に信義はないものか。」

良嗣の批判は四度に及んだが、金人は聞き入れなかった。そこで良嗣は金の使者の李靖をつれて宋に戻ったが、結局は前山六州しか得られなかった。帝はまた良嗣に金に派遣し、営・平・灤の三州を求めさせた。


(19)庚寅(五日)、郭薬師に武泰節度使を加えた。


(20)辛卯(六日)、金が遼の燕京を落とした。

当時、童貫は再び兵を起こして燕を攻めたが、失敗した。処罰を恐れた童貫は、ひそかに王瓌を金に派遣し、約束の通り〔燕を〕挟撃して欲しいと申し出た。金は三方向から兵を進め、ついに燕を攻め落とした。金は騎兵を遣って趙良嗣を宋に送り帰した。また遼の捕虜を宋に引き渡した。


(21)五年(1123)春正月戊午(四日)、金は使者を宋に派遣した。宋からは趙良嗣がまた金に出向いた。

これ以前、良嗣は燕に到着すると、金の君主と燕京・西京の地について議論した。金の君主は「どうしても平・灤などの州を求めるなら、燕京も渡さぬ」と言って、答書を前もって良嗣に見せた。そして〔答書の中の〕「燕京は本朝の兵が落とした。ならばそ地の租税は当然本朝に帰すべきだ」の件まで読み進めると、良嗣は「租税は地に従うもの。土地を与えておきながら、租税を与えぬものがいるでしょうか」と批判した。粘没喝(ネメガ)、「燕京は我らが手に入れた土地。ならば当然我らがもの。もし渡せないなら、すぐにも涿州と易州の軍を追い払い、我が国土から出て行ってもらおう。」そこで金は李靖らを良嗣とともに宋に向かわせた。

〔宋に到着した〕靖は、帝に謁見した後、王黼とも面会した。黼は靖に、「租税は約束になかった。しかし陛下は友好のこととて、銀絹に代えたいと仰せだ。」靖は去年の歳幣をも求めた。帝は特別に許した。そこでまた良嗣を靖とともに金に向かわせた。


(22)辛酉(七日)、王安中を燕山府知事とし、郭薬師を同知府事とした。

当時、朝廷は金人が燕を帰すというので、帥臣に守らせることにした。左丞の王安中が願い出、王黼も帝に安中を薦めた。そこで安中を慶遠軍節度使・河北河東燕山府路宣撫使・知燕山府とした。郭薬師を検校少保・同知府事とした。

詔を下し、薬師を朝廷に招いた。薬師に対する礼遇は甚だ厚く、一等地と姫妾を与え、水上遊技を開いて観覧させた。また外戚や大臣らに宴会を開かせ、後苑の延春殿に招きもした。

薬師は庭下に拝すと、涙を流してこう言った。――「私は契丹におりましたとき、趙皇(徽宗のこと)の天上にましますを存じておりました。それがまさか今日陛下の龍顔を拝し得るとは、思いもよらぬこと。」帝は深く褒め称え、薬師に燕の守備を任せた。薬師、「死をもって守り抜きます。」

また帝は薬師に〔逃亡中の遼の君主〕天祚帝を捕らえさせ、燕人の望みを絶たせようとした。すると薬師は顔色を変え、「天祚は我が故主。国が敗れて逃亡したので、私は降伏しました。もし別の土地で死ねと仰せなら、辞しは致しませんが、故主に刃向かうは陛下に忠を尽くすことになりません。願わくは他の者に仰せつけられたい。」こう言うと雨のように涙を流した。帝は薬師の忠に感じ入り、珠袍を脱いで与え、さらに二金盆をも与えた。

薬師は御前を退出すると、部下に「これは私の功と言えぬ。お前たちの力だ」と言って、盆を分け与えた。

薬師は検校少傅を加えられると、燕に帰り、燕山府路の守備についた。


(23)三月己未(六日)、宋は金に使者を派遣した。

これ以前、趙良嗣は燕に到着すると、金の君主にこう言った。――「本朝(宋のこと)はいつも大国に従っておりますのに、なぜ平州と灤州だけは与えてくださらぬのです。」しかし金の君主が「平州と灤州は国境の守りに充てるから駄目だ」と言うので、租税について議論した。

金の君主、「燕の租税六百万の中、一百万をもらい受ける。さもなくば我が涿易の二州と常勝軍を返してもらおう。私には兵を率いて国境まで赴く覚悟がある。」

良嗣、「本朝みずから兵を出して涿易の二州を手に入れたのです。今になってそのようなことを仰せとは、是非曲直は果たしてどちらにありますことやら。」

そこで良嗣は「御筆には十万から二十万を許すとあるだけで、私の一存では増額できかねます」と言った。そのため金は良嗣を報告のため帰国させた。金の君主が良嗣に言うには、「半月を過ぎても返事がなければ、私は兵を率いてそちらに行くつもりだ」と。

当時、左企弓は金の君主に詩を献上しては、いつも「燕を棄てよとの言葉を許してはなりません。一寸の山河は一寸の金になるのですから」と言っていた。このため金人は当初の盟約に背き、利を求めて止まなかった。

良嗣が帰国の途についた頃、遼の君主が旧領の奪還を狙っていることを知った金は、盧溝北方の橋を全て落とし、軍営を焼き捨て、防衛体制に入った。良嗣は雄州に到着すると、駅伝を用いて金の書簡を朝廷に送った。その概略には――「貴朝(宋朝のこと)の兵は挟撃に参加せず、我らの力(金国の力)のみにて燕を下した。それ故に税を求むるのみ。いま燕管轄下の租税は毎年六百万貫。良嗣らは『御筆で許可するところ二十万、それ以上は擅断し得ぬ』と云う。平・灤などの州は許可の限りにあらず。もし我が地を侵すつもりなら、両国の信義は全うし難い。速やかに境界の外に兵を出されたい。」

王黼は功をあせり、良嗣を雄州から再度金に派遣するよう申し出、遼人の旧歳幣四十万の外、毎歳さらに燕京の代税銭一百万緡の増額を金に許した。また国境線の画定、賀正旦・生辰使の詳細、交易場の設置などを議論させた。金の君主は大いに喜びし、ついに銀朮可らに誓書の草稿を届けさせ、燕京および六州の受け渡しを許可した。しかし山後の諸州および西北一帯の山川に連なる部分は〔受け渡しを〕許さなかった。

帝は意を曲げてこれに従い、盧益・趙良嗣らに誓書を持たせ、金に向かわせた。良嗣らが涿州に到着すると、金の谷神らが先に誓書を検めた。谷神らは「字画に不謹慎なところがある」と主張し、文字の改訂を要求した。益は「これは帝の親書だ。大国(金のこと)に尊崇の念をお示しなのだ」と言ったが、金人は聞かなかった。すぐに汴京にもどり、四度も文字を改訂した。すると金人はまた「近ごろ燕の趙温訊らが南朝に逃亡した。すぐに返還していただきたい。それから燕の地の返還を議論しましょう」と言って来た。そこで良嗣は宣撫使に命じ、温訊を金に送還させた。〔温訊が〕届けられると、粘没喝(ネメガ)は温訊の縄を解いて自国に迎え入れた。さらに金人が兵糧を要求したので、良嗣は二十万石を与えた。


(24)夏四月癸巳(十日)、金人は楊璞を宋に派遣し、誓書と燕京および六州を譲渡した。平・営・灤の三州は石晉の割譲地でないことを理由に譲渡しなかった。


(25)庚子(十七日)、童貫と蔡攸を燕に派遣し、土地の譲渡を受けさせた。

当時、燕の官吏・府民・子女はすべて金人に持ち去られ、空城一つが残るのみだった。粘没喝(ネメガ)はなおも涿易二州だけの譲渡にこだわったが、金の君主は「海上の盟を忘れてはならぬ。私が死ねば、お前の好きにしろ。」


(26)乙巳(二十二日)、童貫等の報告書――燕城の人々は我らを出迎え、香を焚いて謝意を示しました。


(27)庚戌(二十七日)、帝は河・燕・雲の全土に恩赦を下し、即日軍事策戦の終結を宣言した。


(28)六月丙戌(五日)、遼の張瑴が平州とともに帰順した。

これ以前、遼の君主(天祚帝のこと)が西山に逃亡したときのこと、平州の軍が叛乱を起こし、当地の節度使の蕭諦里を殺した。瑴が反乱軍を宥めたので、平州の人々は瑴に州の全権を委ねた。耶律淳が死ぬと、瑴は遼の滅亡を確信し、壮丁五万人、馬千匹を集め、精鋭でもって守りを固めた。蕭徳妃が時立愛を平州知事に命じたが、瑴は領内への立ち入りを拒んだ。

金人は燕京に入ると、瑴に対する処方を康公弼に求めた。すると公弼が「瑴は愚劣で策なき男。なにもできますまい。信任したように見せておけばいいでしょう」と言うので、金人は瑴に臨海軍節度を加え、平州知事とした。ほどなくして粘没喝(ネメガ)が平州に兵を送り、張瑴を捕らえようとした。しかし公弼は「兵を動かすつもりなら、叛乱を起こさせるのがよろしい」と言い、偵察に出向くことを願い出た。

瑴は「契丹の八路の中、既に七路が降伏した。今ただ平州が残るのみ。あえて異志を挟むはずがありません。兵の守りを解きませんのは、蕭幹を防ぐためです」と言い、公弼にかなりの賄賂を送った。公弼は帰還し、粘没喝(ネメガ)にこう言った。――「あの者は放っておいても大丈夫です。」そこで平州を南京に昇格し、瑴に試中書平章事を加え、判留守事とした。

ここに至り、金は遼の宰相の左企弓・虞仲文・曹勇義・康公弼、および燕京の富豪らを駆り立て、東方に移住させた。燕の民は一家離散し、胸も張り裂けんばかりに苦しんだ。そこで道すがら平州にたどり着くと、城に入って瑴に言った。――「左企弓は燕を守りきれず、われら民草をこのように離散させました。あなたさまはいま巨鎮にあって精鋭を握り、遼に忠節を尽くしておられます。我々を再び郷土に返していただきたい。あなたさまだけが頼りなのです。」

瑴が諸将に打診したところ、みなこう言った。――「天祚の兵は盛り返し、砂漠の南に出没しているとか。もし閣下が勤王の義兵を起こし、天祚を奉迎して遼の復興を助けるおつもりなら、まず左企弓らの投降の罪を責め、彼らを誅殺し、燕の全民を郷里に帰らせ、生業に安堵してやるべきです。そしてこの平州とともに宋に投降すれば、宋はきっと受け入れるでしょうし、平州は藩鎮になれるでしょう。ならば後日金人が兵を平州に加えても、内に平州の民を用い、外に宋人の援護を頼めば、少しの恐れもありません。」

瑴は翰林学士の李石にも意見を求めたが、石も賛同した。そこで瑴は張謙に五百余の騎兵を授け、城の守りを残すと、左企弓・虞仲文・曹勇義・康公弼を灤河西岸に呼びつけた。そして企弓らの十罪を数え上げ、首をしめて皆殺しにした。こうして瑴はまた保大三年(9)を称し、天祚の像を画かせ、朝夕これに謁見し、必ず天祚の像に告げてから事を行った。また遼の官制を用い、燕人の生活をもとにもどし、常勝軍の略奪した産物をすべて返還した。燕の民は帰郷すると大いに悦んだ。

李石は名を安弼に変え、故三司使の高党と燕京に赴き、王安中を説き伏せた。――「平州は形勢の地、張瑴には将才があります。〔これを用いれば、〕金人の侵略を防ぎ、燕を保全することができましょう。彼の投降を許されませ。西方から天祚を迎え、北の蕭幹の兵と合わせるのが上策かと存じます。」安中はこの説に納得し、安弼を汴都に向かわせた。しかし帝は手札を同知燕山府事の詹度に渡し、平州を羈縻州とするに止めた(10)。しかし度は瑴の投降を受けるよう促し、瑴も張鈞と張敦固に書状を運ばせ、投降を願い出た。王黼は帝に瑴の投降を受けるよう求めた。趙良嗣は「我が国は新たに金と盟約を結びました。このようなことをすれば、きっと彼らの怒りを買いましょう。後悔しても及びませんぞ」と諫めたが、聞き入れられなかった。良嗣は罪に問われ、五階を削られた。

詔を下し、安中および詹度に平州の安撫を委ね、三年の常税を免除した。瑴はこれを聞き「我が計得たり」とほくそ笑んだ。


(29)秋七月、童貫が致仕した。内侍の譚稹を両河燕山路宣撫使とした。

貫と蔡攸は燕から帰還したが、たいそう帝の機嫌を損ねた。王黼・梁師成は二人して、貫に代えて稹に雲中を任せるよう訴えた。稹は太原に到着するや、朔・応・蔚諸州の投降兵を集めて朔寧軍を作った。


(30)八月、遼の蕭幹は兵を進めて景州と蘇州を破り、ついに燕を攻撃した。郭薬師が防戦に当たり、幹の軍を破った。幹は敗走して死んだ。

これ以前、金人が燕京を落とすと、幹は奚王府に入ってみずから帝となり、国号を奚と称した。当時、奚は饑饉に喘いでいた。そこで幹は盧龍嶺を越え、景州を攻め落とした。さらに石文鎮で常勝軍を打ち破り、薊州を陥落させると、燕城で略奪を行った。幹の軍勢には勢いがあり、河を渡って京師を犯す気配さえ感じられた。このため宋人は恐怖に陥り、燕の放棄を主張するものさえ現れた。ほどなく藥師は幹の軍勢を撃破し、勢いに乗ってこれを追い詰め、盧龍近辺で幹兵の大半を殺戮した。幹は逃亡したが、すぐ部下に殺され、その首は京師に届けられた。詔を下し、薬師に大尉を加えた。


(31)冬十月、詔を下し、平州を太寧軍とし、張瑴を節度使とした。

金人は瑴の叛乱を知るや、闍母に三千の騎兵を授けて瑴を攻撃させた。瑴は兵を率いて営州で防戦に当たった。闍母は兵が少なく、矛先を合わすことなく撤兵した。ところが瑴は宋の朝廷に「大勝利だった」と報告した。朝廷は瑴に節度使を授け、褒美として銀絹数万を与えた。


(32)十一月、金の斡離不(オリブ)が平州を攻め、これを包囲した。

金人は闍母が功績なく帰還したことを受け、斡離不に闍母を督戦させた。折しも張瑴は宋の朝廷の褒美を待ち望み、遠くまで迎えに出ていた。斡離不はその無防備を衝き、瑴の兵と城の東部で戦った。瑴は敗れ、闇夜に紛れて燕山に逃げ込んだ。王安中はこれを匿った。平州都統の張忠嗣および張敦固は金に投降した。金は使者を派遣し、敦固とともに城に入った。城中の人は金の使者を殺し、敦固を都統に押し立て、門を閉ざして守りを固めた。


(33)詔を下し、張瑴を殺させ、首を箱詰めにして金に送らせた。

金人は叛乱人の隠匿を理由に宋を非難した。朝廷は当初こそ瑴の受け渡しを渋っていたが、金人が探索を急かすので、王安中は瑴と容貌の似た者を捕らえ、その首を金に渡した。しかし金はこれを見破り、兵を出して燕を攻め立てた。安中が「瑴を出さねば戦争になります」と言ったので、朝廷はやむを得ず、安中に瑴を絞殺させ、その首を箱詰めにし、瑴の二人の子供とともに金に送らせた。このため投降した燕の将軍や常勝軍の軍人らはみな涙を流した。郭薬師、「金人が瑴を望めばすぐに瑴を与えた。もし金人が私を求めれば、私も与えるだろう。」

安中は恐れをなし、必死で辞任を求めたので、詔を下し、蔡靖を燕山府知事とした。これ以後、投降した燕の将軍や軍人の結束は崩壊し、金もまたこの事件を理由に戦端を開いた。


(34)金人は宋に武州と朔州を譲渡した。

当時、朝廷は山後諸州の受け渡しを金に要求していた。金の君主の呉乞買は即位したばかりとて、宋の要求を呑もうとした。すると粘没喝(ネメガ)が雲中からやってきて、金の君主にこう言った。――「先帝はもともと宋と協力して遼を攻めました。ですから燕の地の譲渡を許しました。宋人は盟約を結んだ後、幣額を増やすことで山西の諸鎮の譲渡を求めました。先帝はその幣を辞退し、また宋と盟約を結ばれました。そこには『逃亡者を隠匿する勿かれ、辺境の民を惑わす勿かれ』とありました。ところが宋は逃亡者を受け入れたばかりか、我らがしばしば逃亡者の姓名を出して探索を求めても、童貫は差し出しませんでした。盟約を結んでからまだ一年も経たぬうちからもうこの始末。万世にわたり盟約を守るなど、とても望めません。それに西方はまだ安定しておりません。もし山西の諸郡を譲渡すれば、我が軍は駐屯の地を失い、西方を奪おうにも、持久戦が難しくなります。どうか宋には与えないでいただきたい。」そこで金の君主はただ武・朔の二州だけを宋に譲渡した。


(35)六年(1124)三月、金人は宣撫司に使者を派遣し、趙良嗣の許可した糧二十万石を要求した。しかし譚稹は「二十万石などとんでもない。良嗣の口約束など証拠にならぬ」と言って与えなかった。金人はこのため激怒した。


(36)六月、金人が平州を降し、張敦固を捕らえ、これを殺した。


(37)詔を下し、燕雲の回復以来、京師と両河の民が税に苦しんでいることとて、京西・淮南・両浙・江南・荊湖・四川・閩広に免夫銭を納めさせた。免夫銭とは、一夫ごとに三十貫、漕臣に運搬を督促させた税で、違反者は軍法をもって処断させた。また詔を下し、宗室・外戚・宰執の家、および宮観・寺院に対しても一律に税を納めさせた。こうして全土にあまねく徴税したが、収税し得たのはわずか二千万緡に過ぎず、しかも怨嗟の声は全土に広まった。


(38)八月、譚稹が〔両河燕山路宣撫使を〕辞めた。また童貫を領枢密院事・領河燕山路宣撫使とした。

これ以前、金人は拓跋の旧領雲中二千里を夏(西夏のこと)に与え、ただ武・朔の二州だけを宋に譲渡した。ここに至り、夏人は兵を出して武朔二州の国境に攻め入った。譚稹は兵を出して防戦し、数度にわたり戦闘を繰り広げたが、夏は兵を引かなかった。また金人は朝廷(宋朝のこと)の張瑴隠匿を非難し、兵糧を供給しないばかりか、応州と蔚州に攻め入り、宋の守臣を駆逐した。朝廷(宋朝のこと)は稹の失策を罰し、詔を下して致仕させ、貫に交代させた。

当時、遼の君主の延禧が夾山にいた。帝(徽宗のこと)はこれを誘致すべく、まず僧侶を派遣し、御筆と絹書を送って意を通じさせた。延禧が帰順を許したので、書状を詔に変え、皇弟の礼による待遇、燕越二王の上の位を許し、さらに千間の私邸と女楽三百人を与えることにした。延禧はこれに大喜びした。貫の派遣は名目こそ稹に代わって山後の守備に当たることにあったが、実際は延禧が投降を約束したので、それを出迎えに行ったものだった。しかし延禧は「中国は恃むに足らず」と言って、結局は投降しなかった。


(39)この月、燕雲の回復をもって天下に恩赦を下した。


(40)七年(1125)六月、童貫を広陽郡王に封じた。

帝は神宗の遺訓――燕の全土を奪回する者がおれば、褒美に土地を与え、王爵を授けよ――を引き、貫を王に封じた。


****************************************
(1)以下、原文は国名を省略するが、訳文では適宜これを補足した。ただし煩瑣を避けるため〔〕を省略した。
(2)この一文不詳。
(3)建中靖国に諫言を受け入れたが、蔡京によって紹述が始まり、対立集団に先帝誹謗のレッテルを貼り付け、政界から追放したという意味。
(4)枢密院の長官が鄭居中であることによる。
(5)〔 〕は『三朝北盟会編』によって補った。
(6)卞荘は人名。両国を相争わせ、その弱体につけこんで、第三国が両国とも手中に収める計略を立てた。『史記』蘇秦伝に見える。
(7)歴代皇帝が盟約を守ってきたので、孝行者なら歴代皇帝の行いを継承するはずだ、という意味。
(8)歳幣は宋と金が契丹を挟撃することに対する約束だった。だから宋が独力で燕州を後略すると、挟撃の約束が破綻し、金は宋から歳幣を得られなくなる可能性が生じる、と金は考えたのであろう。
(9)遼の天祚帝の年号を続けて用いたことを意味する。
(10)平州の領地化を認めず、「宋の威光にひれ伏す外国」扱いにした、という意味。



© 2008-2009 Kiyomichi eto Inc.

inserted by FC2 system