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方臘之乱(宋江附)


(01)徽宗の宣和二年(1120)冬、睦州清渓県の民の方臘が叛乱を起こした。

方臘はむかしから県の堨村に住んでいたが、左道を用いて民を惑わしていた。これ以前、唐の永徽の頃、睦州の女子の陳碩真が叛乱を起こし、文佳皇帝を自称したことがあった。そこで睦州は天子の基業の地と言われるようになった。臘はこの伝説に惑い、自信を深めていった。

県境の梓桐・幇源には険難な山谷が広がり、民や物が溢れていた。また漆楮杉材が豊富で、豪商らの出入りも多かった。臘は漆園を有していたが、しばしば造作局の苛酷な取り立てにあった。臘は怨みを募らせていた。当時、朱勔の花石鋼の騒動があり、人々の怨みを買っていた。臘は民の不満を利用し、ひそかに貧しき人や遊び人を集め、朱勔の誅殺を名目に掲げて乱を起こした。

臘はみずから聖公を名乗り、永楽の元号を建てた。官吏や将軍を設け、頭巾の飾りで階級を分けたが、それは赤巾以下全六階級あった。弓矢や甲冑といったものはなく、ただ呪術でもって人々を煽動した。臘は集落を焼き払い、金帛や子女を略奪し、良民を脅迫して兵に駆り立てた。〔当時、〕人々は太平に泥み、兵を知らなかった。このため軍太鼓の音を聞いただけで、両手を組んで命令に従った。十日も経たぬ間に数万の兵が集まった。両浙都監の蔡遵と顔坦は討伐に向かったが、いずれも息坑で敗死した。


(02)十二月、臘は清渓を降し、ついに睦州と歙州を陥れた。東南の将軍の郭師中が戦死した。

〔臘の賊軍は〕北辺の桐廬・富陽などの県で略奪を行い、さらに杭州に逼った。郡主の趙霆は城を棄てて逃亡し、州城は陥落した。臘は制置使の陳建と廉訪使の趙約を殺し、火を放つこと三日、無数の死者が出た。官吏を捕まえれば、必ず体を切り刻んだ。また肺や腸をつかみ出して膏湯で煮込み、無数の弓矢を放ち、あらゆる拷問を加えた。こうして怨みに報いたのである。

警報が到達したとき、ちょうど京師では北伐のための兵が集まっていた。しかし王黼は帝に叛乱を知らせなかった。このため暴徒は日が経つごとに強大となり、叛乱に加わるものは膨れあがり、東南に激震が走った。

淮南発運使の陳遘は意見書を提出し、「臘の賊は強く、東南の兵は弱い。京畿の兵および鼎州と澧州の槍牌手を急ぎ派遣し、賊軍の瀰漫を防いでいただきたい」と訴えた。帝は意見書を手にし、始めて事の重大さを知った。そこで北伐の議を止め、童貫を江淮荊浙宣撫使とし、譚禛を両浙制置使とし、禁軍および秦州・晉州の蕃漢兵(辺境異民族と漢族の兵)十五万を授け、賊軍の討伐に向かわせた。


(03)三年(1121)春正月、方臘は婺州を陥れた。また衢州を陥れた。衢州の守臣の彭汝方は捕らえられたが、賊を罵って死んだ。賊は城内の人間を皆殺しにした。


(04)二月、方臘は処州を陥れた。また賊将の方七仏に六万の兵を授け、秀州を襲わせた。統軍の王子武が防戦に当たった。たまたま〔朝廷の〕大軍が到着し、兵を合わせて賊を撃ち、九千の首を斬った。賊は杭州まで撤退した。


(05)夏四月、童貫は兵を合わせて方臘を攻撃し、賊軍を破った。方臘を捕らえて帰還した。

童貫と譚禛の前鋒は、青河堰に到着すると、水兵と陸兵を並進させ、つぎつぎと方臘の軍を破った。臘は官舎・府小・民居を焼き、宵のうちに清渓県の幇源洞に逃げ帰った。〔朝廷の〕将軍の劉延慶・王稟・王渙・楊惟忠・辛興宗・王淵らが相継いで到着し、賊の手にあった城を全て奪還した。

貫らは兵を合わせ、幇源洞で臘に攻撃を加えた。しかし臘の賊軍はなお二十万もいた。賊軍は官軍と争い、岩山に三つの洞窟を作って身を潜めた。このため将軍らは侵入する場所すら分からなかった。

王淵の武将の韓世忠は渓谷に潜行し、土地の女から近道を聞き出し、身を挺して前に進んだ。道なき道を進むこと数里、洞窟の穴を攻撃し、数十人を叩き殺し、臘を生け捕りにした。辛興宗は兵を出して洞窟の入り口を塞ぎ、功績を横取りした。さらに臘の妻子および偽相(ニセの宰相)の方肥らを捕らえた。こうして臘の賊軍は滅び去った。

臘の乱は全六州五十二県に及び、平民二百万を殺した。略奪された婦女は、賊の巣窟から逃げ出すと、裸のまま林の中で首を括って死んだが、それは百里に及んだ。


(06)五月、御史中丞の陳過庭を黄州安置とした。

睦州の叛乱が起きると、過庭は「叛乱を招いたのは蔡京、叛乱を養成したのは王黼です。二人を流罪に処せば、叛乱は自然と収まります」と言った。また「朱勔親子はもともと罪科ある小人でした。それが貴顕の者と結託し、窃かに地位と名誉を私しました。その罪悪は積もりに積もっております。彼らの刑罰を正し、天下に謝していただきたい」とも言った。三人はこれを聞いて怨んだ。そのためこの左遷があったのである。


(07)八月、童貫に大師を加え、楚国公に封じた。方臘平定の功を称えてのことである。

方臘が処刑されると、睦州を厳州に改め、歙州を徽州に改めた。


(08)宣和三年(1121)二月、淮南の盗賊の宋江は京東路の州郡を襲い、海州に向かった。張叔夜が賊軍を破ったので、江は降伏した。

宋江は盗賊になると、三十六人を従えて河朔の地を暴れ回り、転々と十郡を略奪してまわった。官軍はその鋭鋒を止められなかった。亳州知事の侯蒙は意見書を提出し、「江の才能はきっと人に過ぎるものがあるでしょう。彼らの罪を赦し、方臘の討伐に従事させ、その罪を贖わさせた方が宜しい。」帝は蒙を東平府知事に命じたが、蒙は赴任する前に死んだ。

また張叔夜を海州知事に命じた。江が海州に向かうと、叔夜は密偵を用いてその行き先を探った。江はまっすぐに海辺に向かい、巨舟十余艘を強奪し、そこに戦利品を載せた。叔夜は決死隊を千人集め、城近くに伏せさせた。また軽装兵を海辺に繰り出し、賊徒を誘導しつつ戦わせた。またこれより先に壮士を浜辺に伏せさせており、戦いが始まると、火を射かけて舟を焼かせた。賊はこれを知ると戦意を失った。伏兵がこの隙に乗じ、賊の副将を捕らえた。このため江は降伏した。



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