HOME目次金人入寇(1)

羣奸之竄


(01)徽宗の宣和七年(1125)十二月、帝は金兵の接近を理由に、皇帝の位を太子の桓に譲った。

当時、蔡京らの失策は天下に知れ渡っていたが、朝廷の高官は京に抜擢されたものばかりだったので、帝に事実を直言するものがなかった。ここに至り、太学生の陳東は学生らを率いて意見書を提出した。

これほどの危機的状態に立ち至ったのは、蔡京が前にあって世の中を壊乱し、梁師成が内にあって害毒を流し、李彦が西北に怨みを結び、朱勔が東南に怨みを結び、王黼と童貫が夷狄二国との間で領土の紛争を起こしたからです。彼ら六名の賊徒は、罪名こそ異なりますが、実質は同じ。陛下におかれましては、彼らを市中で斬り、その首を晒して、天下に謝罪して頂きたい。

これ以前、太上皇(徽宗)は崔鶠を寧化軍通判に抜擢し、さらに殿中侍御史として召還していた。ほどなく帝(欽宗)が即位すると、鶠は右正言を授けられた。鶠は意見書を提出した。

ここ数十年来、王公卿宰はみな蔡京の門から出ております。つまり一人の門生が死ねば別の門生を用い、一人の故吏が逐われれば、別の故吏がやって来る始末。代わる代わる〔京の一味が〕政柄を持ち、一人として己に背かぬようにさせていたのです。これが京の根本的なやり方です。これでは事実を陛下のお耳に達することはできますまい。

近ごろ諫議大夫の馮澥は意見書を提出し、「〔煕寧・元豊の時代〕士には異論がありませんでした。これは太学の盛事です」と申したといいます。この澥の発言は奸言です。王安石は己に異論ある者を排除し、己の著した三経義(いわゆる『三経新義』のこと)によって士大夫を登用しましたが、それは軍法で兵卒を駁するようなやり方でした。少しでも異論を持てば、罪は学官(担当教官)にまで及んだのです。蘇軾・黄庭堅の文章、范鎮・沈括の雑説などは、ことごとく厳罰重賞(1)によってその収蔵を禁じました。多くの学徒を監理したそのやり方は、余りに厳密でした。しかるに澥は今なお「太学の盛事」などと発言しております。これほどの欺瞞があるでしょうか。(2)

京と澥の罪を尋ぬれば、それは天地の運不運の関わるところ、国家治乱の分かれ目です。看過してよいものではありません。仁宗・英宗は木訥諫言の人を選び、子孫のために残されました。ところが安石は彼らを流俗と見なし、すべて放逐してしまいました。司馬光が再び政柄をとって以来、元祐の治世があり、天下は泰山の如く安んじました。しかし章惇・蔡京が紹述を唱え、人主を欺罔してからというもの、紹述によって世の道徳を治めれば天下は諂佞に傾き、紹述によって世の風俗を治めれば天下は欺罔に傾き、紹述によって財政を用いれば公私ともに財が尽き、紹述によって人を抜擢すれば優れた人物はいなくなり、紹述によって国境を開拓すれば敵の軍馬が京師を襲う始末です。

元符の時代、詔に応じて意見書を提出した人々は数千人。京は腹心を用いてこれを調査させ、己と同じ意見のを正とし、己に異なる者を邪としました。澥は京と同じ考えの人間です。ですから正に列せられました。天下を破壊すること、京に至って窮まったと申せましょう。この上、他の一味がまた天下を破壊するのを坐視してよいものでしょうか。京の邪悪な謀略は概ね王莽と同じですが、その一味の多さは莽を過ぎるものがあります。願わくは京を斬り、天下に謝罪していただきたい。

鶠は何度も意見書を提出したが、いずれも激越なもので、頗る当時の人々の注目を集めた。


(02)欽宗の靖康元年(1126)春正月、王黼は金兵の接近を知り、命を待たず、家族を連れて東方に逃亡した。詔を下し、黼を崇信軍節度副使に降格し、永州安置とした。

呉敏と李綱が黼を誅殺するよう求めたので、開封尹の聶昌に処理を任せた。昌は武士に後を追わせ、雍丘南部の民家で黼を殺させると、黼の首を差し出した。帝は即位したばかりというので、大臣の誅殺を重大視し、盗賊に殺されたことにした。また李彦は死を命ぜられ、その家財は没収された。朱勔は田里に放逐された。

勔は花石によって帝に取り入り、民草に害毒を流すこと二十年余、昇進を続けて寧遠軍節度使にまでなった。蘇州に居を構え、公然と民の財産を搾取した。自邸の園池は禁中をまね、服飾や日用品も御前をまねした。また花石の運搬に託けて数千の兵を集め、己の警護に充てた。その権勢は絶大で、東南の部刺史・郡守は勔の息のかかったものが多く、つまらぬ卑しい者まで〔高官にありついた〕。(3)。このため当時「東南の小朝廷」と呼ばれていた。

勔は上皇の末年に頗る親任され、まるで内侍のごとく、宮中にあって臣下の言葉を伝え、帝の言葉を臣下に伝達し、謁見に宮嬪(後宮の女官)を避けることもなかった。勔の一門はみな高官にありつき、その使用人ですら金紫光禄大夫を与えられた。このため世の人々は切歯扼腕した。ここに至り、勔の力で官を与えられた者は全て罷免された。

当時、二府(中書と枢密)には宣和の旧人(蔡京の息のかかった官僚)が多かった。秘書郎の陳公輔は言った。――「蔡京と王黼が権力を握って二十余年、台諫(諫議大夫と御史台)は全て縁故の者を用いました。例えば唐重・師驥は太宰の李邦彦の推薦、謝克家・孫覿は纂修の蔡攸の推薦です。この四人に台諫を任せても、彼らは絶対に宰相大臣の過失を直言しないでしょう。願わくは群臣の中から質朴純情、清貧に甘んじ、権勢に阿らず、血気盛んな者を探し求め、その者に台諫の任を授けていただきたい。任ずる所に人を得れば、礼義廉恥は徐々に回復しましょう。敵国がこれを聞けば、きっと畏れを抱くはずです。」


(03)乙未(二十九日)、梁師成を彰化節度副使に降格した。

師成はその晩年ひどく賄賂を求めるようになった。士大夫で銭数百万を納めるものがいたので、献頌の上書を名目に廷試に参加させた。合格発表の日、師成は帝の側に侍し、耳元で囁いて順位を動かした。師成の小吏の儲宏も甲科に合格したが、役職は今までと同じだった。師成は寡黙のようでいて激越なところがあり、折を見てはあれこれ口を出していた。

王黼が鄆王楷を太子とすべく謀略を張ったところ、師成はきつく太子(後の欽宗)を守り、その地位を保全した。上皇が東方に行幸(4)したとき、寵臣の多くは上皇に付き従い、己の罪を避けようとしたが(5)、師成は自身の旧恩(6)を恃んで京師に止まった。しかし太学生の陳東が師成の罪を訴え、布衣の張炳も弾劾したので、ついに降格された。開封府の吏に配流先まで護送させた。八角鎮に到着したところで、死を命ぜられた。


(04)二月甲寅(十八日)、蔡京を秘書監に降格し、南京分司とした。童貫を左衛上将軍とし、池州居住とした。蔡攸を太中大夫とし、提挙亳州明道宮とした。このとき三人は上皇に付き従っていたが、陳東の弾劾によって降格された。


(05)〔四月〕癸丑(十七日)、童貫を柳州(7)安置に左遷した。

吏部に〔従来の〕過剰な恩賞を調査させた。およそ楊戩・李彦の公田、王黼・朱勔の宮廷費、童貫・譚稹などの西北の師、孟昌齢父子の治水事業、夔蜀・湖南の開拓、関陝・河東の貨幣改訂、呉越・山東の茶塩・陂田の税、宮観・池苑の増築、後苑・書芸局・文字庫等の浪費は廃止され、近臣の爵位恩賞――献頌・効用・宮廷費・殿試参加の特別許可などによって授与されたもの――は全て剥奪された。


(06)秋七月乙丑朔、元符上書邪党の禁を解いた。


(07)乙亥(十一日)、蔡京を儋州に竄し、蔡攸を雷州に竄し、童貫を吉陽軍に竄し、趙良嗣を柳州に竄した。


(08)乙酉(二十一日)、詔を下し、蔡京の子孫二十三人を分居の上で遠方に竄し、恩赦による赦免を禁じた。この日、蔡京が潭州で死んだ。

京、字は元長、興化軍仙游の人。煕寧三年の進士。天性の兇悪狡知、知謀を弄して人を動かし、童貫と結託して思わぬ出世を手に入れた。人主の前ではその心の隙につけいり、保身の計略を張った。

帝は京の奸悪を見抜き、罷免と復帰を繰り返した。京は罷免を聞きつけると、いつも帝に目通りし、地面に頭をすりつけて〔罷免の撤回を〕哀願し、もはや〔宰相としての〕廉恥はなかった。利を見ては義を忘れ、兄弟父子でありながら、秦と越(8)ほどに反目しあった。

晩年は自宅で政務を執った。そのため出世を望む人々は京の家に群がり、使用人に賄賂を送ったものは、みな美官を手に入れた。こうして綱紀法度は崩壊し、名前だけのものになった。京の一味は堅く結束し、牢固として破ることが出来ず、ついに宗廟の災禍を招いた。京は左遷先で死んだとはいえ、世の人々はそれでも死刑にならなかったことを残念がった。


(09)辛卯(二十七日)、監察御史の張徴に童貫を誅殺させた。

貫は若くして李憲の門下生となり、人に取り入るのがうまかった。宮廷の側役になると、人主のちょっとした動きを察知し、人主の求めに先だって必要物を手配した。貫は屈強な偉丈夫で、十数の顎髭を蓄え、鋼鉄のような肉体のもち、とても宦官には見えなかった。また度量があり、金銭に執着せず、後宮の妃嬪らに物を贈っては、帝と親しい女官と結託した。そのため貫の誉れはいつも帝の耳に届いた。帝の寵愛が明白になると、貫の家に群がる人々は市場さながらだった。貫の推薦で地方の高官や高級官僚になったものは数多くいた。

貫は兵権を握ること二十年、その権勢は一時を傾け、軍を動かす権限は制勅をも越えるほどだった。貫の過失を弾劾する者がいたときのこと、帝は方劭を偵察に向かわせた。貫は劭の一挙手一投足を観察させ、前もってひそかに帝に〔己に都合のいいことを〕報告し、かつ他の事をかき集めて〔劭を讒言し〕た。このため逆に劭が処罰され、配流先で死んだ。

貫は悪事を極め、災禍を大きくし、害毒を天下に流した。死をもってしても償い得るものではなかった。


(10)広西転運副使の李昇之に趙良嗣を誅殺させた。首を箱詰めにして都に運ばせ、市で晒し首にした。


(11)九月、蔡攸と弟の翛、および朱勔を誅殺した。

これ以前、勔は循州に竄され、家財を没収されたが、三十万畝に及ぶ田地とそれ相当の財物が見つかった。さらに「攸は燕山の戦を起こし、天下に災禍を及ぼした。とても死罪は免れない」と弾劾するものがいた。ここに至り、使者を派遣し、三人を配流先で斬らせた。


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(1)書物の所持を厳罰によって禁じ、民間の書物は賞与を与えて買いあさり、市中に出回らないようにしたという意味。
(2)以上『諸臣奏議』巻八十三の上欽宗論王氏及元祐之学により潤色した。
(3)文が成立しないので、『宋史』朱勔伝の「勔復得志、聲焰熏灼。约人穢夫、候門奴事、自直祕閣至殿學士云々」に拠り補う。
(4)徽宗が金兵を避けて東方に逃亡したことを指す。次篇の金人入寇に見える。
(5)蔡京政権倒壊後、その関係者は処分を畏れ、庇護者の上皇に付き従い、開封を後にした。
(6)皇太子を保全したことを指す。
(7)『宋史』本紀は郴州とする。
(8)非常に隔たりがあることの喩え。兄弟は蔡京と蔡卞を、父子は蔡京と蔡攸を指す。



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