HOME目次金人入寇(2)

金人入寇(1)


(01)徽宗の宣和七年(1125)冬十月、金の将軍の粘没喝(ネメガ)と斡離不(オリブ)が二方面から宋に侵入した。

これ以前、斡離不は平州にあった。宋に逃亡者の捜索を依頼したところ、宋の朝廷は引き渡しに応じなかった。さらに燕山では童貫と郭薬師が戦争の準備をしていると聞きつけた。斡離不はついに金の君主に申し出た。――「先に宋を伐たねば、後悔することになりましょう。」金の君主もこれに賛同したが、あえて軽挙を控えた。しかし使節の往来を重ね、宋の道路の険易、朝廷の実情、財産の多寡について、徐々に理解が深まると、耶律余覩・劉彦宗も「南朝を取りましょう。大軍を用いる必要はありません。兵糧の続く範囲の兵(1)で充分でしょう」と言った。遼の君主が捕縛されると、金はすぐに南侵を決断した。

諳勃極烈の斜也を都元帥に命じ、京師を守らせた。粘没喝を左副元帥とし、谷神を右監軍とし、耶律余覩を元帥右都監督とし、雲中から太原に向かわせた。撻懶を六部路都統とし、闍母を南京路都統とし、劉彦宗を漢軍都統とし、斡離不を監闍母彦宗両軍戦事とし、平州から燕山に向かわせた。


(02)十二月乙巳(八日)、童貫が太原から逃げ帰った。金の粘没喝が朔州と代州を攻め落とし、ついに太原を包囲した。

これ以前、金人は使者を宋に派遣し、蔚州・応州および飛狐・霊丘県の割譲許可を打診して来た。帝(徽宗のこと)はこれを信じ、受領のため童貫を派遣した。貫は太原に到着すると、粘没喝が雲中から南下していると聞き、馬拡と辛興宗を派遣し、土地割譲のことを委ねた。

拡が金の軍前に到着すると、粘没喝は兵を整えて待ち受けていた。そして拡らを官庁に呼びつけ、金の君主に謁見するとき用いる礼拝をするよう要求した。それが済むと、拡らは山後について議論した。しかし粘没喝は「お前達はまだこの両州両県が欲しいのか。山前と山後はすべて我家の領地。もはや言うべき言葉はない。お前達は数城を差し出して罪を購うがいい。はやく去ね。別に人を選んで宣撫司に送るつもりだ」と言った。拡は貫のもとにもどり、すべてを報告した。

貫、「金は建国したばかりだ。どこにそれほどの軍がある。急いて事を起こすはずはあるまい。」

拡、「彼らは本朝(宋朝のこと)が張瑴を匿ったのをひどく怨んでいますし、契丹の旧臣が急かしてもおります。ですから報復を謀っているのです。急いで防御に当たるべきです。」

貫は聞き入れなかった。

ほどなく粘没喝は王介儒と撒離拇を太原に派遣した。両名は書簡を手に到着し、背盟の件と叛臣隠匿の事を問責したが、言葉は甚だ傲慢だった。

貫、「このような大事、なぜもっと早くに言わなかったのだ。」

撒離拇、「既に戦いは始まっている。何を告げるというのだ。すぐに河東と河北を割譲しろ。そして大河(黄河)を国境とせよ。さすれば宋朝の宗社は残してやろう。」

貫はこの発言に度肝を抜かれ、うろたえた挙げ句、すぐに都にもどって善後策を練ると言って逃げ出そうとした。

太原府知事の張孝純は貫を引き留め、「金人は盟約を破りました。大王は諸路の将兵を集め、全力でこの地を守るべきです。いま大王がいなくなれば、人心は必ず動揺します。そうなれば金に河東を与えるようなものです。河東がなくなれば、どうやって河北を守るのです。どうか少しくこの地に止まり、我らとともに国恩に報じていただきたい。ましてやこの太原の地、土地は険しく城は堅く、人も戦いに慣れています。金とてたやすくは攻略できません。」

貫は怒って孝純を叱りつけ、「私は宣撫の命を受けただけで、土地を守れとは言われていない。私がこの地を守らねばならぬなら、帥臣を置く必要はないはずだ」と言って逃げ帰ってしまった。孝純は嘆いて、「日ごろ童太師にどれほどの威厳があったろう。ところが事に臨んで恐怖に駆られ、頭を抱えて鼠のように逃げ出してしまった。何の面目があって天子に見えるというのだ。」

粘没喝は兵を率いて朔州を降し、代州を落とした。都巡検使の李翼は力戦したが捕らえられ、賊を罵って死んだ。粘没喝はついに軍を進めて太原を包囲した。孝純は力を尽くして城を守った。


(03)己酉(十二日)、金の斡離不が檀州と薊州に入った。郭薬師が燕山で叛乱を起こし、金に寝返った。金は燕山一帯を完全に制圧した。

これ以前、郭薬師は詹度と同じ職務に就いていた。しかし節度使だというので、度の上席にあろうとした。度は御筆の序列と違うと詰ったが、薬師は聞かなかった。さらに常勝軍の横暴も、薬師のお気に入りというので、度は制御できなかった。朝廷は両者の仲違いに憂慮し、度の代わりに蔡靖を派遣した。靖は着任すると虚心坦懐に接したため、薬師も靖を重んじ、少しく下手に出るようになった。〔王〕安中が〔朝廷に〕召還されると、代わって靖が府知事になった。

薬師はいつも部下を使って兵器や防具を売って奢侈品を買い入れ、朝廷の貴顕や宦官に贈っていた。このため薬師の功績はいつも帝の耳に届けらた。こうして薬師は一路の権を握ると、三十万もの兵を増やした。また契丹時代の服飾を改めなかった。朝廷ではこの振る舞いが大いに問題視された。薬師は大尉に昇格すると朝廷に呼ばれたが、辞退して出向かなかった。帝は童貫を辺境視察に出し、ひそかに薬師の去就を調査させ、不信があれば連行するよう命じた。

貫が〔燕に〕到着すると、薬師はその帳下に迎拝した。貫は薬師の拝礼を避け、「貴方はいまは大尉、私と同列だ。なぜそのようなことを。」

薬師、「大尉はわが父。薬師はわが父を礼拝しただけです。それ以外にどんな理由がありましょう。」

この言葉を聞いて貫は心喜ばせた。

薬師は貫を軍の視察に迎えると、遠方の無尽の荒野に連れて行った。薬師は馬を下り、貫の前で軍旗を一たび振った。すると突如四方の山々から鉄騎が踊り出し、しかもその数は計り知れなかった。貫らは色を失い、帰朝すると帝にこう報告した。――「薬師はきっと北狄を防いでくれます。」蔡攸も裏側から支持し、薬師の親任を助言した。このため内地に備えを設けず、しばしば薬師の不穏を告げるものがおり、また薬師と金国の密書を入手したものがいても、朝廷は省みなかった。

詹度はまた「薬師は非常の時を狙っております。彼の行動は疑わしく、叛逆の心は既に萌し、その兇悪は日々甚だしくなっております」と意見した。そこでようやく官を遣わして事実を調査させることになったが、このとき既に金兵が南下していた。

斡離不は平州から檀薊二州を下し、三河に到着した。蔡靖は薬師と張令徽・劉舜仁に四万五千の兵を授け、白河で迎撃させたが、薬師らの兵は敗れて逃げ帰った。そこで薬師は手勢を使って靖と都転運使の呂頤浩を脅し、金に降伏した。斡離不は靖と頤浩を捕らえ、軍中に置いて連れて行った。こうして燕山府路の州県はすべて金のものになった。

斡離不は薬師を迎え入れると、ますます宋の実態を知った。そこで薬師に道案内をさせ、遠征軍を中国奥深くに進めた。


(04)金人が太原を包囲したとき、太常少卿の傅察は使者として金に赴いたが、国境上で斡離不の兵に遭遇し、捕らえられた。察は拝礼と降伏を強要されたが、拝礼しなかった。金兵は押さえつけて這い蹲らせようとしたが、察はますます直立した。そして繰り返し反論して屈しなかった。このため殺された。

察は堯兪の従孫で、十八歳にして進士となった。蔡京は娘をその妻にと望んだが、拒んで応じなかった。いつも慎み深い態度で、これといった特徴もなかったが、いざという時には義に殉じた。察の死を知った人々は、みなその勇壮を褒め称えた。後に忠肅の諡を贈られた。


(05)丙辰(十九日)、金兵が中山府を襲った。

帝は金人の南下を憂慮し、諸路の花石鋼および内外の製造局を廃止した。また内侍(宦官)の威武軍節度使の梁方平に禁軍を一任し、黎陽を守らせた。歩軍都虞候(禁軍の高級将校)の何灌は白時中に「金人は国を傾けての遠征です。その鋭鋒を防ぐことはできますまい。方平は精鋭を擁して北方に向かっておりますが、これでは京師に脆弱な軍だけが残ることになります。万一にも方平が支えきれねば、打つ手がなくなります。方兵を引き留め、京師を守らせた方がいい」と忠告したが、容れられなかった。


(06)戊午(二十一日)、皇太子の桓を開封府の牧にした(2)

帝は金軍の切迫を憂慮していた。蔡攸は帝の心に禅譲の意のあることを察知し、給事中の呉敏を招いて謁見した。宰執一同の揃う中、敏は意見書を読み上げ、さらには「金人は盟約を違え、兵を挙げて従順な我らを襲っています。陛下はどのように処置なさるおつもりか」と発言した。帝は不安におびえた様子で、「どうすればいい」と尋ねた。このとき既に東方行幸の計画(3)は決まっており、さきに李梲を出して金陵を守らせることになっていた。敏は退出すると、都堂(宰相府)に詣でて「朝廷が京城放棄の計を策すとは何事か。たとい命が下ろうとも、私は死んでも従わぬ」と発言した。そこで宰執の発言があり、梲の出向は取り止めとなり、太子を開封府の牧とした。


(07)己未(二十二日)、天下に勤王の軍を募った。

これ以前、宇文虚中は童貫の参議官だった。虚中は意見書を提出し、朝廷の失策、将帥人選の不備、これらによる夷狄の招来および自国の滅亡について極言した。王黼は激怒した。虚中は重ねて防御策を提出したが、全て聞き入れられなかった。金人が南下するに及び、貫と虚中は朝廷に帰還した。

帝は虚中に、「王黼が貴方の言葉を用いなかったばかりに、このようなことになってしまった。どうすればいいだろうか。」

虚中、「詔を下して己(徽宗のこと)を罪し、諸種の弊害を一新し、人心と天の御心を呼び戻すことが先決です。防御については、将軍に任せるしかありません。」

帝は即座に虚中に詔(4)を書かせた。その概略に云う。――

私は寡徳愚昧の資質でもって盛徳の業(歴代皇帝の事業)を忝なくした。しかし衆庶の言葉は滞り、媚び諂う人々の言葉ばかりが用いられた。恩寵あるものは権を擅ままにし、貪婪なものばかりが望みを達することになった。賢才ある士大夫らは党籍に陥り、政治の興廃は時とともに固着してしまった。徴税は民草の財を吸い尽くし、兵事は兵卒の力を困憊せしめた。数々の施策は無益に終わり、奢侈のみ風を成した。専売の利源は底をつきながら、利を貪るものはなお誅求して止まず、軍事の衣糧を求めること時なくして、徒食するものは坐しながら巨利を得た。天譴の災異が降っても不詳私は悟ることができず、民草の怨みが募っても気づかなかった。己の過ちを悔いるも、もはや及ばぬところだった。優れた方法を模索し、この混乱を解きたいと思う。望むらくは、四海勤王の師に二辺防御の方略を述べてもらいたい。累聖仁厚、天下百年余の涵養を思えば、必ずや四方忠義の人がこの国家一日の急に来たると信ず。天下の方鎮、郡県の守令は、各々勤王の兵を率いて立て。奇功を立てたる者は並びに特恩を授く。民草に隠れる異能にして、国家の大計を画し得る者、あるいは境外に出使し得る者(5)は、特別に任用するであろう。朝廷内外の臣寮には並びに直言極諫を許す。

帝はこれを見て「改過に吝かでない。すぐに施行せよ」と言った。虚中はさらに宦官の放逐および道官・大晟府・行幸局等の諸局の廃止を求めた。


(08)煕河経略使の姚古と秦鳳計略使の种師中に援軍を要請した。

当時、古と師中を呼び、本路の兵に鄭・洛の兵を合わせ、外から河陽を援護させ、内には京城を守らせようとした。帝は宇文虚中を河北河東路宣諭使とし、その軍を護らせた。虚中は檄文によって古と師中の軍を呼び、すぐに汴京の援護に向かわせた。


(09)庚申(二十三日)、呉敏を門下侍郎とした。

帝はますます東方行幸を考えるようになった。

太常少卿の李綱が敏に言うには、「開封府に牧を立てたのは、太子に留守を任せるためではなかったはず。現今敵勢は猖獗を極めている。太子に位号を伝えねば(6)、天下の豪傑を招くことは出来ない。」

敏、「監国(7)ではどうか。」

綱、「肅宗の霊武でのこと、建号でなければ国家の回復は難しかった(8)。しかるに建号の議が明皇の意から出なかったのは後世の惜しむところ。陛下は聡明仁恕。貴方はなぜ陛下のために発言しないのです。」

翌日、敏は帝に謁見すると、綱の発言を事細かに伝えた。帝はすぐさま綱を呼んで議論させた。綱は腕を刺して得た血で訴状を書き上げ、こう訴えた。――

皇太子の監国は常時の礼に過ぎません。しかし今や大敵が攻め入り、我が国の安危存亡はごく僅かのことに決します。ただ常礼を守るのみでは、如何ともし難いものがあります。名分正しからずして大権に当たっても、天下に号令を下すことは出来ません(9)。皇子に〔皇帝の〕位号を仮し、陛下のために宗社を守らせ、将軍兵卒の心を収め、死をもって敵を防がせるのです。かようにしてようやく天下は保たれるでしょう。

帝はついに意を決した。


(10)辛酉(二十四日)、宰相一同が帝に具申した。帝は李邦彦を留め、敏と綱の言葉を伝え、「伝位東宮(位ヲ東宮ニ伝フ)」の四字を書いて蔡攸に下げ渡した。

詔を下し、皇帝の位を太子の桓に譲り、自身は道君皇帝と名乗った。太子は禁中に入ると御服を渡された。涙を流して固辞したが許されず、皇帝の位に即いた。帝を尊び教主道君太上皇帝とし、龍徳宮に退居させた。皇后を太上皇后とした。李邦彦を龍徳宮使とし、蔡攸と呉敏を副官とした。


(11)給事中の李鄴を金に派遣し、内禅(太子への禅譲)を報告させた。また通好を求めさせた。斡離不は引き返そうとしたが、郭薬師が「南朝にはきっとまだ備えはないはず。すぐに向かった方がいいでしょう」と言ったので、その発言に従った。


(12)甲子(二十七日)、金の将軍の斡離不が信徳府を落とした。粘没喝が太原を包囲した。京東・淮西・両浙に詔を下し、援軍を求めた。


(13)欽宗の靖康元年(1126)春正月丁卯朔、詔を下し、朝廷内外の官僚に得失を直言させた。

金人が侵入して以来、頻りに求言の詔(10)を下していたが、事態が少しでも緩むと、裏で発言を阻むものがいた。そのため当時の人々はこう言いあった。――「城門が閉じれば言路が開く。城門が開けば言路が閉ざす」と。


(14)戊辰(二日)、金の斡離不が相州と濬州を攻め落とした。

威武軍の梁方平は禁軍を率いて黎陽の河北岸に駐屯していた。しかし金の将軍の迪古補の突然の到来に、方平の軍は壊滅し、逃亡してしまった。河南の橋の守備兵は、金兵の軍旗を遠目に確認するや、橋を焼いて逃げ出した。河北河東路制置副使の何灌は二万の兵を率いて滑州を守っていたが、〔金人到来の〕報告が伝わるや、軍は瓦解し、逃亡した。河南の守備兵で敵を防いだ者は一人もいなかった。

金人は小舟を取り寄せて河を渡り、五日を要し〔て渡り終え〕た。金の騎兵が渡江を始めたとき、まだ歩兵は渡江していなかった。渡江中は隊列を維持できなかった。このため金人は「南朝には人がおらぬ。もし一ニ千の兵でもって河を守れば、我らに河を渡る術などなかったものを」と笑った。こうして金人は滑州を攻め落とした。


(15)己巳(三日)、何灌が逃げ帰った。

帝は金の将軍斡離不の渡江をうけ、すぐさま親征の詔を下した。詔に曰く――「私は金国の背盟、薬師の叛逆、辺境侵略、吏民強奪をもって、たとい即位の初めとはいえ、敢えて皇統付託の重責を忘れるわけにはいかぬ。この度の遠征は已むに已まれぬもの。従って出兵に名分はある。速やかに六師に戒厳を命じ、みずから天討を行わん。親征に関わる事案について、有司は並びに真宗皇帝の澶淵出御の故事に倣え。」

李綱を親征行営使とし、呉敏を副官とし、聶山を参謀軍事とした。


(16)蔡攸を太上皇帝行宮使とし、宇文粋中を副官とした。上皇の東方行幸に扈従することで、敵を避けたのである。


(17)庚午(四日)、上皇は亳州に到着した。ここに至り、官僚の多くが逃げ出した。

これ以前、童貫は陝西にいたとき、体格の良い若者を集めて勝捷軍を作ったが、それは数万人にもいた。貫はこれを親衛隊に仕立て、環状に宿舎を列べておいた。太原から京師に帰還すると、ちょうど上皇の南方行幸に出会したので、すぐ勝捷軍を指揮して上皇に付き従った。上皇が浮橋を渡ったときのこと、衛兵の中にすがりついて泣き出すものが現れた。貫は進行が後れることばかりを気にし、親衛隊に弓を射させた。そのため百人余りの者が矢に倒れ、道路は涙で埋まった。

蔡京も一族を引き連れて南方に逃げ、自身の生存のみを考えていた。


(18)京師は戒厳下に置かれていた。

宰相一同は、襄州や鄧州に居を移し、敵の攻撃を避けて欲しいと、帝に訴えた。しかし行営参謀官の李綱が「道君皇帝は宗社を陛下に授けられました。それを他人に任せて逃げ出して宜しいのですか」と言ったので、帝は黙ってしまった。

太宰の白時中、「都城(開封府のこと)では守り切れまい。」

綱、「この都城に及ぶ城塞などありませんよ。それに宗廟社稷(開封府のこと)は百官万民のいるところ。これを捨てて、どうなさるおつもりです。今すべきことは、軍馬を整え、人心を結束させ、力を合わせて城を守り、勤王の兵の到着を待つことです。」

帝、「誰を将軍にすればいいだろう。」

綱、「白時中と李邦彦は兵事に疎いとはいえ、宰相の位号を持つもの。ならば将兵を指揮して敵の攻撃を防ぐのも、宰相の務めと申せましょう。」

時中は怒りを露わにして、「お前なら兵を率いて戦地に出られるのか。」

綱、「陛下が私を臆病者だと思われず、もし兵を統べよと仰せなら、願わくは死を以て報いるまでのこと。」

そこで綱を尚書右丞・東都留守とした。

綱は帝のために国都退去の不可を力説し、さらに「明皇は潼関の陥落を聞くや、すぐに蜀に逃亡し、ために宗廟・朝廷は賊の手に落ちました。今にも四方から勤王の兵が押し寄せようかというこの時、軽々しく明皇の轍を踏まれてはなりません。」

このとき内侍から中宮の出国が伝えられた。帝は顔色を変え、慌てて御榻(腰掛け)を下げ渡し、「留まることはできぬ。止めてくれるな。私は陝西で挙兵してから都城を取り戻すつもりだ。」

綱は泣いてひれ伏し、死を賭して帝にすがりついた。たまたま燕王と越王がやってきて、二人とも京師の固守を主張した。このため帝の心も少しく収まり、綱を顧みてこう言った。――「私はお前のためにここに残ろう。兵を整え、敵を防げ。すべてお前に一任する。ゆめゆめ手抜きがあってはならぬぞ。」

綱は恐懼して命令を引き受けた。

この夜、宰相一同はまたしても繰り返し帝に脱出を説いた。帝は彼らに従い、明朝の実行を決意した。夜明け、綱は急ぎ朝廷に向かうと、武装した近衛兵が乗輿(皇帝の乗る輿)を守っていた。綱は近衛兵に向かって叫んだ、「諸君等は宗社を守りたいのか、それとも逃げ出したいのか。」兵たちは「死んでこの地を守りたい」と答えた。

綱は帝に謁見すると、「陛下はあのとき私の訴えを聞き入れられました。それがまたも行幸を仰せとは、一体何事です。六軍(禁軍のこと)の父母や妻子は都城に住んでおります。だから彼らは死を賭してこの地を守ろうとしているのです。万一道中で彼らが都城に帰りでもすれば、陛下は誰とこの国を守ると言うのです。ましてや敵の騎兵はすぐそこまで逼っているのです。乗輿がまだ近いと分かれば、俊足の騎兵でもって追撃するでしょう。これをどうして防ぐおつもりですか。」

帝は事態を悟り、中宮を呼び戻した。禁衛の六軍はこれを知り、ひれ伏して万歳を叫んだ。


(19)辛未(五日)、帝は宣徳楼に臨んで六軍に命令を下し、ようやく京師の防衛が決定した。李綱を親征行営使とし、〔京師防衛に必要な〕施策を便宜に処置させた。侍衛都指揮使の曹曚を副官とした。

都城四壁の防備を固め、百歩法によって兵を分け(11)、臨戦態勢を布いた。防衛体制がほぼ整ったとき、金人は既に城下に達していた。


(20)壬申(六日)、使者を派遣し、各地に勤王の兵を督促させた。


(21)癸酉(七日)、斡離不の軍が都城の西北に達した。

斡離不は牟駝岡の天駟監に陣取り、そこで馬二万匹と膨大な飼料を入手した。この地を熟知していた郭薬師が、金の兵を誘導したのであろう。

帝は群臣に対策を議論させた。李邦彦は地を割譲して金と和平することを力説し、李綱は攻撃の便を唱えた。帝は邦彦の意見に従い、虞部員外郎の鄭望之と高世則を金軍に向かわせた。しかし二人がまだ金の陣営に到着する前に、金の使者の呉孝民と遭遇したので、みなして都城に引き返した。

この夜、金人は宣沢門を攻め、河から数十艘の火船(12)を向かわせた。李綱は城門に赴き、決死隊二千人を募って拐子陣を布いた。城下に火船がやって来ると、石を投げて破壊させた。また蔡京の家の山石で門を埋めた。壮士を城から降ろし、敵の武将十数人および敵兵百数人を殺した。

金人は宋の防備が充実しているのを知り、また道君が既に内禅したのを受け、夜明けとともに軍を退けた。


(22)甲戌(八日)、金の使者の呉孝民が帝に謁見した。そこで張瑴隠匿の罪を問い、童貫・譚稹・詹度の引き渡しを求めた。また「上皇との約束は既に過去のこと、もはや議論に及ばない。これとは別に、少帝が金と誓書を取り交わし、友好を結んでいただきたい。そのために親王と宰相を我が軍によこしていただきたい」と言った。

帝は派遣すべき大臣の名を求めたところ、李綱が願い出た。しかし帝は許さず、李梲に命じた。綱は「国家の安危はこの一挙に繋っております。李梲のような臆病者では、国家の大事を誤りましょう」と反論したが聞き入れられず、ついに梲を金軍に派遣した。

梲が金の陣営に到着すると、斡離不は武威を誇り、南面して座っていた(13)。梲は北面して再拝し、膝を付けて前に進み、恐怖のあまり発言を失した。

斡離不、「貴公らの城が落ちるのは時間の問題だ。それを攻めないのは、少帝のため、趙氏の宗社を残してやろうと思ってだ。我らの恩は実に大きい。もし貴公らが和平を望むなら、金五百万両、銀五千万両、牛馬一万頭、表段(織物の一種)百万疋を差し出せ。そして我が金の皇帝を尊んで伯父と呼べ。燕雲の住人で漢に逃げた者を返還せよ。中山・太原・河間の三鎮を割譲せよ。宰相と親王を人質として差し出せ。我らの軍が黄河を渡り終えれば、人質を帰してやろう。」

斡離不は事目書一枚を梲に下げ渡し、都城に帰らせた。梲はただハイハイと頷くばかりで、何一つ発言できなかった。かくして金の使者の蕭三宝奴・耶律中・王汭ともども都城に戻った。これら金人の要求は、全て郭薬師の差し金であった。


(23)乙亥(九日)、金人が天津門・景陽門などを攻めた。

李綱はみずから督戦に赴き、壮士を募って城から降ろし、卯から酉までの間(午前六時から午後六時まで)、敵将十四人および兵士数千人を殺した。何灌は力戦したが、ここで命を落とした。


(24)丙子(十日)、李梲が帰還した。

李邦彦らは帝に金の議論に従うよう強く勧めた。そこで帝は正殿を避け、食膳を減らし、都城の金銀および倡家の家財を借り入れ、金二十万両、銀四百万両を入手したが、このため民間の財物は空になった。

李綱、「金人が要求した金幣は、天下の財を尽くして足りません。ましてや都城だけではどうにもなりますまい。それに三鎮は国防の要。これを割譲して、いかにして国を守るのです。人質についても、宰相が行くべきであって、親王が行ってはなりません。能弁の者を遣わし、しばらく彼らと可不可を論じさせるのです。数日止め置けば、大軍が四方から集まりましょう。彼らは孤立した軍隊で我が国に深々と侵入しております。望みのものが手に入らずとも、すぐに帰ろうとするでしょう。この時に彼らと盟約を結べば、あえて中国を軽るんずる必要もなく、和睦も長からしめましょう。」

李邦彦らは、「都城の陥落は目前に迫っている。もはや三鎮どころの問題ではない。ましてや金幣の数など比較にもならぬ。」

帝は黙ってしまった。帝の意向を変えられないとみた綱は、辞任を求めた。帝は「貴方はただ外で兵を指揮してほしい。これについてはゆっくり話し合おう」と言って留意したが、綱が退席したときには、誓書は既に出来上がっていた。〔誓書は、両国の皇帝を〕「伯大金皇帝」「姪大宋皇帝」と記し、金幣・割譲地・人質・盟約の変更についても、すべて金の主張に沿ったものだった。

沈晦に誓書を持たせ、先に出発させたが、あわせて三鎮の地図も持って行かせた。


(25)庚辰(十四日)、張邦昌を計議使とし、康王構を人質として金軍に派遣し、和睦を求めた。詔を下し、金国に大の字を加えた。

これ以前、邦昌と邦彦らは強く和議を主張していたが、自身が人質になるとは思ってもいなかった。〔邦昌は〕派遣が決まると、割譲地の変更なき旨に署名するよう帝に求めたが、帝は許さなかった。康王と邦昌は筏に乗って濠を渡った。正午から夜中までかかり、ようやく金の軍営に到着した。康王は道君皇帝の第九子で、韋賢妃の腹である。


(26)辛巳(十五日)、道君皇帝が鎮江に到着した。


(27)甲申(十八日)、都統制の馬忠は京西の募兵を率いて京師に到着し、順天門の外で金軍と戦い、これを破った。金軍はしばし兵を収めたため、西の通路が少し空いた。この隙を衝いて援軍が到着したのである。


(28)乙酉(十九日)、路允迪は使者として河東の粘没喝の軍営に赴いた。


(29)丁亥(二十一日)、种師道が涇原・秦鳳の兵を率いて援軍に駆けつけた。

師道は洛陽に到着すると、斡離不の兵が京城に駐屯していることを知った。このため師道の進軍を止めて「賊の勢力は旺盛。少しく兵を汜水に止め、万全の策を練るべきだ」と言う人がいた。

師道、「我らの兵は少ない。もし迂回して進撃に出れば、形勢が暴露し、ただ辱を取ることになろう。しかし今軍鼓を鳴らして進撃すれば、彼らに我らの虚実は分かるまい。都の人々も、我らの到着を知れば、指揮も挙がろう。賊の何を憂うというのだ。」

そこで沿道に「种少保が西方百万の軍を引き連れて到着した」と触書を掲げた。こうして京西に到着するや、汴水の南方に向かい、すぐに敵の陣営に近づいた。金人は畏れを抱き、砦をやや北部に移して牟駝岡を守り、防塁を増やして自衛に徹した。当時、師道は老齢だったので、世の人々は老种と呼んでいた。

帝は師道の到着を聞くと大いに喜び、安上門を開き、李綱に迎えさせた。師道が謁見に赴くと、帝は「貴方はいま何をすべきと思うか」と尋ねた。

師道、「私は和議に反対です。女真は兵を知りません。そもそも孤立した軍隊で人の国奥深くに侵入しながら、ぶじ帰還できましょうか。それに私は西方におりましたので、京城のことは存じませんでしたが、京城を拝見いたしますと、周囲なんと八十里もあります。これをどうして包囲できましょう。城壁の高さは数十丈、兵糧も数年の貯えがあり、攻めることなどできません。城内に防塁を設け、城壁に精鋭を配して守備にあて、勤王の軍の到来を待つのです。数ヶ月もせぬうちに、夷狄はおのずと困苦するでしょう。その撤退の時を狙って、攻撃を仕掛けるのです。三鎮の地を割譲してはなりません。」

帝、「既に講和したのだ。」

師道、「私は軍旅について陛下にお答えしたまでです。他のことは存じません。」

こうして〔師道は〕同知枢密院事を授けられ、京畿・河北・河東宣撫使となった。師道は当時病に冒されていたので、拝礼を免除し、輿に乗って朝廷に入ることを許した。金の使者の王汭はこのとき朝廷にいたが、平素から振る舞いが傲慢だった。しかし師道を望み見て、少しく礼拝したようであった。帝は笑って師道を顧み、「彼がああしたのは、貴方のお陰だよ。」

金軍が河を渡って以来、京城の諸門は全て閉じられ、市には薪莞がなくなった。師道は西南の壁を開け、民の出入りを許すよう求めた。このため民はようやく心を落ち着けた。また金への金幣贈与を遅らせ、彼の気力が鈍って帰るのを待ち受け、黄河沿辺の要害を抑え、敵軍を殲滅する、これが上策だと言った。帝は政事堂(宰相府)の議論に師道を参加させた。

師道は李邦彦に見えると、「都の城壁は堅く高い。防御には充分です。相公はなぜたやすく講和などしたのです。」

邦彦、「国に兵がなかったからだ。」

師道、「それは違います。戦うことと守ることは、おのずと別。戦うには不足があっても、守るには充分です。京師には百万の民がおりますが、彼らはみな兵なのです。」

邦彦、「平素より武事を習っておらず、知らなかったのだ。」

師道は嘆いて、「相公は武事を習っておらぬと仰るが、都城防備の故事もご存じないのですか。」

また師道、「城外の民は賊に殺され、畜産も甚だ多ございましたのに、賊の手中に落ちたと聞きます。既に賊の到来を予期していながら、なぜ城外の民に住居を撤去させ、畜産を城内に入れさせなかったのです。すぐに城門を閉ざし、賊に物資を与えてしまうとは何事です。」

邦彦、「倉卒のことで、時間がなかったのだ。」

師道は笑って、「これまた大慌てですな。」

一同みな笑った。当時、各人意見を異にしていたが、李綱と師道の二人だけは意見が一致していた。しかし邦彦は従わなかった。


(30)当時、朝廷はいつも金に金幣を納入していた。しかし金人の要求は止まるところを知らず、連日のように殺戮略奪を行った。各地の勤王軍が徐々に集まりだした頃、李綱はこう言った。

金人は貪婪で厭くことを知らず、その凶悪は日々に甚だしくなっております。もはや軍を用いざるを得ません。敵兵は六万と言われておりますが、城下に集まった我れの勤王軍は二十余万おります。彼らは孤立した軍隊で〔我が国の〕中心部に侵入しております。これはちょうど虎や豹がみずから罠の中に飛び込んだようなものです。計略を張って捕らえるべく、必ずしも一度の戦力を比較する必要はありません。黄河の渡し場を抑え、兵糧の道を断ち、兵を分けて畿北諸県を回復し、精鋭でもって敵の軍営に臨み、城壁を堅固にして戦いを拒む。――これこそ周亜夫が七国を苦しめたやり方です。彼らの食糧が尽き、その疲労を待ち、檄を飛ばして誓書を取り、三鎮を恢復し、その北に帰るのを許すのです。そして彼らが河の半ばまで渡ったところで攻撃する。これが必勝の方法です。

帝は深く頷き、実施の日時を取り決めた。


(31)种氏と姚氏はもともと山西の名家だった。姚平仲は父の古も煕河の軍を率いて援軍に駆けつけたのに、种氏の功績のみ称えられるのを恐れていた。そこで「兵は急襲に堪えられる状態でなく、恨み言も聞かれます」と訴えた。帝はこれを聞き、李綱に尋ねた。綱は古の意見に従い、危急の事態に備えるべく、城下の兵を平仲の指揮下に置いた。帝は連日のように師道に戦争を急かした。師道は弟の師中の到着を待っており、春分を過ぎれば攻撃すると答えた。この時、春分までわずか八日のことだったが、帝は遅いと考えた。そこで平仲は、〔師道を出し抜くため、〕期日に先だち攻撃したいと申し出た。


(32)二月丁酉朔、姚平仲は歩兵と騎兵万人を率い、敵陣営を夜襲した。斡離不を生け捕りにし、さらに康王をも奪い返そうとしたのである。夜半、帝は宮中の使者を李綱に遣わし、「姚平仲は兵を挙げた。貴方もすぐ援軍に駆けつけて欲しい」と連絡した。

平仲が軍を出したとき、金は見張りによって事態を察知していた。斡離不が兵を出して遊撃したため、平仲の兵は敗れた。平仲は誅殺を恐れて逃亡した。李綱は諸将を率いて救出に駆けつけ、金人と幕天坡で戦い、神臂弓を射て敵兵を退けた。

師道が言うには、「敵陣への急襲は間違っていた。しかし兵法には不意を衝くという考えがある。今日の夕方、再び兵を出し、道を分けて攻撃するのも、奇策と言えよう。もし勝てずとも、その後、日が暮れるごとに数千人を出して賊を混乱させれば、十日もたたずに逃げ去るだろう。」しかし李邦彦らは臆病者で、結局どれも採用されなかった。


(33)金の斡離不は宋の使者を集め、誓約違反――兵を出したこと――を責めた。張邦昌は恐怖のあまり泣き出したが、康王は動じなかった。金人は康王を畏怖し、王汭を派遣し、、〔誓約違反を〕問責するとともに、人質を別の王を代えさせることにした。

汭が到着すると、李邦彦等は「兵を出したのは李綱と姚平仲だ。朝廷の意志ではない」と答えた。


(34)戊戌(二日)、李綱を罷免し、金人に謝罪した。親征行営司を廃止した。

この時、宇文虚中は汴京の危急を知って急ぎ上京した。逃亡兵を集め、東南の兵二万人が見つかると、独断で李邈を起こして指揮させ、汴河に駐屯させた。たまたま姚平仲が失敗し、西方の援軍が壊滅したので、虚中は縄ばしごをつたって京城に入った。

帝は〔金の陣営に〕使者を派遣し、陣営攻撃は朝廷の意志でないことを弁解させようとしたが、どの大臣も行きたがらなかった。そこで宇文虚中は命を承け、勇み金の陣営に向かった。


(35)庚子(四日)、太学生の陳東らが宣徳門で意見書を提出した。その概略は――

李綱は気持ちを奮い立たせ、後事を顧みず、身を以て天下の重きに任じております。社稷の臣と申すべきものです。李邦彦・白時中・張邦昌・李梲らは、凡庸不才、才能ある者を忌み嫌い、ややもすれば己の利を謀り、国の大計を顧みておりません。社稷の賊と申すべきものです。

陛下が綱を抜擢されたとき、朝廷内外の人々は喜びました。しかし邦昌らは仇敵のごとくこれを忌み嫌い、綱の成功を恐れ、口実を設けては失敗させております。また邦彦らは、どうしても土地を割譲しようとしておりますが、彼らは三関・四鎮を失うことは河北を棄てることだということを知らないのです。河北を棄てて、朝廷はどうして大梁に都を置けるでしょうか。また邦昌らは、金人が盟約を破らないと信じているのでしょうか。邦彦らは国家長久の計を顧みず、ただ李綱の策謀を阻んで私憤を晴らしたいだけなのです。

李綱罷免の命令が一度伝わるや、兵も民も動揺し、涙を流すものさえおりました。彼らはみな近いうちに夷狄の捕虜になるだろうと言っております。綱の罷免は、ただ邦彦らの計略に陥るだけでなく、また夷狄の計略に陥ることにもなるのです。

請い願いますには、再び綱を任用し、邦彦らを退けていただきたい。また城外のことは种師道に任していただきたい。宗廟社稷の存亡は、この一挙にかかっております。心せねばなりません。

意見書が提出されると、期せずして数万人の兵と民が集まった。たまたま邦彦は朝廷に向かうところだった。人々は邦彦の罪を数え上げ、罵り、殴りかかろうとした。邦彦は大慌てで逃げ去り、事なきを得た。呉敏は帝の命令を伝え、人々を帰らせようとしたが、みな従おうとせず、登聞の鼓を破壊し、その叫び声は大地を揺るがした。

帝は変乱が起こるのではと畏れをなし、耿南仲を人々の下に派遣し、「すでに命令は綱に下された」と号令を出した。内侍の朱拱之は期日に遅れて綱に伝達したため、人々は肢体を切り刻んで磔にした。また内侍数十人を殺した。開封府知事の王時雍が出ても収まらなかった。帝が戸部尚書の聶昌に諭旨(命令書)を出させたことで、ようやく学生らは退いた。こうして綱を詔書右丞に復帰させ、京城四壁防禦使とした。

ほどなく都の人々は种師道の存在を確認したいと言い出した。詔を下し、人々を鎮静させるべく、師道を城に入れた。師道が車に乗って到着すると、人々は簾を巻き上げ上げ、「たしかに我らの師道様だ」と言い、恭しく挨拶して散らばった。

明日、内侍を殺した士大夫および民の首謀者を処刑した。宮城への意見書の提出を禁じた。王時雍が全ての太学生を獄に下そうとしたため、学生らは恐怖に陥った。たまたま朝廷が楊時を祭酒(太学の長)に抜擢し〔学生らを説得させ〕、また聶昌を派遣し〔学生らの〕慰撫に務めたので、事態は収拾した。


(36)宇文虚中は戦中を顧みず金の陣営に向かった。巳(午前十時)より申(午後四時)に至るまで、風塵の舞う平地に座っていた。金人は弓矢を注ぎ、刀を露わにして、周りを囲んだ。しばらくして、ようやく康王に謁見できた。

次の日、王に付き従い、金の幕府に到着し、斡離不に謁見した。夕暮れ、〔金は〕王汭を虚中とともに宮城に入れ、越王・李邦彦・呉敏・李綱および駙馬の曹晟らに金銀・騾馬を求めた。さらに御筆で三鎮の国境を定めてから軍を退けると言った。

次の日、帝は代わりの人質として肅王を送った。康王と張邦昌は帰還した。


(37)詔を下し、三鎮を金に割譲した。

これ以前、金人が咸豊門を犯したとき、蔡懋は将士に向かって、「金人が城に近づいても、軽々しく石矢を放ってはならぬ」と命令したため、将士の顰蹙を買っていた。李綱が再び用いられると、「敵を殺したものには褒美をやる」と命令を出した。このため兵らは奮起し、金人は〔恐れて〕少しく退いた。

ここに至り、宇文虚中はまた詔を奉じて金に行き、三鎮の割譲を許可した。斡離不は詔を手に入れると、金幣が揃うのを待たず、閤門使の韓光裔を寄こして帰国を告げ、軍を北方に帰した。肅王もこれに従った。


(38)京師の戒厳が解かれた。

种師道は〔斡離不の兵が〕黄河半ばまで渡るのを待って攻撃したいと言ったが、帝は許さなかった。李邦彦は大旗を河東・河北に立て、「勝手に兵を動かしたものは、すべて軍法によって処断する」とした。种師道、「後々きっと国の災いなろう。」

御史中丞の呂好問は帝に向かって、「金人にとって望み通りの結果となり、ますます中国を軽視するようになりました。秋冬には必ず国力を傾注して攻めて来るはずです。すぐにも防御の備えをしなければなりません」と進言したが、聞き入れられなかった。


(39)楊時は意見書を提出した。

河朔は朝廷の重要地域であり、三鎮は河朔の重要藩鎮です。周の世宗から我が太祖・太宗に至るまで、百戦してようやく手に入れた大地です。ところが一挙にこれを北方の人に棄て与えるとか。もし敵の騎兵が疾駆し、我が国の肺肝を貫くようなことがあれば、数日ならずして京城に到達しましょう。現在、三鎮の民は死を賭して敵兵を拒んでいると言います。三鎮が前に抵抗し、我が精鋭が後方から助け起こすなら、まだ方策はあります。种師道・劉光世らは、いずれも一時の名将です。しかるに京城に到着して以来、まだ〔彼らの意見は〕用いられておりません。どうか彼らを召し出し、方略を諮問していただきたい。

意見書が提出されると、帝は出軍の詔を出した。しかし人々はどっちつかずの意見ばかり口にした。そこで時はまたこれに対する意見書を提出した。

聞くところによりますと、金人は磁州と相州に駐屯し、大名府を陥れたと言います。彼らの略奪暴行には限度がなく、誓約の筆墨も未だ乾かぬうちから、背盟に及んでいるとも。これでは私が和議を主持しようとて、とても出来ないことです。そもそも数千里の遠きを越え、人の国都を犯すのは、危険なやり方です。彼ら〔が北方に逃げ帰ったの〕は、勤王の兵が四方から集まるのを見て、恐れて帰っただけのことです。我らを愛しみ、攻めなかったのではありません。朝廷が三鎮三十州の地を彼らに与えるならば、それは夷狄を助け、我ら自身を攻めるのと同じです。

聞くところによりますと、肅王の人質については、〔敵兵が〕河に到達すれば帰すとの約束だったと言います。しかるに金は肅王を連れて行きました。これは背盟の大なるものです。私見によれば、朝廷は肅王の背盟について問責すべきであり、肅王を取り返すまで、問責を止めてはなりません。

当時、太原は数ヶ月にわたり包囲されていたが、姚古は軍を逗留していた。時はまた意見書を提出し、古を誅して軍政を正し、将軍の任に堪える軍人と交替させるよう訴えたが、聞き入れられなかった。


(40)当時、姚古、种師道、府州帥臣の折彦質らは、各々勤王の兵を率いて京城に到着し、その総勢は十余万人にも及んだ。しかし斡離不はすでに退却していた。

李綱は古らに追撃させ、「攻撃すべきときを見計らって攻撃せよ」と命じた。しかし三省は「〔金兵が〕国境を越えるまで護送し、軽々しく動いて紛端を開くな」と命令した。当時、大臣の命令は矛盾していた。だから最後まで成功しなかったのである。


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(1)不詳。原文「因糧(粮)就兵」。
(2)国都の最高責任者にしたの意。
(3)東南に逃亡する計画。
(4)いわゆる「己を罪するの詔」のこと。
(5)特使となって金に赴くことの出来る者の意。平たく言えば、命を惜しまず敵陣に赴ける者の意。
(6)皇帝の位を譲ること。
(7)今上皇帝の代理として皇太子が政務を執ること。
(8)肅宗は唐の皇帝。安史の乱により国都を追われた玄宗に代わり、息子が霊武の地で皇帝の位に即いた。これが肅宗である。肅宗は玄宗の命を受けずに独断で皇帝になった。李綱の発言は、玄宗が退位して肅宗が即位していなければ唐は亡びていた、という意味。
(9)皇帝の位にいないものが、皇帝の権限をもって天下に号令しても、天下のものは誰も言うことをきかない、の意。
(10)朝政の得失を直言させる詔のこと。
(11)『編年綱目備要』巻30に「壁一面ごとに正兵(保甲・廂軍を除く)一万二千人を配置し、各々従官に指揮させた。また歩兵と騎兵四万人を集め、前・後・左・右・中の五軍を作り、一軍ごとに八千人を置き、統制などの官に指揮させた」とある。
(12)底本は大船に作る。意味不通の故、『靖康要録』および校勘記に拠り改める。以下同じ。
(13)南面は君主の態度を指す。下文の北面は臣下のそれを意味する。つまり梲は敵将に対して臣下の礼を取ったことを意味する。



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