HOME目次二帝北狩

金人入寇(2)


(41)癸丑(十七日)、种師道が罷めた。

中丞の許翰は「師道は名将。沈毅にして謀略があります。兵権を解いてはなりません」と訴えたが、聞き入れられなかった。


(42)これ以前、粘没喝は太原を包囲し、その諸県を全て攻略したが、太原城だけは張孝純の踏ん張りで落とすことができなかった。そこで城外の矢石の届かない場所に城を築いて防備を固め、内外の連絡を断った。

粘没喝は斡離不が和盟を結んだのを知ると、別に人を寄こして賄賂を求めた。宰相らは勤王の兵が集結したので、粘没喝の使者を拘束し、賄賂を与えなかった。粘没喝は怒り、兵を分けて南下した。折可求と劉光世の軍はいずれも敗れた。平陽府で叛乱を起こした兵卒が金兵を南北の関に入れた。粘没喝は嘆いて、「関はこれほど嶮難なのに、私は越えることができた。南朝には人がおらぬ。」

粘没喝が関を越えると、威勝軍知事の李植は城ごと降伏した。乙卯(十九日)、隆徳府を攻撃した。府知事の張確と通判の趙伯臻は力戦したが、ここで命を落とした。ほどなく粘没喝は雲中に帰還したが、兵を太原に残し、包囲を続けさせた。


(43)〔三月〕壬午(十六日)、詔を下した。――「金人は盟約に背き、我が国深くに侵入した。もと和議を支持した李邦彦、割譲の使者となった李梲・李鄴・鄭望之はすべて降格せよ。」また詔を下した。――「金人は盟約を強要したが、ついに保つことはできなかった。現在、粘没喝は我が国深くに侵入し、南は隆徳を陥れ、先んじて誓約を破った。私は朝夕自らを責めている。既に和議を支持した者どもは罷免した。太原・中山・河間の三鎮は防塞・陵墓のあるところ、誓って固守せよ。」

こうして种師道を河北・河東宣撫使に命じ、滑州に駐屯させた。姚古を河北制置使とし、种師中を副官とした。古は兵を指揮して太原に赴き、師中は中山と河間の援軍に赴いた。師道には手勢がなかった。そこで山東・陝西の関所および渡し場の守備兵を合わせ、滄・衛・孟・滑の各州に兵を置き、金兵の再来に備えるよう訴えた。しかし朝廷は大敵が退いたばかりとて、軍を疲れさせたくなく、また弱勢を示したがらず、師道の意見を取り上げなかった。

師中は河を渡ると、「粘没喝は沢州に到達しております。邢相二州の間から、急ぎ上党に兵を出し、敵軍の不意を突けば、必勝間違いありません」と言って来たが、朝廷はこれを疑い、採用しなかった(1)。斡離不は中山・河間まで軍を進めたが、両鎮とも防御が堅く、落とすことはできなかった。師中が兵を進めて来たので、斡離不はついに国境を出た。


(44)癸未(十七日)、李綱を派遣し、太上皇を南京に迎えさせた。


(45)庚寅(二十四日)、姚古が隆徳府を回復した。辛卯(二十五日)、威勝軍を回復した。


(46)夏四月己亥(三日)、太上皇が京師に到着した。


(47)五月丁丑(十二日)、太原の包囲が解けないので、种師中と姚古に軍を出させ、挟撃させることにした。

師中は平定軍まで軍を進めると、余勢を駆って壽陽・楡次などの県を回復し、真定府に駐留した。この時、粘没喝は避暑のため雲中に帰還し、兵を止め、各地で牧畜させていた。密偵はこれを逃走と考え、朝廷に報告した。許翰は密偵の報告を信じ、使者を何度も派遣しては師中に出撃を命じ、「軍を逗留している」と言って非難した。師中は嘆いて「逗留は軍律の決して許さぬところ。私は幼き頃より従軍し、もう年老いてしまった。今になってこの罪を受けるのは堪えられぬ」と言うや、即日厳命を出し、姚古・張灝と進軍を約束し、兵糧や慰労の物資はすべて置いたまま、軍を進めた。

師中は壽陽の石坑に到着すると、金の将軍の完顔活女に襲われ、五戦して三勝した。楡次に回避し、殺熊嶺に到着した。太原を去ること百里であった。姚古の将兵は威勝軍に到着したが、統制の焦安節が「粘没喝が到来した」と誤報を流したので、古と灝は約束の期日に間に合わなかった。師中の兵は飢えが酷かった。敵はこれを察知するや、全力で師中の右軍を攻撃した。このため右軍は壊滅し、前軍も奔走した。師中はひとり麾下とともに死力で戦った。卯(午前六時)から巳(午前十時)に至るまで、師中の軍の将軍や兵士は神臂弓を発射し、金人を退けたが、褒美が出ないと分かると、怒って四散してしまい、残ったのはわずか百人だった。師中は身に四つの切り傷を受けるほど力戦したが、討ち死にした。

師中は老成した重々しい人間で、当時の名将だった。戦死が伝えられると、宋の軍隊はみな気を奪われた。金は余勢を駆って兵を進め、古を盤陀に遊撃した。古の兵は壊滅し、隆徳府まで撤退した。敗戦が報告されるや、李綱は安節を呼びつけ、これを斬った。また古を広州安置とし、師中に少師を贈った。


(48)京師では、金兵が撤退してからというもの、外交問題がなおざりにされていた。しかし李綱だけは事態を憂い、しばしば防御策を提出していたが、耿南仲らに阻まれた。

姚古・种師中が敗れると、种師道は病を理由に引退を求めた。そこで綱を両河宣撫使、劉韐を副官として、師道に交代させた。また解潜を制置副使とし、姚古に交代させた。

綱、「私は書生にすぎず、実は兵を知りません。〔先の戦いでは〕都城が包囲されていましたので、やむを得ず陛下のために兵事を処置したに過ぎません。私が軍事を統べるようなことになれば、恐らくや国事を誤ることになりましょう。」

かくして〔宣撫使を〕辞退したが、許さなかった。綱は退出すると、病を理由に致仕を求め、十余回にわたり書状を提出したが、これも許されなかった。台諫は「綱を朝廷に留めるべきだ」と発言したが、帝は大臣に阿った発言だとして退けた。

ある人が綱に言うには、「貴方は派遣の理由をご存じか。〔貴方に命令が下ったのは、〕なにも紛争を解決させようというのではない。これを理由に、貴方を追い払おうとしているのです。こうすれば都の人々も反論できませんからね。貴方が受けなければ、陛下の怒りは計り知れません。どうなさるおつもりです。」

許翰も「杜郵」の二字(2)を書いて綱に送った。このため綱はやむを得ず辞令を受けた。帝はみずから裴度伝(3)を筆写し、綱に与えた。

しかし宣撫司には一万二千人の兵しかいなかった。綱は銀・絹・銭を各々百万づつの下賜を求めたが、二十万しか与えられなかった。計画通り進んでいないことを理由に、綱は出発の延長を求めたが、帝はこれを命令無視の遅滞と判断し、再三にわたり綱を呼びつけた。

綱は帝に謁見した。

帝、「私のために辺境を巡回し、また朝廷に戻ってきて欲しい。」

綱、「私がひとたび朝廷を出れば、もはや戻ることはありますまい。私は愚直をもって朝廷に容れられませんでした。もし邪魔するものがなくとも、朝廷を出たならば、進んで敵に当たり、命を棄てることが、私の願いです。しかし万一にも朝廷の議論に動揺があり、処置できぬ状態だと判断すれば、私は即座に辞任を求めるつもりです。陛下は私の孤独と忠誠を察し、君臣の義を全うさせていただきたい。」

これに帝は心を動かされた。綱は都を離れる際、また帝のために唐恪・聶昌の邪悪を指摘し、「彼らを任用すれば必ず国事を誤る」と発言したが、その言葉は甚だ激切だった。


(49)秋七月、李綱は両河に赴き、十日余り河陽に滞在した。そこで士卒を訓練し、兵器を修理した。次いで懐州に向かうと、戦車を造り、大軍の結集に備えた。しかし朝廷は詔を下し、兵数を削減させた。綱は意見書を提出した。

天高く馬肥ゆる秋、敵は必ず侵入して来ましょう。宗廟社稷の安危は、計りきれません。このために守備兵を全て集めても、なお不足を恐れるばかりです。現在、河北・河東は連日のように危急を告げておりますが、まだ一人一騎としてこの求めに応ずるものはありません。にもかかわらず、なぜ集めた兵を解散させるのです。ましてや軍法を振りかざして諸路の兵の集めておきながら、紙切れ一枚でそれを解散させるようでは、後日再び兵を集めるようなことがあっても、もはや応ずるものはいないでしょう。

意見書は提出されたが、聞き入れられなかった。

綱は急いで太原に赴いた。綱は解潜を威勝軍に駐屯させ、劉韐を遼州に駐屯させ、幕官の王以寧と都統制の折可求・張思正らを汾州に駐屯させ、范瓊を南北の関に駐屯させた。いずれも太原から五駅ほど離れた場所で、三道を合わせて進軍させた。

当時、諸将は皇帝直々の命令を受け、事件が起これば将軍が直接皇帝に上奏し、軍中の処置も将軍の意のままだった。宣撫司には節制(軍の統率)の名こそ与えられていたが、将軍の多くは命令を聞かなかった。綱はいつもこの問題を訴えていた。しかし命令は下りても、諸将の勝手は今までと変わらなかった。

こうして劉韐の兵が最初に進んだ。金兵は力を合わせてこれを防ぎ、韐の兵は壊滅した。潜も関南で敵と遭遇し、大敗した。


(50)八月丙申(三日)、再び种師道を両河宣撫使とした。李綱を呼び戻した。


(51)庚子(七日)、河東察訪使の張灝は文水で金人と戦い、敗北した。丁未(十四日)、斡離不が真定府を攻撃した。戊申(十五日)、都統制の張思正らは文水で金人に夜襲をかけ、これを破った。己酉(十六日)、再度戦いがあり、今度は思正らの軍が壊滅し、死者は数万人に及んだ。思正は汾州に逃走した。都統制の折可求の軍は子夏山で壊滅した。こうして威勝軍・隆徳府・汾州・晉州・沢州・絳州の民は黄河を渡って南に逃げ出し、州県は空っぽになった。金人は余勢を駆って太原を攻めた。

李綱はまた意見書を提出し、軍権不統一の弊害を極言した。さらに「各方面から攻撃をしかければ、敵は単一の兵力で我らの一軍とぶつかることになる。これなら全軍を合わせて一方面から敵とぶつかった方がよい」とも発言した。

范世雄が湖南の兵を率いて到着したので、推薦により、これを宣撫判官とした。綱がみずから全軍を率い、敵に攻撃をしかけようとした正にその時、たまたま和議が持ちあがり、綱の進軍を止めた。綱も辞任を求めたので、〔种師道と〕交代させ、都に呼び戻した(4)


(52)金の粘没喝と斡離不が再び両路から侵入した。

これ以前、朝廷は肅王が金の人質にされたことをうけ、〔金の〕使臣の蕭仲恭を人質に当て、月を越えても帰国を許さなかった。副官の趙倫は帰国できないことに恐れを抱き、館伴の邢倞を欺してこう言った。――「金国に耶律余覩という男がおり、契丹の大軍を指揮しております。彼は金を裏切り、貴国に帰順したいと願っているとか。余覩と手を結べば、斡離不と粘没喝を図ることができましょう。」

執政は――仲恭と余覩はいずれも契丹の貴族として金に仕えている、ならば亡国の憂があるはずだ――と考え、倫の発言を信じた。そこで倫に密書を持たせ、余覩に届けさせ、その内応を托した。また倫に銀・絹を与えた。

倫は帰還すると斡離不に謁見し、すぐに蝋書を献上した。斡離不はそれを金の君主に差し出した。

また麟府帥臣の折可求から「遼の梁王の雅里が西夏の北方におりますが、宋と結んで金に復讐を考えているようです」と言ってきた。呉敏は梁王に書状を送るよう帝に勧めた。そこで書状を河東の麟府から送ったが、これもまた粘没喝の遊兵に奪われ、〔金の君主に〕届けられた。

このため金の君主は激怒し、粘没喝を左副元帥、斡離不を右副元帥とし、道を分けて兵を南進させた。粘没喝は雲中から出発し、斡離不は保州から出発した。


(53)庚申(二十七日)、給事中の王雲を金軍に派遣した。

これ以前、劉岑・李若水を金軍に派遣し、進軍の停止を求めていた。岑らは帰還すると、「斡離不は逃亡者と未納の金銀を求めただけでしたが、粘没喝の方は金銀には触れず、ただ三鎮だけを問題にしておりました」と報告した。ここに至り、雲を派遣し、三鎮の賦税を金に与えることにした。


(54)九月丙寅(三日)、金人は太原を陥落させた。

これ以前、粘没喝はなかなか太原が落ちないので、城下の旧城を補修し、そこに軍を留め、元帥府を名乗っていた。ほどなく粘没喝は雲中に帰還し、銀朱大酋を太原に留め、包囲を続けさせた。全二百六十日、城中の軍人と平民は十中八九餓死したが、城を堅く守り、落ちなかった。

ここに至り、粘没喝は雲中から帰還すると、余勢を駆って厳しく攻め立てた。帥臣の張孝純は死力を尽くしたが支えきれず、ついに城が陥落した。孝純は捕らえられたが、ほどなく許され、〔金の臣として〕用いられた。副都総管の王稟は、原廟にあった太宗の御容を背負って汾水に赴き、そこで死んだ。通判の方笈と転運の韓揆ら三十六人は全員殺された。

これ以前、朔州守臣の孫翊は河東の名将として知られていた。兵を指揮して寧化軍・憲州から天門関を出て、太原の援護に駆けつけた。翊が朔州を離れてほどなく、朔州は敵に降伏した。翊の麾下には朔州の人間が多かった。粘没喝は朔州の老父らを従え、翊の軍に見せつけた。このため兵らは翊に背き、戦いに及ぶや、翊は麾下に殺された。

当時、府州守臣の折可求も麟府の軍二万を指揮して、大河を渡り、岢嵐軍・憲州から天門関に出て、太原の援護に駆けつけた。しかし敵が関を守っており、突破できなかった。そこで山を越え、松子嶺を通り、交城に到着したところで、粘没喝の大軍に遭遇した。長らく激戦を繰り広げたが、可求は遠征軍であったため、疲労が重なり、ここでも敗れた。


(55)丙戌(二十三日)、李回を大河守禦使とし、折彦質を河北宣撫副使とした。また何㮚の求めに従い、天下二十三路を四道に分け、三京および鄧州に都総管府を設け、都総管府に四道の兵を指揮させた。

大名府知事の趙野に北道の兵を指揮させ、河南府知事の王襄に西道の兵を指揮させ、鄧州知事の張叔夜に南道の兵を指揮させ、応天府知事の胡直孺に東道の兵を指揮させた。軍事の処置、財政の処置、属官の任免、兵の賞罰に対して擅断を許し、非常事態には羽檄(軍事文書)で呼び出し、京師を守らせた。


(56)冬十月丁酉(五日)、种師道は金の斡離不と井陘で戦い、敗北した。ついに斡離不は天威軍に侵入し、真定府を攻撃した。

これ以前、真定府帥臣の劉韐は防具を備え、総管の王淵と鈐轄の李質は将兵数千に訓練を施していたため、戦力は充実していた。このため金は攻撃を避けていた。当時、真定府は河朔の中で最も堅固と言われていた。帝は太原の危急に備え、韐を遼州に移し、その要害を守らせた。淵と質もこれに付き従った。このため代わって李邈に真定府を守らせた。しかし邈は無能無策だった。

ここに至り、金の攻撃は激しさを加えた。鈐轄の劉竧は大軍を率いて昼夜となく奮戦したが、しばらくして城は落ちた。竧は城内で戦い続けたが、部下は一人また一人と逃げていった。竧は弟を振り向き、「私は大将だ。賊に殺されるわけにはいかぬ」と言うと、刀を抜き、門を破って逃げようとした。しかしこれも果たせず、首を括って死んだ。李邈は捕らえられ、北に連れ去られた。


(57)戊戌(六日)、金人は楊天吉と王汭を派遣し、契丹の梁王および余覩に与えた密書について書簡で問責し、同時にもともとの三鎮割譲も要求したが、極めて横柄な態度だった。金の使者は帝に書簡を差し出し、「陛下はすでに三鎮の地を割譲しなかった。それに加え、契丹を復興しようとなさる。これを我慢できますか」と問責した。帝は「これは奸人のしたことだ」と卑屈に答え、朝廷の責任ではないと明言した。金は絶対に三鎮を割譲すること、また金帛・車輅・儀者を差し出すこと、および金の君主に徽号を加えること、さらには親王が金軍に赴いて陳謝することなどを要求した。


(58)御史中丞の呂好問を罷免した。

当時、金人が再度南下するや、大臣はなすところを知らなかった。使者を派遣して和議を求めたが、金人は許諾した振りをして、もとのまま攻撃し続けた。将軍たちは和議のこともあり、城門を閉ざして出撃しなかった。

好問はすぐに滄州・滑州・邢州・相州の守備兵を集めて敵の攻撃を食い止め、勤王の軍を王畿に集めて京城を守らせるよう訴えた。意見書は帝の手許に届いたが、相手にされなかった。

金人が真定府を落とし、中山府を攻めると、上下を挙げての大騒ぎで、朝廷は疑心暗鬼に陥ったが、なお和議を主張した。好問は御史台の部下を従え、大臣の臆病と国事の錯誤を弾劾した。このため袁州知事に左遷された。帝は好問の忠誠に感じ、吏部侍郎に左遷させた。


(59)庚子(八日)、金人が汾州を落とした。

州知事の張克戩は死力を尽くして防戦し、城門が落ちても城内で戦い続けた。負けを認めるや、朝服に着替え、香を焚き、南を向いて拝舞し、自決した。一家の中、八人のものが命を絶った。


(60)辛丑(九日)、帝は河東では太原府を失い、河北では真定府を失ったとの報告を受け、鬱ぎ込み、哀痛の詔を下し、各地から兵を集めさせた。また河北・河東諸路帥臣に命じ、管轄下に檄を出させ、臨機応変の処置を許した。


(61)丙午(十四日)、种師道を呼び戻した。

これ以前、師道は兵を河陽に留めていた。金の使者の王汭が訪れたとき、その態度は極めて傲慢だった。師道は敵の大挙侵入を察し、すぐに意見書を提出し、「長安に行幸し、攻撃を避け、〔京城の〕守備を将帥に任せられたい」と訴えた。しかし朝廷は師道の発言を臆病者とみなし、京師に呼び戻した。


(62)十一月、詔を下し、援軍を止めさせた。

当時、南総管の張叔夜と陝西制置使の銭蓋は、各々兵を率いて上京していた。おりしも唐恪と耿南仲は和議を主張していた。彼らが同知枢密院事の聶昌に語るには、「人々が困苦しているこの今、数十万の兵を城下に入れて、どうやって彼らの腹を満たすつもりだ。」そこで両道の兵の前進を止めさせた。


(63)己巳(八日)、詔を下し、尚書省に従官を集め、三鎮割譲を議論させた。

百官の多くが割譲を求めたとき、ちょうど李若水が帰還した。若水は庭で慟哭し、「三鎮を与えて国難を救っていただきたい」と訴えた。

何㮚、「三鎮は国の根本。軽々しく棄ててよいものか。それに金人は信頼できない。割譲しても攻めてくるだろうし、割譲しなくても攻めてくるだろう。」

梅執礼・呂好問・洪芻・秦檜らは㮚の意見に賛同し、唐恪・耿南仲らは割譲に強く賛成した。㮚は反論を続け、「河北の民もみな我が赤子。地を棄てるということは、その地の民も棄てることになるのです。民の父母でありながら、その子を棄ててよいものでしょうか」とも発言した。このため帝は事態を悟り、三鎮の割譲を取り止めた。

㮚は退出すると、恪にこう言った。――「三鎮を割譲すれば、河外の人を損なうことになろうし、割譲せずとも太原府と真定府は既に失っている。なるようにしかなるまいて。」恪は頷くだけだった。

かくして詔を下し、河北・河東・京畿に清野の法(5)を決行させ、流民が官舎・寺院・道観に居まうことを許した。また京師の民には浮言および暴動を禁じた。


(64)当時、粘没喝は太原府から汴都に向かったが、向かうところ敵するものはなかった。平陽府・威勝軍・隆徳府・沢州はすべて陥落し、城を棄てて逃げる官吏があちこちで見られた。

壬申(十一日)、粘没喝は河外に到着した。宣撫副使の折彦質は十二万の兵で守り、河を挟んで陣を敷いた。このとき李回も一万の騎兵で河を守り、また河上に到着した。粘没喝は「南軍も大軍だ。戦えばどちらが勝つか分からぬ。虚声をかけてみたがよい」と言い、戦鼓を明け方まで鳴らした。このため彦質の大軍は瓦解し、李回もまた京師に逃げ帰った。

甲戌(十三日)、金の活女は大軍を率いてまず孟津を渡り、粘没喝がこれに続いた。ここに至り、河陽知事の燕瑛と河南留守西道都総管の王襄は城を棄てて逃亡し、永安軍と鄭州はすべて金に降伏した。粘没喝は河を渡り終えると、もはや三鎮など口にせず、すぐに使者を派遣し、両河全土を割譲し、黄河を国境にせよと迫った。

こうして京師には戒厳が布かれ、馮澥・李若水が金軍のもとに派遣された。二人が中牟に到着すると、黄河の守備兵は金兵の到来とばかりに驚き、近くにいた兵卒は抜け道を探して逃げてしまった。

澥、「どうする。」

若水、「兵は敵を恐れて瓦解した。どうしたものか。こうなっては死を覚悟するしかあるまい。逃げるものは斬るのだ。」

このため兵はようやく心を落ち着けた。ここに至り、若水はようやく和議の不可を悟り、しばしば意見書を提出し、守備を固めるよう訴えた。


(65)丁丑(十六日)、郭京に成忠郎を授け、金軍を防ぐため、六甲の兵を集めさせた。

これ以前、孫傅は丘濬の感事詩を読んだところ、「郭京・楊適・劉無忌」の言葉が見つかった。また市中で無忌なる男を見つけ、また龍衛軍(禁軍の一つ)の中から京を見つけ出した。

好事家が言うには、「京は六甲の法を操ることができる。金の二将を生け捕りにし、残りも追い払えるでしょう。六甲の法というのは、七千七百七十七の人間を用います」と。朝廷はこれを信じて疑わず、京に官を授け、金帛数万を与えた。また京自身に兵を集めさせたが、技能の能否を問わず、ただ年命が六甲に合うものだけを選んだものだった。選ばれた者は、だれもかも市井の遊び人で、十日にして数が揃った。敵の攻撃が激しさを増しても、京は談笑し、泰然自若として、「日を選んで三百の兵を出せば、天下は太平になろう。じかに陰山(雲中の奥地)まで攻撃してくれる」と豪語していた。

傅と何㮚は特に京を信じていた。傅に向かって「昔からこんなもので成功した試しはない。信じるにしても、まずは少しの兵を与え、わずかでも功績を出させてから、少しずつ信用していくべきです。信用し過ぎではないですか。いずれは国家の羞となりましょう」と言うものがいた。傅は怒って、「京はまさに今日のために生まれた男。金軍の些細なことですら、預かり知らぬものはない。君は私に話したからよかったものの、もし他人に話しておれば、軍の指揮を下げた罪に問われるところだった」と言って、拝礼して退けた。

これ以外にも、劉孝竭などが人々を集めていたが、あるいは六丁力士と言い、あるいは北斗神兵と言い、あるいは天闕大将と言ったが、どれもこれも京をまねたものだった。識者はこれを危ぶんでいた。京はいつも「危急の時にならねば、我が軍は出さぬ」と言っていた。


(66)斡離不も使者を派遣し、両河の地の割譲を求めた。

帝はこれを許し、耿南仲を派遣しようとすると、南仲は老齢を理由に断った。そこで聶昌に改めると、昌は親を理由に辞退した。

陳過庭、「主の憂は、臣の辱。願わくは死をもって拝命したい。」

帝は涙を払ってため息をつくと、南仲と昌に怒りを発し、南仲を河北の斡離不の軍に向かわせ、昌を河東の粘没喝の軍に向かわせた。

昌、「両河の人は忠実勇敢。万一にも捕らえられたなら、目を瞑っては死ねまい。」

昌は絳州に到着したが、絳の人はやはり城門を閉ざして入城を拒否した。昌は詔書を持って城下に向かい、縄ばしごをよじ登り、城に入った。鈐轄の趙子清は人々を引き連れて昌を殺し、目を抉って肢体を切り刻んだ。

これ以前、南仲は東宮官を務めること十年、まずは自分が宰相に選ばれるはずだと信じていた。ところが呉敏と李綱が頭越しに出世し、自分の上位に立ったため、心必ずしも穏やかでなかった。このためいつも異議を唱え、戦守の策を排除し、呉幵と一緒になって、土地を割譲し、和平を求めるよう力説した。だから朝廷の戦守の戦備は全て廃され、金軍の進撃を許したのである。

ここに至り、金の使者の王汭と出発し、衛州に到着した。衛州の郷兵は汭を殺そうとした。汭は脱出し、南仲はとうとう相州に逃げ去った。


(67)甲申(二十三日)、金人は懷州に入った。

州知事の霍安国は、城が包囲されても防ぎ続けた。鼎州と澧州の兵も到着し、表裏して防戦に務めた。このため徽猷閣待制を授けられた。

城が陥落すると、粘没喝は安国以下を引き出し、降伏を拒んだ者の姓名を訊問した。

安国、「責任は私にある。」

他のものを訊問すると、通判の林淵、鈐轄の張彭年、都監の張士詝・張諶・于潜、および鼎州と澧州の将軍沈敦・張行仲、隊将の五人も訴え出た。――「淵らは知州と一心同体。我らも降伏を拒絶した。」

粘没喝は東北の郷に連れ出し、望拝(遠方の帝所を礼拝すること)を強いたが、いずれも屈しなかった。そこで服を脱がせて縛り、十三人を殺し、その他を許した。安国の一門に生き残った者はいなかった。


(68)乙酉(二十四日)、斡離不は真定府から汴京に向かった。わずか二十日にして城下に迫り、劉家寺に軍を止めた。粘没喝は河陽から向かい、青城に軍を止めると、劉晏を派遣し、盟約に出向くよう帝に要求した。

当時、西道と南道の援軍は、既に唐恪と耿南仲が帰還させており、もはや一人もおらず、城中には衛士と弓箭手の七万人がいるだけだった。そこで一万人を五つの部隊に分け、非常時の応援に備え、姚友仲・辛永宗に分担して指揮させた。また五万七千人を四壁の防御に割り当てた。使者に密書を持たせ、間道から城外に送り出し、兵を召集させた。また康王および河北の守将に来援を求めた。しかしその多くは見回りの兵に捕らえられた。

唐恪はなす術なく、ひそかに帝に言うには、「唐は天宝以来しばしば都城を失いながら、なおも復興し得たのは、天子が外にあり、四方に号令をかけ得たからです。今は景徳の故事に倣い、太子を留守として止め置き、陛下は西方の洛陽に行幸し、さらに秦雍(陝西西部。秦の土地。)を拠り所に、天下の兵を率いて親征し、国土の復興を図るべきです。」

帝が恪の意見に従おうとするや、開封尹の何㮚は帝に謁見し、蘇軾の議論を引いて、「周の失策は、東方遷都より甚だしきものはない」と発言した。このため帝は翻意し、足を大地に付け、「今は死をもって社稷を守らねばならぬ」と言った。


(69)己丑(二十八日)、南道都総管の張叔夜は召集を受けると、その日のうちに自身は中軍を率い、子の伯奮に前軍を、仲熊に後軍を率いさせ、都合三万余人で出撃した。尉氏に到着したところで、金の遊兵に遭遇した。叔夜は転戦しながら前進し、都に到着した。帝は南薫門から叔夜の軍を眺めたところ、その軍容は実に整然としていた。

叔夜は帝に謁見し、「賊の鋭鋒は恐るべきものがあります。願わくは唐の明皇が禄山を避けた故事に倣い、しばらく襄陽に詣で、雍(秦の地)に行幸を図られるべきです。」帝はこれに頷き、延康殿学士を与えた。

当時、東道都総管の胡直孺も兵を率いて畿内に入ったが、金人と拱州で遭遇し、敗めて捕らえられた。金人が城下で見せしめにしたため、都の人は震え上がった。


(70)閏月癸巳(二日)、粘没喝の軍が城下に逼った。


(71)甲午(三日)、雪交じりの雨が降った。

帝は鎧を着て城に登り、兵糧米の代わりとして、将兵に御前を与えた。兵士らは感動して涙を流した。

金人が通津門を攻めた。数百人が城壁に登って防戦し、金軍の礮架五台(発石車)と鵝車二台(攻城用の戦車)を焼き捨てた。

駅伝を発し、李綱を資政殿大学士として呼び出した。


(72)乙未(四日)金人が青城に入り、朝陽門を攻めた。


(73)丙申(五日)、帝は宣化門に赴いたが、馬で泥水の中を進んだ。人々は感動して涙を流した。


(74)戊戌(七日)、殿前副都指揮使の王宗濋が金人と城下に戦った。統制の高師旦が戦死した。


(75)癸卯(十二日)、金人が南壁を攻めた。

張叔夜は激戦を繰り広げ、金環を付けた金の貴族の将軍二人を斬った。金兵の撤退を遠くから望めると、隊列を乱して逃げ惑い、堀で溺死した者は千をもって数えた。


(76)甲辰(十三日)、大いに雪が降った。金人が亳州を落とした。


(77)乙巳(十四日)、底冷えのする日だった。兵士はがたがた震え、武器を手に持つこともできず、倒れる者が出た。帝は裸足で天気の快復を祈った。諸道の勤王兵を召集したが、到着するものはなかった。城中には衛士三万しかおらず、それも十に五六は戦えなかった。しかし時期を見て戦いをしかけ、抵抗の姿勢を示した。


(78)金人は蕭慶を派遣し、「帝の出城は求めぬ。僕射の何㮚と議論できればよい」と勧告してきた。また上皇・皇太子・越王・鄆王を人質に差し出すよう要求した。

帝は「私は人の子として、父を人質に出すことはできぬ」と言い、越王を行かせた。越王が出向こうとすると、粘没喝が兵を連れて迎えに来たので、越王は止めた。このため金人は不信感を露わにし、再び使者を派遣して親王が盟約に出向くよう要求した。


(79)己酉(十八日)、馮澥・曹輔と宗室の仲温・士𧦞を金軍に派遣し、和盟を求めた。澥らが到着すると、粘没喝はすぐに送り返し、一言も語らなかった。ほどなく以前にも増して激しく城を攻め立てた。

殿中侍御史の胡唐老は、康王を大元帥とし、天下の兵を率いて援軍に向かわせるよう訴えた。帝はこれに従った。


(80)壬子(二十一日)、金人が通津門と宣化門を攻めた。范瓊は千人を率いて出撃したが、河を渡ると氷が割れ、五百人が溺れ死んだ。これ以後、指揮はますます下がった。


(81)何㮚は何度も郭京に出撃を求めていた。しかし京はいつも出撃の時期を延長していた。

丙辰(五日)、郭京は守備兵を出撃させた。〔情況を〕他人に見られぬよう隠してから、宣化門を開き、金軍に攻撃を仕掛けた。京と張叔夜は楼上に坐して見ていた。金兵は兵を四翼に分け、軍鼓で囃しながら前進した。京の兵は敗走し、護龍河に落ちて死に、死体で河が埋まるほどだった。城門は急いで閉じられた。京が叔夜に言うには、「私みずから法をなさねばならぬ。」そこで城を出たが、残兵を率いて南方に逃亡した。

金兵はついに城壁に登り始めた。しかしどの守備兵も疲労困憊で、四壁の守備兵も壊滅状態だった。

金人は南薫などの諸門を焼いた。統制の姚友仲は混戦の中に死んだ。宦官の黄経国は火に飛び込んで死んだ。統制官の何慶言と陳克礼および中書舎人の高振は力戦し、家族とともに殺された。秦元は保甲を率いて城門を破って逃亡した。四壁守禦使の劉延慶も城門を破って逃走したが、追手の騎兵に殺された。

京城はついに陥落した。張叔夜は瑕を負いつつも、なお親子で力戦していた。


(82)帝は城の陥落を知らされると、慟哭して言った。――「种師道の言葉を用いなかったばかりに、こんなことになってしまった。」

衛士が都停駅に入り、金の使者の劉晏を捕らえて殺した。数万の兵士と民衆が左掖門をぶち破り、天子に会わせろと訴えた。帝は楼に出向いて、人々を諭した。衛士長の蒋宣が部下数百人を率いて現れ、「乗輿(皇帝のこと)を護り、金兵の囲みを突破したい」と発言した。帝の側近は既に逃亡していたが、孫傅・梅執礼・呂好問だけは付き従っていた。

宣は声を荒げて、「国がこんなことになったのは、宰相が奸臣を信任し、直言を用いなかったからだ。」

孫傅は宣を叱ったが、宣はかえって言葉でやり返した。

好問は宣を諭し、「諸君らは家族をも忘れ、この情況下で、陛下を護り、囲みを突破しようという。これは確かに忠義。しかし乗輿が出るときは、必ず防備に完全を尽くしてから動くもの。軽々しく動いてよかろうはずがあるまい。」

宣は屈服し、「尚書は確かに軍情が分かっている」と言うと、部下を率いて退いた。


史臣の評。

初め、斡離不が北に還るや、粘没喝は太原にあった。その軍勢の未だ合流せざるが故に、勤王の軍のこれに乗ずるのを恐れたのである。既に退きし後、宋の計をなすならば、遠きを見据える必要があった。しかし李綱・种師道の言を忽せにし、上下相慶び、虞るること無しと念じた。数月ならずして金軍を招くや、太原・真定の喉元が塞がれながらも、なお三鎮棄守の利害を議論した。それ故、金人はかつて宋使にこう言った。――「汝らの議論の定まりし時を待ちたらば、我は既に河を渡らん」と。蓋しこの時に当たり、廟堂の相、方鎮の将は、みな童貫・蔡京・王黼・梁師成の門より出でる者にして、天下の望を繋ぐに足るものはなかった。ただ割地・和平を求むるのみにして、未だ金と抗するの計を案ずる者はいなかった。かくして金人の来たるや、破竹の如きものとなった。城を囲まれ月を越ゆるに及び、外域の援軍も至らず、ついに妖術をもって廃滅を招いた。ああ、怪しむべきことがあろうか。

呂中の評。

女真の叛盟以来、朝廷は和と戦と、人才は賢と否と、なんと目まぐるしく移り変わったものか。寇の至るや、始めは夷狄回避の計を図った。しかし李綱の発言でもって、城守の計に改められた。既に堅守するや、また李邦彦の一言でもって、卑辞の請をなした。師道の到着するや、また師道の一言でもって、不和の謀がなされた。師道が堅守不戦でもって夷狄の軍を困憊させんと求むるや、ほどなくして、姚平仲の一言でもって、急襲の挙に出でた。姚平仲が既に貶せらるるや、また李綱・种師道を誤国となした。学生が闕下に伏すに及び、また李綱・种師道を用うべしとなし、復帰させた。その後に及び、台諫の発言をもってこれを逐った。李綱が辺境防備を論ずるや、師道もまた敵兵防衛を求め、朝廷の議論はほぼ定まった。しかるに未だ一月ならずして、呉敏・耿南仲・謝克家・孫覿はまた三辺を割譲すべしと言い、和議が再び行われた。呉敏はもと和議を主とするものであった。しかるに、ほどなくして、夷狄の使者を拘留し、ひそかに遼人と結び、また女真に口実を与えた。二酋が道を分けて入寇するや、朝廷はなおも百官を集めて議論するに、三鎮存棄の便不便を問うた。金人が到着するや、清野の令を下した。ほどなく寇なお未だ至らずと伝言し、清野は施行されなかった。戦者は戦に決せず、和者は和に一ならず、城既に破れ、禍既に至りて、なお議論一ならず、心なお決せず、終始一歳の中、目まぐるしく移り変わることこのようであった。大抵、上下の心、少しく急迫に逼らるれば、恐懼して謀なく、少しく事態に緩みが生ずれば、遅々としてその謀を変えた。靖康の禍は、実にこれに基づくものである。慶暦・元祐は、専ら君子に任せ、小人を斥けた。紹聖・崇寧以来、専ら小人に任せ、君子に仇なした。靖康の際は、君子と小人が雑用された。ああ、戒めとせねばなるまい。


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(1)『三朝北盟会編』巻47所引『中興姓氏録』に「時種師中渡河、上疏言『粘罕已至澤州、以候路允迪到、尚須旬日。若許臣自邢相間徑取上黨、攻其無備、破之必矣。』朝廷駭焉」とある。
(2)秦の昭王が白起に剣を授け自殺させた場所。
(3)裴度は唐の憲宗の中興を助けた宰相。
(4)この一段、混乱あり。『宋史』李綱伝によれば、本来は前条の補足として述べられるべきものである。
(5)城外の住民が畜産物資をまとめて城内に引き払い、城外を空にし、敵軍の生活物資を断つ戦法。ただし犠牲が大きい。



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