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張邦昌僭逆


(01)欽宗の靖康二年(1127)二月丁卯(七日)、金人は翰林承旨の呉幵と吏部尚書の莫儔を宮城に送り込み、異姓の中、君主の任に堪え得る者を推薦させた。


(02)癸未(二十三日)、呉幵と莫儔はまた百官を集め、〔先の案件を〕議論させた。しかし発言する者は誰もおらず、たがいに顔を見合わすばかりで、二進も三進もいかなかった。王時雍が幵と儔に尋ねると、二人とも「金の意中は邦昌にある」とささやいたが、時雍はまだ決めかねていた。たまたま尚書員外郎の宋斉愈が金の軍営から帰還したので、官僚らが金人の意中の人を尋ねたところ、斉愈は紙切れに「張邦昌」の三字を書いて見せた。このため時雍も決心し、ついに邦昌の姓名を議状に書き込んだ。

張叔夜は署名を拒否したため、金人は叔夜を捕らえ、軍に連行した。太常寺簿の張浚、開封府の官僚の趙鼎、司門員外郎の胡寅の三人は、太学に逃げ込んで署名しなかった。唐恪は署名した後、薬を飲んで死んだ。


(03)この日、王時雍はまた百官を集め、秘書省に向かった。到着すると、すぐさま省の門を閉め、兵で包囲した。そして范瓊を用い、官僚らに邦昌の冊立を説得させた。官僚らはただただ頷くばかりだった。しかし馬伸だけは奮然と「我らは諫言を職とする者。坐視できぬ」と言い放ち、御史の呉給と連れなって、中丞の秦檜とともに議状を作り、「嗣君(太子)を帰国させ、四方を安堵させられたい」と主張したばかりか、さらには「邦昌は上皇の時代に国政を破壊し、社稷の危殆を招いた」と糾弾した。金人は怒り、檜を捕らえて連れて行った。


(04)三月辛卯朔、金人は張邦昌を宮城に送り込み、尚書省に居らせた。また百官には臣礼をもって即位を薦めさせた。

閤門宣賛舎人の呉革は、まず范瓊一味を殺害し、二帝を奪って邦昌を討伐しようと計画し、その期日を三月八日に定めた。謀略に関与したものは呂好問・馬伸・張所・呉理ら数人であった。また宮廷の親事官数百人も、節を屈して異姓を立てるに忍びず、妻子を殺し、住宅を焼き、謀議に賛同した。

期に先立つこと二日、班直の甲士数百人が宮中に押し入り、「邦昌は七日に冊を受けるらしい。急いで兵を起こされたい」と言った。革は鎧を身につけ、馬に乗り、咸豊門に到着すると、四方はみな瓊の一味であった。瓊の一味は革を欺いて帳に誘い込み、これを捕らえ、裏切るよう脅迫した。しかし革は罵詈雑言を浴びせかけ、刀を首に当てられても顔色一つ変えなかった。その部下百人は全員死んだ。


(05)丁酉(七日)、金人は冊書と宝璽を持ち寄り、ついに邦昌を帝位に就け、国号を大楚とした。邦昌は北面して拝舞し(1)、冊書を受け、皇帝の位に即いた。かくして徳殿に昇り、座席を御牀の西に設け、〔群臣の〕慶賀を受けた。また閤門を派遣し、伝令の礼拝を禁じた(2)。王時雍は百官を率いて急ぎ拝礼したが、邦昌は〔南面を避け、〕東面し、拱手して立つに止めた。この日は砂埃が舞い、日暈に光なく、百官は意気消沈し、邦昌も動揺を隠せなかった。ただ王時雍・呉幵・莫儔・范瓊らだけは喜色に富み、佐命の功を自任していた。

邦昌は不安でたまらず、百官の任命には必ず「権(仮の意)」の字を加えた。王時雍を〔権〕知枢密院事・領尚書省、呉幵を権同知枢密院事、莫儔を権簽書院事、呂好問を権領門下省、徐秉哲を権領中書省とした。邦昌は、百官に見えるときは〔自身のことを朕ではなく〕「予」と言い、手詔を出すときは〔詔の字を用いず〕「手書」とした。

まだ改元する前であったが、百官は公文書から〔宋の〕年号を省いていた。しかし呂好問だけは公文書のやりとりに「靖康二年」と書いた。百官はなかなか帝礼をもって邦昌に接しようとしなかったが、王時雍だけは発言のたびに「臣、陛下に啓すらく」と言った。また邦昌に対して、紫宸殿・垂拱殿に座して金の使者と会見するよう勧めたが、これは好問が批判したので、中止になった。さらに時雍は恩赦についても議論した。しかし好問が「都の四壁の外は、ひとつとして我らの手にないのだ。いったい誰を赦すつもりか」と発言したので、城中に恩赦を下すに止め、郎官を選んで四方密諭使とした。

金人の帰還に際して、邦昌は金の軍営に赴いて送別会を開き、赭袍(赤い服)を着込み、紅蓋(赤い笠)を差し、通過地点には香を設けて道案内とした。時雍・秉哲・幵・儔らもこれに付き従った。この様子を見て、士大夫や庶民に悲しまぬものはなく、都の人々は時雍を目して売国牙郎と呼んだ。

この時、上皇はまだ金の軍営にあった。邦昌の即位を聞き、「邦昌がもし死節を守ったなら、社稷も重みを増そうが、既に君主になった以上、我が運命もこれまでだ」と嘆き、涙で襟をぬらした。


(06)この時、金人は兵を〔開封に〕止め、邦昌の警護にあてるべきか議論していた。

呂好問、「南北は風土が異なります。北兵(金の兵隊)はこちらの風土に慣れておりますまい。きっと不安に陥りましょう。」

金人、「孛菫一人を残し、これに統べさせればよかろう。」

好問、「孛菫は貴い身分のお方。もし病に倒れられるようなことがあれば、より一層の罪科を被りかねません。」

このため金人は兵を止めず帰還した。

こうしてから好問が邦昌に言うには、「相公(張邦昌のこと)は本当に君主になるおつもりか。それとも当面は夷狄の心を塞いでおき、おもむろに何かをなさるおつもりか。」

邦昌、「どういう意味だ。」

好問、「相公は中国人心の帰趨をご存じでしょうか。彼らはただ女真の兵威を畏れたに過ぎません。女真が去った今、このまま抑え込めるとお思いでしょうか。大元帥(康王。後の高宗)は地方におられ、元祐皇后は内におられる。これは実に天意のなせるところ。すぐにも政権を還し、禍を転じて福となさるべきです。それに禁中は人臣のおるべき場所ではありません。殿廬(官僚が寝泊まりする宮中の一室)で寝泊まりされるべきですし、衛兵に警護させてはなりません(3)。夷狄の残した着物など、夷狄が居らぬのですから、着てはなりません。公文書を下す場合、聖旨と言ってはなりません。今すべきことは、元祐皇后を迎え、康王に早く御位に就かれるよう求め、身の安全を願うことです。」


(07)監察御史の馬伸は書状を邦昌に差し出した。

伏して思いますに、凶悪なる夷狄は順々なる我らを犯し、且つ相公に対して位に就いて国事を定むよう強要しました。相公が死を忍び、尊位に就いたのは、夷狄が退けば必ずや趙氏に御位を返上できるとの信念があったからと思います。忠臣義士にして直ちに死なず、城中の人が直ちに事変を起こさなかったのも、相公が趙氏の危険を救い得ると思ったからです。

ところが夷狄が退いて以来日数が経ち、我が君の御子も所在が知れておりますのに、相公はなおも禁中におり、初めの〔臣下の〕衣服にもどさず、いまだ臣列に就いておりません。これでは強暴な夷狄の威を借り、人を遣って康王に遊説させ、かつ南方に逃亡させ、かくして長らく〔御位を〕借りたまま返さぬつもりではないかとの疑惑を生みましょう(4)。もしひとたび騒動でも起きましたら、〔相公の〕初心に背くことになりかねません。

望むらくは、速やかに改正を行い、服を変え、宰相の列に戻り、庶事項は太后の命を取って実施し、直ぐにも康王の帰京を促していただきたい。即日城門を開いて勤王の師を労い、嫌疑なきことを示していただきたい。あらゆる朝廷内外の恩赦、恩恵の下賜、人心の収集などについては、権(かり)に取捨を行い、趙氏復興の後、施行していただきたい。そうすれば朝廷内外の疑いも晴れ、禍を転じて福となせましょう。さもなくば私は死ぬ覚悟です。決して相公を輔けて叛臣になろうとは思いませぬ。

邦昌の即位以来、朝廷でのやりとりは、君臣の礼を用いていた。しかし伸〔のこの発言〕によって、ようやく書状に「太宰相公」と書くようになった。書状が納入されると、邦昌は意気消沈した。


(08)〔四月〕甲子(五日)、邦昌は元祐皇后を尊んで宋太后とし、延福宮に迎えた。人を済州に派遣し、康王を訪ねさせた。

邦昌の太后策立の言葉には「なお宋氏の初めを念い、まず西宮の礼を崇ぶ」とあった。太祖の即位のとき、周の太后を西宮に迎えた故事に倣ったものである。識者はこれを訝った。――邦昌は本当は趙氏のことなど心にないのではないか、と。


(09)この時、宗室の子崧は淮寧府知事だった。二帝の北方連行を知り、江淮経制使の翁彦国とともに、壇に登って血をすすり、みなで王室を助けるべく、民に誓った。また邦昌に書簡を送り、正道に返るよう責めるとともに、王時雍らを諭した。その言葉は激切だった。

そこで邦昌はまた謝克家を派遣し、康王を奉迎させた。王時雍は「騎虎(金軍)の力には到底適いません。よく熟慮なさいませ。後々後悔しても及びませんぞ」と言い、徐秉哲も側から賛成した。しかし邦昌は人の心を掴めないと判断し、ついに時雍の言葉を退けた。克家は済州に到着し、〔康王に奉迎のことを〕勧めたが、康王は許さなかった。

邦昌はさらに蒋師愈らに書状を持参させ、済州に向かわせた。そして自身が金人の推立に従ったのは、一時的にもせよ国難を救おうと思ったからであり、決して他意はなかった、と弁解した。

康王は返答の書簡を授けると、宗沢らに別途書状を送った。――邦昌は偽命を受けた人であり、道義として誅討すべきものだ。しかし非常の処置らしいので、軽々しく動いてはならぬ(5)。軍を都の近郊に移し、武具を整え、情況を確認せねばならぬ、と。沢もまた王に書簡を返し、「邦昌僭乱の行状は既に明白疑いなし。大王は宜しく速やかに天討を決行し、社稷を復興すべし。決断なされよ。」

康王はついに済州から応天府に向かった。邦昌は出迎えると、地にひれ伏して慟哭し、死を請うた。康王はこれを慰めた。


(10)康王は即位すると、宰相一同に邦昌の処遇を諮問した。

黄濳善、「邦昌は許されぬ罪を犯しましたが、それは金人に脅されてのこと。既にみずから陛下に帰順しました。陛下の望まれるままに。」

帝、「私は王爵を与えようと思う。後日、金人が文句を言って来るようなら、邦昌にこう言わせるのだ。――天下は本朝を忘れなかった。だから宝璽を〔趙氏に〕還し、皇帝の位を避けたのだ、と。」

そこで邦昌を太保とし、同安郡王に封じた。すぐに邦昌に詔を下し、文彦博の故事に倣い、一ヶ月に二度、都堂(宰相府)に赴き、重大議案を裁決させた。


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(1)臣下の身をもって君主から君主の位を頂いたという意味。
(2)原文「遣閤門伝令勿拝」。『長編紀事本末』巻149には「邦昌歩入自宣徳門、由大慶殿至文徳殿前、進輦、却弗御、歩昇殿于御床西側、別置一椅、坐受軍員等賀訖、文武合班、邦昌乃起立、遣閤門傳云「本為生靈、非敢竊位。」傳令勿拜」とある。
(3)不詳。原文「無令衛士夾陛」。
(4)以上、文意が繋がりが悪いので、『三朝北盟会編』巻91により潤色した。
(5)当時宗沢は張邦昌討伐の兵を挙げようとしていた。



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