『宋史紀事本末』解題

編纂過程と評価

『宋史紀事本末』は、明の陳邦瞻が中心となり、紀事本末体とよばれる手法を用いて編纂された宋朝一代の歴史書である。宋代史から一百九の主要事件を選び出し、その事件がなぜ起こったのか、どのように展開したのか、その結末はどうなったかを論じたもので、古くは宋代理解の必須文献の一つであった。

本書の編纂由来は、本書に与えられた三種の序文に詳しいが、簡単に論じておくと以下のようになる。

明朝の後半、馮琦と沈越は宋代の歴史を紀事本末体で編纂すべく、馮琦は『宋史紀事本末』を、沈越は『宋史事紀』を著そうとしたが、両者ともその完成を見ずして逝去した。この中、馮琦の著書は弟子の劉曰梧の手に渡った。劉曰梧は師の著書の完成を期すべく、同郷の陳邦瞻に託した。これと同時に、劉曰梧は赴任先で徐申なる人物に出会い、著述完成の賛同を得た。この時、偶然にも徐申の部下に沈越の息子・朝陽がいた。徐申はこの朝陽を経由して沈越の遺稿を手に入れると、沈越の稿本も合わせて陳邦瞻にわたし、馮琦と沈越の二者の宿願を達せしめるよう依頼した。重責を課された陳邦瞻は、馮・沈両氏の努力を巧みに採り入れつつ、もちまえの博識を活かして大幅に史料を増補し、ここに『宋史紀事本末』を完成させた。完成した『宋史紀事本末』は、再び劉曰梧と徐申の校閲を経て上梓されるに至った。

つまり本書は馮琦、沈越、その子の朝陽、陳邦瞻、劉曰梧、徐申という六人の手によって完成したものであるが、陳邦瞻の「小生の増編したものは十に七であるが、ほとんどは侍御(劉曰梧)の趣旨であると共に、宗伯(馮琦)の遺志である」と言うように、本書編纂の嚆矢は馮琦にあり、編纂の実質的功労者は陳邦瞻に帰せられる。原刻本は二十八巻一百九篇であった。

本書の特徴は、書名にもあるとおり、紀事本末体によって宋代史を描いたところにある。紀事本末体とは、紀伝体・編年体にならぶ中国古代の歴史叙述法の一つで、陳邦瞻の当時からすれば、最も新しい方法であった。紀伝体は人物の伝記を中心に歴史を描くもので、『史記』や『漢書』がその代表である。編年体は歴史の事柄を某年某月某日の下に繋け、事件を時間の経過順に記すもので、経書『春秋』や『資治通鑑』を代表とする。

これら二つの方法に対し、紀事本末体は、事件や事柄を中心に歴史を叙述する方法である。紀伝体は人物を中心に叙述するため、複数の人物が関わった事件の全貌を知ろうとするとき、膨大な書物をすべて調べあげる必要がある。一方、編年体は時間を軸に事柄を叙述するため、無関係の事件が列挙され、特定の事件の経緯を知るには不便である。この両者の欠点を補うべく、南宋の人・袁枢が用いたのが、紀事本末体と呼ばれるものである。

紀事本末体は、特定の事件を説明する叙述方法である。多くの先行史料から、該当する事件に関係する記事を持ちより、それを事件の発端、経過、結末の順に配列するのである。これにより読者は、事件がいつ発生し、どのような紆余曲折を経て、しかるべき結末に到達したのか、手に取るように理解できるというのである。

紀伝体・編年体に編纂者の力量が問われることは言うまでもないが、紀事本末体にはまたそれとは別の力量が問われる。紀事本末体は、既に存在する紀伝体や編年体の史料を持ち寄ることで書物を作り上げる。随って、膨大な先行史料の中、どれが事件に関係し、どれが無関係なのか、これを見極めなければならない。否、それ以前に、そもそも膨大な史料に埋没する重要事件そのものを選び出さなければならないのである。紀事本末体の編纂者は、膨大な史料を知悉しておらればならぬのは勿論のこと、史料の取捨選択に対して特に力量が問われるのである。

では本書『宋史紀事本末』のできはどうであろうか。本書は宋代史を系統的に、そして簡便にまとめたものとして、宋代の歴史を求める者によく読まれた。清朝中期、『四庫全書』編纂のおりにも本書は正目に入れられ、つぎのような評価を受けている。

「太祖代周」から「文謝之死」に至るまで、全一百九目。宋朝一代の興廃治乱のあらましは、ほぼ備わっている。袁枢の編輯方針は最も完備しており、一貫性の面でも極めて精密である。邦瞻はそれを謹厳に守ったため、本書には頗る条理がある。歴代正史の中、『宋史』は最も編輯が杜撰であり、事件の脈絡を探りだせるよう作られていた『資治通鑑』とは違うのである。本書はそれを事件ごとに分類し、各々を関連づけたものである。体裁としては袁枢をまねたことになるが、〔複雑な『宋史』から〕事件の端緒を導き出した功績は、かえって袁枢に倍するものがある。……『宋史』の誤りや粗漏に依拠したままで、訂正できていないところもある。しかし〔『宋史』の〕杜撰な紀事の中、一貫して理解させる方途を作った功績は確かに認められる。『通鑑』を読むものに袁枢の書がなければならないように、『宋史』を読むものにも、この書がなければならないのである。(『四庫提要』宋史紀事本末)

四庫官の評価はやや過賞の嫌いなしとしないが、おおむね妥当なものだろう。その証拠にというわけではないが、本書は以後多くの読者を得たのである。

本書には原刻二十八巻本のほか、『元史紀事本末』『通鑑紀事本末』と合刻された十巻本、明末の張溥の「論正」を加えた百九巻本、張溥の「論正」を省いて巻数のみを百九巻とした別種の百九巻本が産み出された。百九巻本は、二十八巻全百九篇の篇を巻に改めたものであり、検索には便がある。二十八巻本は『四庫全書』に、張溥の百九巻本は『国学基本叢書』などに収められ、張溥「論正」を省いた百九巻本は、新式校点を施されて1977年に中華書局から出版された。

編纂の目的

馮琦にせよ、陳邦瞻にせよ、彼等はなぜ『宋史紀事本末』の完成に力を注いだのだろうか。なにが彼等を突き動かしたのだろうか。

人間は今の問題を解決するために、往々にして歴史の経験に頼ろうとする。今まさに解決しなければならない問題が生じたとする。それをどのように解決するか。そこでものをいうのは経験であり、経験に力を与えるのは理論である。しかし人間個人の経験には限界がある。まして解決すべき問題が大きければ大きいほど、影響するところが深ければ深いほど、人間個人の経験ではどうにもならない壁があるだろう。その困難を取り除くために、人は歴史の智恵を借りようとするのである。

本書の編纂者たち――明末の学者の認識からすれば、宋代の歴史は近代史にあたる。唐が滅び、五代の乱を治めて宋が勃興し、その宋が滅びて元が生まれ、元が滅びて明が誕生する。この明の人からすれば、宋はまさしく近代史で、時間的には数百年前のこととはいえ、時代感覚では一つ二つ前の時代であった。そこで自分達と似通ったこの時代の成功と失敗を明らかにすることで、翻って自分達の時代に活かそうというのである。これは現代の歴史学とは異質のものだが、常識的な人間感覚からいえば、現代人でも理解可能なことだろう。

『宋史紀事本末』も、ひとえに陳邦瞻らの生きた明朝の問題を解明するために作られたものだった。編纂者の一人・陳邦瞻は本書に与えた序文の中で、次のように宋代史研究の必要性を論じている。

そもそも史とは、往古を戒めとして来世の訓とし、世変を考えて治体を定めるものである。五帝三王の事は、既に存亡相半ばし、漢唐の盛事は、智者勇者の功名のみ、語るものの羨望するところとなっている。しかしそれらの世を考えているほどの余裕はない。宇宙の風気は、その変化の大なるものに三つある。太古の昔が一変して唐虞となり、周に至り、七国を一つの極とする。再び変じて漢となり、唐に至り、五季を極とする。宋はその三変目であるが、私はまだその極を見ないのである。変化がまだ極まらぬ間は、治体は前後因襲せざるを得ない。現在、国家の制度、民間の風俗、官司の行うところ、儒者の守るところ、一つとして宋に近からぬものがあるだろうか。宋の世を慕い、喜んで赴くのではない。勢いがそうさせるだけなのである。(陳邦瞻の序文)

人間の生活は変化(時代)を中心に考える必要がある。まず太古の時代(原始時代)から堯舜の聖代を経由し、周を経て、戦国時代を極点とする一時代があった。次に漢が興り、唐を経て、五代(五季)を極点とする一時代があった。この二つの時代を承け、第三番目の時代として登場したのが宋である。宋から元へ、元から明へと時代は進んだが、まだ時代の限界は見えてこない。我らの住む明朝は、まだ宋に始まる第三の時代に属しているのである。見てみよ、国家の制度、民間の風俗、官庁の政事、学者のなすこと、みな宋と同じではないか。ならば我々はまず宋朝一代の歴史を鑑み、その得失盛衰を極め、我が聖代に資さねばならぬ。いたずらに宋を好み本書『宋史紀事本末』を作るのではないのだ。――と、陳邦瞻は考えたのである。

しかし本書は、単に明朝に関係のある部分だけを論じたものではない。陳邦瞻は本書を執筆するにあたり、極力自分の言葉で説明するのを避け、既存の史料を適宜配列することに意を砕いている。今風にいえば「史料に語らせる」スタイルである。歴史を学ぶとは、歴史に学ぶことであるとも言うが、陳邦瞻はいたずらに自分の興味や感想を本書に込めるのではなく、できるだけ淡々と宋朝一代の顛末を明らかにするべく、主要な事件を択び、ふさわしい史料を配列することに意を砕いていった。かくして始めて歴史に学ぶことになるからであろう。

もちろん陳邦瞻らの前に、宋代史に興味を持った人間がおらぬわけでも、宋代史の研究書がなかったわけでもない。当の宋代に作られた歴史書(宋人にとっての同時代史)はひとまず置くとしても、編年体系列では、元朝には陳桱の『通鑑続編』24巻があり、明にも勅撰編纂物である『続通鑑綱目』27巻(商輅など奉敕撰。これには「発明」や「広義」とよばれる解釈書まで存在した)のほか、本書『宋史紀事本末』とほぼ同時代に成立した薛應旂の『宋元通鑑』64巻、王宗沐の『宋元通鑑』157巻がある。また紀伝体の書物では柯維騏の『宋史新編』200巻なども編纂されている。これらは中国歴代の史料編纂方法である編年体と紀伝体で書かれており、すこぶる正統的な書物である。

しかし前述の如く、紀伝体や編年体では、事件の経過が理解しにくい。紀伝体や編年体で書かれた膨大な史料を前にして、読者は困惑するばかりであろう。だれかが事件の筋道や顛末を示さなければ、このままでは明朝の鑑たるべき折角の宋代の歴史も塵に埋もれてしまう。そこで馮琦や陳邦瞻らは、当時としては最新の歴史叙述法――紀事本末体での宋代史編纂を思い付いたのである。本書は先行する紀伝体や編年体の宋代史関係史料から、宋代史を特徴付ける一百九の事件を取り出し、その発端・経過・結末を淡々と記述することで、読者に宋代史のなんたるかを示してみせたのである。

随って、『宋史紀事本末』に収録される事件は、基本的に先行する宋代史の歴史書に見えるものである。先行の歴史書から事件を取り出したものが本書なのだから、これは当然であろう。これは彼ら編纂者も強く意識するところで、陳邦瞻は楊万里の言葉を用い、紀事本末体の価値をこう説いたのであった。――「事の微かなるものを明らかなるものの前に掲げ、事の成りたるものをその萌しの後に取り置く。その隠れるたる本情は漏れ出で、その所以は竭くされながらも簡要である。」

なお付言しておくと、宋代史全体にわたる紀事本末体の歴史書は『宋史紀事本末』以前に存在しないが、北宋史のみであれば『続資治通鑑長編紀事本末』(以下、長編紀事本末)なる書物が南宋末に編纂されている。陳邦瞻等に何の言及もないところを見ると、彼らはこの書の存在を知らなかったのだろう。

本書の特徴(1)――正統観念

既に見たように、本書に対し、四庫官は相当の高評価を与えている。確かに本書は宋代史概論としてはそれなりの出来栄えである。もちろん本書は既存の歴史書から適宜必要部分を引用しただけなのだから、中には刪存の不備もある。繋年の明白な誤植の外、読者に事件の経緯を不正確に伝える恐れのある部分、そのままでは文意の理解に困難を来すもの、あるいは宋代の専門用語を誤解したような部分もないではない。しかしそれらは学問自体が低調であった明朝の編纂物と思えば、編纂の労力を褒められこそすれ、目くじらを立てて非難されねばならぬ部分ではない。そのような誤植や不備とは別に、本書の編纂方法についていささか気になるところがある。(1)正統観念の問題、(2)参考資料の問題である。以下、正統観念から論じておく。

もともと本書は正統観念の希薄な書物である。編纂者の序文に紀事本末体を採用した自分たちの功績を礼賛するのみで、正統観念について特に言及しないのはその証拠である。しかし彼らに正統観念が全くないわけではない。むしろ前代の『続資治通鑑綱目』や『宋元通鑑』(これらについては次に述べる)を承け、素朴な正統観念を保持していたと言ってよいだろう。しかしこれは現代の読者には少し注意を要する点である。

明代当時の正統観念は一般に華夷の別と言われる。華夷の別とは、漢民族の王朝を正統と見なし、それ以外の民族の王朝を異端と見なす観念である。具体的には、唐代五代の後、中国北方には契丹(遼)が勃興し、河北以南には宋(北宋)が誕生した。そして契丹の東に女真が勃興し、契丹を滅ぼすと、その余勢をかって北宋を滅ぼし、華北の地を領有した。一方、ほぼ中国全土を制圧していた北宋は金に滅ぼされ、華南の地を有するのみの南宋が新たに成立した。この間、契丹も金も北宋も南宋も、各々の君主を皇帝と呼び、各々君臣関係が存在した。また契丹と北宋、金と南宋は各々相手の国の君主を皇帝と呼び、公式には独立国として遇していた。

現代ではこの時代を描く場合、契丹と北宋、金と南宋を並列させるのだが、明代ではそのような書き方は認められなかった。彼らによれば、契丹や金は夷狄の王朝なのだから、正統な王朝と認められない。従って、五代以来の歴史は、五代‐北宋‐南宋‐元‐明(自王朝)となり、契丹と金はやむを得ないところを除いて省略される(元も夷狄の王朝だが、これに対する態度は複雑である)。他にも北宋と南宋の君主は皇帝と呼ばれるが、契丹や金の君主は「主」と呼ばれるなどの違いもある。

これらは現代の人間からすると頗る不当な処置であるが、このような観念を明朝の人間はもっていたのである。従って本書を読む場合は、このような華夷の別があることを念頭に置いておく必要がある。

ただし華夷の別はそれほど非理な観念ではない。少し余談になるが、この点だけ少しく論じておく。たしかに華夷の別は正統観念の産物ではあるが、これとは別に史料編纂の現実的問題とも絡んでいる。そもそも自国の歴史書を描く場合、常に主題・主語を設定する必要がある。例えば日本と中国を例に取った場合、もし華夷の別を設けなければ、ややこしい問題を起こすことになる。

例えば、日本が中国に使者を派遣した場合。「(日本は)使者を中国に派遣した」とも書ければ、「(中国に)日本の使者が来た」とも書ける。また日本と中国が戦った場合、「日本は中国と戦った」とも書ければ、「中国は日本と戦った」とも書ける。もちろん「日本と中国とが戦った/中国と日本とが戦った」とも書ける。また日本の使者が中国の皇帝に謁見した場合、「(日本の)使者が中国の皇帝に謁見した」とも書ければ、「(中国の皇帝は)日本の使者と謁見した」とも書ける。

事柄はどれも同じだが、主題・主語が異なれば叙述の方法も異なる。事柄は同じなら書き方は問わないという人もいるだろう。しかし日本人が日本人の書いた記事を読むのに、行為の主体を日本人以外に置くと読んでいて気持ちが分くるなる。これと同様、中国(明)が歴史を編纂する場合、正統観念を立てたくなくとも、なんらかの基準を設けなければ書物を書き得ないのである。そして明は宋から多くのものを承けたのであるから、必然的に宋を中心とした歴史書を書かざるを得なくなるのである。そしてこの書き方を厳密に適応すれば適応するほど、正統観念が読者の前に露骨に現れるのである。

本書の特徴(2)――参考資料

本書編纂の具体的な日時や状況の詳細はうかがい知れないが、徐申の序文から、陳邦瞻の増補が始まったのは万暦三十二年頃、そして翌年には『宋史紀事本末』として上梓されたことが知られる。また前述の如く、本書の七割は陳邦瞻の手になったものである。つまり、編纂の大綱は既に馮琦によって定められていたとはいえ、それなりの分量のある本書を、陳邦瞻は一年余りの時間で仕上げたことになるのである。

「『宋史』の誤りや粗漏に依拠したままで、訂正できていないところもある」という以上、四庫官の認識では、本書は『宋史』を編修して成り立ったと考えたのであろう。事実、本書の内容のほとんどは『宋史』に見えるものである。しかし歴代正史の中、最も猥雑ではあっても、最も浩瀚な『宋史』である。これを編纂の大綱が決まっていただけの段階から、一年足らずで現在の形にまで彫琢できるものだろうか。

もとより編著者らが言明せぬ以上、本書の参考資料を明らかにすることはできないが、『宋史紀事本末』の語り口や編纂方法、記事の取捨から判断するならば、恐らく陳邦瞻が本書の編纂に当たって多く参照したと思われるものに、『続資治通鑑綱目』(以下、続綱目)および『宋元資治通鑑』(以下、宋元通鑑)を挙げることができる。

『続綱目』は、明朝の中頃、朱熹の『資治通鑑綱目』――正統論を振りかざして司馬光の『資治通鑑』を再編集したもの――に続ける目的で、宋と元の歴史を編年体形式で編纂した勅撰物である。この中、宋代史の取材先は『続綱目』の凡例に記されるように、主として『宋史』にある。つまり『続綱目』は、宋代史の重要項目を「綱目」として箇条書きにし、それに対応する事件の本末(発端と結末)を『宋史』全編から探り出し、まま『宋史』以外の史書からも持ち寄り、それらをつなぎ合わせて文章を練ったのである。随って、『続綱目』は編年体の歴史書であるとはいえ、個々の綱目には紀事本末体とほとんど同じ編纂方法が採られていたのである。そして『宋元通鑑』はさらに野史などを導入して歴史の叙述に艶を加えたものである。このような編集方針は後々に四庫官から批判を受けるが(『四庫提要』宋元通鑑)、持ち寄った資料の分量は『続綱目』よりも多い。

陳邦瞻がたった一年余りで『宋史紀事本末』を完成させることが出来たのは、この『続綱目』と『宋元通鑑』の存在が大きい。両書によって始めから宋代史の中の重要事件や項目は選び出されており、さらにそれに対応する事件の本末も『宋史』を中心とする各種史料から持ち寄られていたのである。『宋史紀事本末』を読むとき、『宋史』との類似性が強いのも無理はない。もともと『続綱目』『宋元通鑑』は『宋史』を主たる史料として編纂されているのだから、『続綱目』『宋元通鑑』を多く用いた『宋史紀事本末』も、当然ながら『宋史』が主たる史料になるのである。

もちろん陳邦瞻は単に『続綱目』『宋元通鑑』を引き写すのではなく、各種の史料から別に記事を補ったところもあっただろう。特に『続綱目』の往々に省略する月日については、『宋史』やその他の史料から探し出してきたのだろう、『宋史紀事本末』には――相当の誤謬をともなってはいるが――、一々事件の年月日が付されている。

つまり本書は、馮琦がなんらかの方法で宋代の重要事件と編集方針を纏め上げ――恐らくは系統だった一百九篇の目を設定したのであろう――、陳邦瞻がそれを受け、一百九篇の目に関係する記事を、『続綱目』『宋元通鑑』から集めてきたということになる。『続綱目』『宋元通鑑』そのものが浩瀚な書物であり、ここから関係記事を収集するには相当の労力が必要であろうし、また陳邦瞻らが認めるように、紀事本末体は事件の始末を論ずることに功績があり、依拠した史料の云々は問題ではないのだから、本書に於ける馮琦や陳邦瞻の功績を過小評価する必要はない。しかしかといって、彼らが独力で、なんの因るところもなく、『宋史』から『宋史紀事本末』を編纂したと評価するのは、過賞と言わねばならない。

あるいは、南宋から元朝の学術成果として編纂された蕪雑な『宋史』から、紛いなりにも一定の綱目を抜き出し、それに関連する記事を『宋史』および関係資料から広く集めたものが『続綱目』であり、さらに各種資料を持ち寄ってより充実した編年体を作り上げたのが『宋元通鑑』であるなら、その成果を利用し、読者に宋代理解をより一層明白に知らしめるため編纂されたものが『宋史紀事本末』である――即ち『宋史紀事本末』は明代に於ける宋代史研究の一つの到達点であったと、肯定的に表現することもできるだろう。

叙述の特徴

最後に『宋史紀事本末』の叙述傾向について、少しく列挙しておきたい。『宋史紀事本末』は北宋から南宋まで一百九の項目を立てている。この中、本サイトで問題とする北宋の部分は、太祖代周から張邦昌僭逆までの五十八項目ある。張邦昌僭逆は南宋にも入れ得る。逆に高宗嗣統を北宋に加え、北宋を五十九項目とすることもできるだろう。しかし二十七巻本の巻数から考えて、北宋を張邦昌僭逆で区切るのを妥当とする。

まず、全体的な思想傾向――南宋中頃以後に猛威を揮った朱子学の影響を受けている。それは道学崇詘なる一篇を立て(南宋部分)、悪名高い『宋史』道学伝をそのまま放り込んだことからも明白である。随って、南宋以後に善悪が画定した新旧党派の争いなど、本書は明白に新法=悪、旧法=善という立場を保持している。本書に用いられた史料も、南宋以後に繰り返し論じられた史料を単純に引くのみである。

次に、篇目の選び方について――本書は一見したところ、宋代の事件を列ねることで、宋代の各時代の流れを理解させるようになってはいるが、実際には宋代にあった有名な事件の顛末を時代順に並べただけのものが多く、本書を通読しただけでは宋代史全体の流れを追うことは難しい。例えば、仁宗朝前半の呂夷簡の政治や神宗の元豊年間の事跡はほとんど抜け落ちている。また契丹(梁)や西夏について篇目を立てている割には、まとまった記述がなく、本書だけを読んでもその歴史は分からない(もっとも五代については袁枢の『資治通鑑紀事本末』に依れということなのだろうが)。

次に、篇中の文章について――本書には不自然な文章が相当存在する。これは彼らの依拠した『続綱目』『宋元通鑑』にも見られる難点である。もともと『宋史』は紀伝体であるから、各人物の本末が各人物の伝記内に描かれている。これを前にして、『続綱目』『宋元通鑑』は、改めて綱目を立て、綱目に各列伝の関係記事を配置し、編年体に編修しなおしたのである。随って、『続綱目』『宋元通鑑』の記事は、どうしても『宋史』列伝の旧文章を継ぎ足したような不自然な文章になり勝ちになる。『宋史紀事本末』は、この『続綱目』『宋元通鑑』を多く引き写したものである故、『続綱目』『宋元通鑑』の不自然な文章までも持ち込まれている。さらにここに『宋史紀事本末』独自の編修が加わると、混乱は一層の甚だしさを加えるのである。一文中に不自然に主語が何度も変ったり、原文では前後承けるはずの対が片方削られていたりと、とにかく『宋史紀事本末』は文章の疎通に難がある。

次に、宋代史の考証について――本書は『続綱目』『宋元通鑑』を始め、複数の史料を用いてはいるが、正確な考証によって用いたとは思われない。この点、考証を目的の一つに置いた清の徐乾学らの『資治通鑑後編』とは全く性格の異なるものである。『宋史紀事本末』は叙述の書物であって、考証の書物ではないのである。

最後に、本書の読み方について――本書は概ね皇帝ごとに事件を配列しているが、中には通代の記事も存在する。重複も多いが、目安を挙げると以下のようになる。

  • 第01~10……太祖
  • 第11~18……太宗
  • 第19~22……真宗
  • 第23~33……仁宗
  • 第34~36……英宗
  • 第37~42……神宗
  • 第43~47……哲宗
  • 第48~54……徽宗
  • 第55~57……欽宗
  • 第58……附録(張邦昌)

次に複数の篇目に渡って記事がつづくものには、以下のようなものがある。

  • 天下統一……第1~6,第11~12
  • 礼楽関連……第8,第28
  • 治水関連……第9,第33
  • 契丹関連……第13,第21,第52
  • 西夏関連……第14,第30,第40・41
  • 北宋滅亡……第52・53,第56・57

やや細かく見ておくと、(1)太祖朝は天下統一事業が大半を占め、(2)太宗朝は、天下統一事業の完了と、契丹・西夏との関係悪化を論じる外、交州(ベトナム)や四川で起こった李順の乱(および真宗朝に起こった王均の乱)を取り上げる。(3)真宗朝は契丹との和平と封禅の儀の二本柱、(4)仁宗朝は、初期の章献太后時代と丁謂の専権、後半の慶暦改革と李元昊との戦いが中心となる。(5)英宗朝は濮議が大半を占める。(6)神宗朝はほとんどが王安石の新法であるが、対西夏戦の失敗にも紙数を割いている。(7)哲宗朝は、前半の宣仁垂簾の旧法時代と、哲宗親政の新法時代に別れ、前半は司馬光の活躍した元祐更化が、後半は章惇の紹述が代表として挙がっている。(8)徽宗朝は最初期の新旧折中時代の建中初政の外は、いずれも蔡京とその亜流による北宋末期の暗黒時代が描かれる。(9)欽宗朝は金軍の来襲から滅亡まで。これは一年あまりの政権なので、だれが編纂しても政治事件としてはこれ以外に選びようがない。

『宋史紀事本末』は必ずしも浩瀚な書物ではない。そのため全体的に大まかな編纂のなされている所が少なくない。そこで同じ北宋の歴史を紀事本末体で著した『長編紀事本末』の篇目を挙げることで、『宋史紀事本末』の篇目撰定の多寡を示しておきたい。なお『長編紀事本末』は、北宋の基本資料である『続資治通鑑長編』を下敷きにしたもので、北宋の主要事件はほぼもれなく収録している。以下、全篇目を挙げるのはあまりに煩瑣なので、哲宗朝の篇目のみを挙げる。

まずは『宋史紀事本末』の篇目。

篇名
1043元祐更化
44宣仁之誣
45洛蜀党議
46紹述
1147孟后廃復

次に『長編紀事本末』の篇目。備考に「缺」とあるのは、現行本の欠落部分を指す。篇目名は原則として目録記載のものを取ったが、まま本文小目によって訂正を加えた。

紀事名備考 紀事名備考
91宣仁垂簾(皇太妃附) 106常安民罷察院
92講読 銭勰罷内翰
93求直言 常立以誣詆貶責
十科挙士 王珪以誣詆追貶
聖徳 107蔡確詩謗
政迹 劉文書獄
94変新法 108差役
95用旧臣上 109保甲
96用旧臣下 馬政
97逐小人上 110常平倉
98逐小人下 青苗
汰監司 市易務(抵当附)
99調停 111回河上
朋党(劉呂罷相附) 112回河下
100紹述(蘇轍罷政附) 導洛(広武埽附)
101逐元祐党上(編類章疏附) 113立后(廃后附)
102逐元祐党下(詔榜訴理編類附) 配享
103台諫言蘇轍(策題詩謗附) 114修実録
台諫言程頤(川洛党並賈易附) 修国史
104張舜民罷司職 修玉牒
韓維解機政 定新暦(徽朝附)
王覿罷諫政 渾天儀象
鄧温伯罷翰苑 玉璽(改元附)
105劉安世居諫職 115獲鬼章
蘇頌罷相(范百禄附) 116取棄湟鄯州
二蘇貶逐

もとより『長編紀事本末』にあって、『宋史紀事本末』にないものは多いが、例えば『長編紀事本末』巻91~99は『宋史紀事本末』の元祐更化(本来、調停は元祐更化と異なるが)、巻100~102と巻104~106前半は紹述、巻103は洛蜀党議、巻106後半と巻107は宣仁之誣、巻113は孟后廃復に相当し、巻108~112は各々元祐更化と紹述に組み入れられる。恐らくは巻114~116も同様であろう。

両書に於ける記事の詳略は歴然であるし、各々宋代史の見方が同じわけでもない。また『長編紀事本末』の如く詳細を求めるか、『宋史紀事本末』の如く大略を求めるかは、読者が宋代史に求める目的によって変る。


本書の性格をまとめると以下のようになる。

馮琦と陳邦瞻を中心に編纂された『宋史紀事本末』は、南宋から元朝にかけて作られた宋代史の成果を大成した『続綱目』を基礎とし、宋朝一代の有名事件を列挙したものである。本書に述べられた事件のディテールや篇目の組成には荒さが目立つが、本書に収められた北宋五十八項目には、北宋の著名な事件はほぼ押さえられ、人口に膾炙した著名なエピソードも洩れなく収められている。

厳正な考証による事実の羅列や、研究上の資料を求める場合、本書は役に立たない。しかし古い馴染みの治乱興亡の歴史でも読んで、人生のよすがにしようというとき、あるいは取りあえず『宋史』の有名部分だけでも目を通したいというとき、本書は最も力を発揮する。特に伝統的な宋代史像を知るには、格好の手引き書となるだろう。

簡単に言えば、『宋史紀事本末』は、やや本格的な宋代史の入門書とでも言うべきものである。

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