宋史紀事本末附記

『金史紀事本末』関係記事


巻四
燕雲棄取(張覚 郭薬師附)

(01)太祖の天輔元年(1117)冬十二月、宋使の登州防禦使の馬政が国書を持って来訪した。〔国書に〕曰く、「日出の分は、実に聖人を生ず。窃かに聞く、遼を征し、しばしば強敵を破ると。もし遼に克つの日あらば、五代の時に契丹に陥入せし漢の地、願わくは与えられんことを」と。


(02)二年(1118)春正月庚寅(七日)、索多(散覩)を返礼のため宋に派遣した。その書に曰く、「請う所の地、今まさに宋と挟攻せん。得る者、これを有さん」と。


(03)三年(1119)春正月。(1)


(04)夏六月辛卯(十六日)、索多が宋から帰還した。宋使の馬政とその子の宏が返礼のため訪れた。

索多は宋の団練使をもらっていた。帝(金の太祖)は怒り、杖で打ち付け、団練使の位を奪った。宋使が帰国したので、また貝勒の色埒・赫嚕などを宋に遣わした。


(05)四年(1120)春二月、貝勒の色埒・赫嚕が宋から帰還した。宋使の趙良嗣・王暉が来訪し、燕京と西京の帰属について意見を交わした。


(06)夏四月乙未(二十五日)、帝は遼の親征を決意し、〔遼の〕上京に落とした。宋使の趙良嗣らは酒を奉じて上寿を祝い、万歳を称呼した。


(07)五年(1121)春二月。


(08)六年(1122)春三月、遼の秦晉国王の耶律聶○(捏里)(2)が燕で帝を称した。


(09)夏四月壬辰(四日)、図克担烏済(徒単烏甲)と高慶裔が宋に行った。


(10)五月、遼の聶○が使者を遣わし、進軍の停止を訴えた。すぐに楊勉に書簡を持たせ、燕京に向かわせると、聶○に降伏を勧告させた。


(11)六月、耶律聶○が卒した。妻の蕭氏が制を称した(君権を代行したの意)

これ以前、聶○が帝を称すと、怨軍を常勝軍と改名し、その首領の鉄州の郭薬師を諸衛常勝軍に抜擢した。ここに至り、薬師は涿州と易州を従え、宋に帰順した。薬師はたちまち宋兵六千を率いて燕京を襲った。甄五臣が五千人を率いて迎春門を破り、城に入った。蕭妃は城門を閉ざし、宋兵と城内戦を繰り広げた。薬師は大敗し、馬までも失って、走って城から逃げ出した。宋人はそれでも薬師に手厚く報いた。


(12)冬十二月、帝は燕京に親征した。

先鋒として宗望(斡離不)に七千の兵を授けた。都古嚕訥が得勝口に向かい、尼楚赫(銀朮可)が居庸関に向かった。羅索(婁室)を左翼とし、博勒和(婆盧火)を羽翼とした。居庸関まで軍を進めたところで、遼の知枢密院の左企弓・虞仲文、枢密使の曹勇義、副使の張彦中、参知政事の康公弼、簽書の劉彦宗が表を奉じて降伏した。


(13)辛卯(六日)、遼の百官が軍門に降り、罪を請うた。遼の百官を赦免した。


(14)壬辰(七日)、〔帝は〕徳勝殿に御した。群臣が賀を称した。


(15)甲午(九日)、左企弓らに燕京を撫定させた。蕭妃が逃亡した。


(16)七年(1123)春正月甲子(十日)、遼の平州節度使の時立愛が降伏した。平州全域に恩赦を下した。


(17)己卯(二十五日)、宋使が来訪し、燕京・西京の帰属について意見を交わした。


(18)二月癸巳(九日)、宋がまた趙良嗣を寄こし、歳幣額の増加を燕の祖税に代えたいと言ってきた。また国境確定、賀正旦・生辰の使節、榷場に於ける交易、および西京の帰属について意見を交わした。


(19)癸卯(十九日)、尼楚赫・道拉(鐸刺)が宋に行った。


(20)戊申(二十四日)、平州の官僚に命じ、宋使の立ち会いの下、燕京六州の割譲地を宋に分割させた。

平州を南京に改め、張覚をその留守とした。覚は遼のとき進士となり、遼興節度副使にまでなった。ここに至って降伏し、留守に抜擢された。


(21)三月戊午(五日)、宋使の盧益・趙良嗣・馬宏が国書持参で来訪した。


(22)夏四月壬辰(九日)、また宋に国書を送った。


(23)癸巳(十日)、実古納(習古逎)と博勒和の警護の下、長勝軍および燕京の豪族・工匠を松亭関経由で内地に移住させた。


(24)五月甲寅(二日)、南京留守の張覚が城を奪って叛乱を起こした。

当時、左企弓・虞仲文・曹勇義・康公弼らは、士人や民草とともに北に移動していた。広陵に赴き、平州に立ち寄ったときのこと。覚は人を遣わし、栗林の麓で殺させた。覚はすぐに南京ごと宋に帰順した。宋人はこれを受け入れた。

太祖は南京の官吏を諭して言うならく、「私がはじめ燕京に軍を進めたとき、汝ら吏民は率先して投降した。だから府治を升して南京とし、労役を減らし、賦税を薄くした。汝らに対する恩は充分と言えよう。それがなぜ軽々しく叛逆など起こしたのだ。兵を汝らの土に進むべきこの時、まさに農繁期に当たる。一人の悪人のため、衆庶に害を及ぼすには忍びない。且つ遼国はすべて我らのものになった。孤城でもって守りを固めても、如何ともし難かろう。今はただ首悪の罪のみを問い、他の者は並びに罪を赦せ。」

覚は兵五万を潤州近郊に駐屯させ、遷州・来州・潤州・隰州を脅かした。南路軍帥の棟摩(闍母)が錦州から討伐に向かい、営州で覚の兵を破った。余勢を駆って南京攻略を企図したが、暑さと雨のため進むことができず、軍を浜辺に斥けた。ほどなく、また楼嶺口で戦い、覚の兵を破った。また兎耳山で戦ったが、棟摩は敗退した。覚は宋に勝利の報告を送った。

宋は平州に泰甯軍を建て、覚に節度使を授け、張敦固らにも徽猷閣待制を加え、覚の軍に銀絹数万を与えた。

覚が再び軍を整えると、烏雅富拉琿が諸将を欺いて言うには、「敵軍は少ない。急激すれば破れるだろう。もし城にでも入られたなら、どうすることもできぬ。」ついに合戦し、覚の兵を破った。


(25)〔太宗の天会元年〕十一月壬子(三日)、宗望に棟摩の罪を調査させ、代わって軍を統括させた。

宗望は広甯を出発し、海岸の諸郡県を下した。折しも覚は宋の褒美を迎えるべく、〔城外に〕出ていた。宗望は兵を率いて覚を襲った。南京城東部で戦い、大いに覚の兵を破った。覚は燕に逃げると、宋の帥臣の王安中は覚を武器庫に匿った。宗望は謀反人を隠匿したといって宋を問責し、覚を捜索させた。安中は覚に似た男の首を斬り、覚に装わせた。しかし計画の失敗を覚るや、覚を殺し、首を箱詰めにして献上した。これ以後、〔宋に〕投降した将軍や兵卒に動揺が生じ、ついに紛争の発端となった。

覚が宋に帰順したとき、城中の人はその父と二子を引っ立て、軍中で殺した。子の謹言は後々世宗に仕え、勧農使となった。死後、輔国将軍を贈られた。


(26)壬申(二十三日)、張忠嗣・張敦固が降伏した。

使者を遣わし、敦固と城に入って、民を安撫させた。しかし〔平州の民は〕また使者を殺し、叛乱を起こした。


(27)この月、南京に命じ、武州と朔州を宋に割譲させた。


(28)太宗の天会二年(1124)春正月壬子(三日)、宗望および将兵の南京攻略の功績を賞し、棟摩の罪を赦した。宋に書を送り、逃亡者の探索させた。


(29)甲戌(二十五日)、西南・西北両路都統の宗翰・宗望が、山西郡県を宋に割譲せぬよう訴えた。帝は「それでは先帝の命に違えることになる。すぐに与えよ」と言ったが、ほどなく宗翰の献言に従い、割譲を止めた。


(30)丁丑(二十八日)、京師から南京まで、はじめて五十里ごとに駅を置いた。


(31)二月乙巳(二十七日)、南京の官僚に命じ、事の大小に関わらず軍帥に建白させ、朝廷への専達を禁止した。


(32)三月己酉朔、宗望に命じ、功労のあった将兵に宋の歳幣銀絹を分与させた。


(33)己未(十一日)、南京の将軍の劉公冑・王永副が家を棄て、城壁を越え、投降して来た。公冑を広甯の尹とし、永副を奉先節度使とした。


(34)夏五月乙巳(二十九日)、棟摩が南京を下し、都統の張敦固を殺した。


(35)三年(1125)秋八月壬子(十三日)、有司に命じ、射撃の得意な者、勇敢な者に訓練を施し、宋に備えさせた。


(36)冬十月甲辰(七日)、諸将に命じ、道を分けて宋を侵略させた。


(37)南京路都統の宗望が南京から燕山に入った。三河に到着したところで、郭薬師・張令徽・劉舜仁と白河で戦い、大いにこれを破った。薬師が降伏した。燕山府下の州県は平定された。薬師を燕京留守とし、金肺を与え、完顔の姓を授け、手引きとして用いた。薬師は宋の虚実を知り尽くしていた。宗望が遠征軍を率いて奥深く侵入し、人質・納幣・割地を取り付け、完勝して帰還できたのは、薬師が宋人の実情を計り、その実情を当てたからである。諸将に両鎮を討伐させた際、薬師は順安軍の陣営を破り、三千余人を殺した。

子の安国は海陵王に仕え、姓を郭に戻した。海陵王の南侵に従い、刑部尚書として副都統となったが、人々に殺された。


巻六
太宗克汴

(01)太宗の天会三年(1125)は、宋の徽宗の宣和七年である。


(02)夏六月庚申(二十日)、李用和らを告慶使として宋に派遣し、遼の君主の捕縛を報告させた。


(03)冬十月甲辰(七日)、諸将に宋を侵略させた。

安班貝勒の杲(舎音)に都元帥を兼任させ、伊勒斉貝勒の宗翰(粘罕)に左副元帥を兼任させ、希尹(兀室)を元帥右監軍とし、伊都(余覩)を元帥右都官とし、西京から太原に向かわせた。

六部路軍帥の達蘭(撻懶)を六部〔路〕都統とし、舎音(斜野)を副官とし、宗望(斡離不)を南京路都統とし、棟摩(闍母)を副官とし、知枢密院事の劉彦宗に漢軍都統を兼任させ、南京(平州)から燕山に向かわせた。


(04)丁巳(二十日)、宗望の献言により、棟摩を南京都統とし、蘇赫(掃喝)を副官とし、宗望を棟摩・劉彦宗両軍の監戦とした。


(05)十二月庚子(三日)、宗翰が朔州(雲中府路)を下し、さらに代州(河東路)を下した。

丁巳(二十日)、中山府(河北西路)の降伏を受け、ついに太原府(河東路)を囲んだ。

伊都が宋の河東・陝西の援軍を汾河の北側で破った。

布希が宋兵を古北口で破った。


(06)宗望が宋軍を白河で大いに破った。郭薬師らが降伏し、燕山府下の州県を平定した。

当時、王伯龍は左軍を率いていたが、宋軍に急襲をかけた。このため宋軍は大混乱に陥った。諸軍は余勢を駆って進撃し、薬師は大敗した。


(07)宗望が真定府(河北西路)で宋兵を破った。

当時、富埒琿は漢兵千騎を率い、蒙克とともに真定府を攻め、さらに賛皇(定州治下)を奪った。無数の人間、畜産および兵器を入手した。ついに信徳府(河北西路)に逼った。

これ以前、宗望は信徳府の攻略を考えていた。しかし攻略が難しかろうとて、意見が分かれた。大㚖(托卜嘉)は本部の兵を率い、射撃の得意な兵に城楼を射かけさせる一方、精兵を楼角(楼のひさし)に登らせ、ついに城を落とした。


(08)四年(1126)春正月戊辰(二日)、宗弼(兀朮)が湯陰(河北西路相州)を奪った。

大㚖が濬州(河北西路)を攻略した。

軍が濬州に到着したとき、宋人は既に河橋を焼いていた。宗望は軍に命令を発した。――「先に河を渡ったものに、上等の功を与える。」大㚖は十余舟を手に入れるや、すぐさま河を渡って宋の守備兵に攻撃をかけ、河岸の防御壁を奪った。これにより全軍が河を渡り、ついに濬州を下した。

己巳(三日)、諸軍が河を渡った。

庚午(四日)、滑州(京西北路)を奪った。


(09)宗望は呉孝民らを汴京に向かわせ、平山の首謀者――童貫・譚稹・詹度らを問責した。

宋の太上皇帝(徽宗)が出奔した。

癸酉(七日)、諸軍が汴城を囲んだ。

甲戌(八日)、宋使(宋の使者)の李梲が謝罪に訪れ、さらに修好を求めた。宗望はこれを許可しすると、あわせて人質の提出、中山(河北西路)・河間(河北東路)・太原(河東路)の三鎮の割譲、金五百万両、銀五千万両、牛馬万頭、表段百万匹の供出を求めた。また載書には伯姪と記述させた。

宋は康王構と少宰の張邦昌を人質に差し出し、誓書と地図を献上した。

癸未(十七日)、諸軍が囲みを解いた。

二月丁酉朔、夜、宋将(宋の将軍)の姚平仲が四十万の兵を率いて宗望の陣営を襲った。これを撃退した。

己亥(三日)、宗望がまた汴城を包囲した。

宋使の宇文虚中は書簡を持参した。人質を肅王枢に代え、康王構を帰らせた。軍を帰還した。

壬子(十六日)、滑州と濬州を宋に与えた。


(10)宗翰が威勝軍(河東路)を平定し、隆徳府(河東路)を下した。

丁巳(二十一日)、沢州(河東路)に軍を進めた。

三月癸未(十七日)、尼楚赫(銀朮)が太原を囲んだ。宗翰が西京に帰還した。

夏四月乙丑(二十九日)、耿守忠が西都谷で宋人を大いに破った。


(11)五月辛未(六日)、宋の种師中が十万の兵を率いて井陘(河東路代州西北)に出撃し、楡次(太原府下の県)を陣を布いた。

完顔和尼(活女)と托克索(突合速)が殺熊嶺で宋兵を破り、戦場で師中を斬った。

托克索が巴爾斯(抜離速)とともに宋の姚古の軍を隆州谷で破った。


(12)潞州(河東路)が叛乱を起こした。

固納・托克索・巴爾斯は宋兵十七万に囲まれた。托克索は馬を下りて力戦し、ついに囲みを破って脱出した。


(13)秋七月戊子(二十四日)、蕭仲恭が宋から帰還し、宋帝(宋の皇帝)が耶律伊都に与えた密書を持参し、意見を述べた。


(14)八月庚子(七日)、左副元帥の宗翰と右副元帥の宗望に南侵を命じた。

庚戌(十七日)、宗翰が西京を出発し、宗望が保州を出発した。

宋の張灝が十万の兵を汾州に出したが、巴爾斯がこれを打ち破った。羅索(婁室)・托克索らがまた宋兵を文水で破った。

劉臻が兵を率いて壽陽(太原府下の県)を出たが、羅索がこれを破った。

耶律鐸が宋兵三万を雄州(河北東路)で破った。

納延(那野)らが宋兵七千を中山府で破った。

庚申(二十七日)、托紐(突撚)が新楽(河北西路定州の県)を奪った。


(15)九月丙寅(三日)、宗翰が太原府を下し、経略使の張孝純を捕らえた。

呼沙呼(鶻沙虎)が平遙・霊石・介休・孝義の諸県(河東路汾州附近の県)を奪った。

辛未(八日)、宗望が宋の种師閔の軍を井陘で破り、天威軍(河北西路)を奪った。真定府を下し、その守臣の李邈を殺した。

冬十月、羅索が汾州(河東路。以下同じ)を下した。石州が降伏した。芬徹が平定軍を下した。遼州が降伏した。


(16)十一月甲子(三日)、宗翰が太原府から汴城に向かった。

戊辰(七日)、威勝軍(河東路)を下した。

癸酉(十二日)、薩○[口刺]達(撒刺答)が天井関(河東路沢州)を破った。

乙亥(十四日)、隆徳府(河東路)を下した。

和尼が盟津を渡った。

西京・永安軍(河北東路)・鄭州(京西北路)が降伏した。

庚辰(十九日)、沢州(河東路)を下した。

羅索が沢州に到着したとき、托克索・烏嚕は五百騎を引き連れ、その前駆となり、河陽を招撫した。さきに黄河津に陣を布くと、宋兵万余は背水の陣を布いた。しかし進撃してこれを破った。宋兵のほとんどが水没した。ついに河陽を降した。

懷州(河北西路)を攻め取った。


(17)宗望が真定府から汴城に向かった。

宋が睢陽(応天府)に諸路の軍を集めていると知り、兵を出して達蘭・阿里庫に防がせた。達蘭らは宋兵の前鋒三万を杞県(開封府)で破った。拱州(京東西路)を奪い、甯陵(応天府)を降し、また睢陽で二万の宋兵を破った。亳州を奪い、宋兵四万を破り、将軍の石瑱を生け捕りにした。

庚辰(十九日)、諸軍が河を渡った。臨河(応天府)・大名(大名府)の二県、徳清軍(大名府)・開徳府(河北東路)が降伏し、ついに汴城に到着した。


(18)閏月壬辰朔、宋が兵を出して抵抗した。宗望らがこれを撃退した。

この時、宋人は夜に兵を出して攻城兵器を焼いた。持嘉暉が謀克(金の軍単位)を二部隊繰り出して宋兵を撃退し、至るところ勝利を収めた。同じころ阿里と察遜雅薩も兵を合わせて宋兵を防いだため、宋軍は壊滅した。

大尉の何㮚が軍数万を率いて酸棗門から出撃した。王伯龍が本部の兵を率いてこれを防いだ。殺戮・捕縛にした宋兵は多数にのぼった。


(19)癸巳(二日)、宗翰が汴城に到着した。


(20)丙辰(二十五日)、汴城を下した。

この日の暮れ、宋人なおも勇み戦い、富埒琿の手に槍が刺さった。しかし富埒琿はさらに力戦し、ついに宋軍を破った。


(21)辛酉(三十日)、宋帝が青城に出居した。


(22)十二月癸亥(二日)、宋帝が降伏した。この日、汴城を帰した。


(23)五年(1127)春正月癸巳(三日)、宗翰と宗望は使者を派遣し、宋の降表を献上した。


(24)夏四月、諸軍が北に還った。


巻七
宋帝北遷(和議附)

(01)太宗の天会五年(1127)は、宋の欽宗の靖康二年である。


(02)春二月丙寅(六日)、詔を降し、宋の二帝を庶人に降した。


(03)夏四月丙戌(二十七日)、宗翰・宗望は宋の二帝をつれて北に帰った。


(04)五月庚寅朔、宋の康王が帰徳(応天府。帰徳は軍額)で即位した。


(05)六月庚辰(二十二日)、宗望が卒した。宗輔を右副元帥とした。


(06)冬十月辛未(十五日)、宋の二帝が燕から中京に移住した。


(07)十二月丙寅(十一日)、宗輔に宋を侵略させた。


(08)六年(1128)秋七月乙巳(二十三日)、宋帝は使者を派遣し、表を奉じ、和平を求めた。


(09)宋の二帝を上京に移した。


(10)〔八月〕丁丑(二十五日)、宋の二帝は素服で太祖の廟に謁見し、ついに乾元殿で〔帝に〕謁見した。宋の上皇を昏徳公に降し、帝を重昏侯とした。


(11)冬十月戊寅(二十七日)、昏徳公・重昏侯を韓州に移した。


(12)七年(1129)夏五月乙卯(3)、巴爾斯らが揚州で宋帝を襲った。


(13)冬十月、宗弼(兀朮)が長江を渡り南侵した。


(14)十二月壬寅(二十八日)、宋帝が海に逃げた。


(15)八年(1130)夏六月癸酉(三日)、昏徳公の六女を宗婦とした。


(16)秋七月丁卯(二十七日)、昏徳公・重昏侯を呼爾哈路に移した。


(17)九年(1131)夏六月壬辰(二十七日)、昏徳公・重昏侯に時服各々二着を下賜した。


(18)冬十一月己未(二十六日)、趙氏の疏属(遠い一族)を上京に移した。


(19)十一年(1133)秋八月戊子(六日)、趙㮙が父の昏徳公の謀叛を誣告した。㮙とその婿の劉文彦を誅殺した。


(20)十一年(1134)、阿里と高彪が水運を防いだ。

宋の水軍が亳州の水運を止めた。これを撃破し、六十余里に渡り追撃・殺戮を加え、宋の将軍の蕭通を捕らえた。漣水の水上要塞を破壊し、宋の大船をすべて入手した。ついに漣水軍を奪い、民を安撫した。


(21)十三年(1135)夏四月丙寅(二十三日)、昏徳公の趙佶が薨じた。使者を派遣し、宋に喪を伝え、喪具を送った(4)


(22)十五年(1137)冬十一月丙午(十八日)、斉国の劉予が廃された。行台尚書省を汴城に設置した。


(23)煕宗の天眷元年(1138)秋八月己卯(二十六日)、宋に河南の地を与えた。右司侍郎の張通古らを江南に派遣した。宋帝は君主として振る舞うべく、通古に北面(臣下の礼)を求めた。しかし通古は拒否した。そこで宋帝は西面し、常時の儀礼の如く、〔金帝の〕詔を受けとった。当時、宋は河南に守備兵を置いていた。通古はこれについて批判し、〔宋に守備を〕止めさせた。


(24)二年(1139)夏四月己卯(三十日)、宋は使者を派遣し、河南の地〔の贈与〕に感謝の意を示した。


(25)秋七月辛巳(三日)、宋国王の宗磐と兖国王の宗雋が謀叛を起こしたので、これを誅殺した。


(26)八月辛亥(四日)、行台左丞相の達蘭(撻懶)が謀叛を起こしたので、これを誅殺した。(5)


(27)九月壬寅(二十五日)、宋が王倫らを送って来た(6)。宋の使者を抑留し、帰国を許さなかった。


(28)三年(1140)夏五月丙子(三日)、都元帥の宋弼に命じ、再び河南・陝西の地を奪わせ、これを平定させた。


(29)皇統元年(1141)春二月乙酉(十六日)、昏徳公の趙佶を天水郡王に改封し、重昏侯の趙桓を天水郡公に封じた。


(30)この年の秋、都元帥の宋弼が再び宋を侵略し、淮水を渡り、書簡によって宋を問責した。宋は返書して兵を止めるように訴えた。宋弼は独断で淮水を国境とした。


(31)冬十二月癸巳(二十九日)、天水郡公が身分相当の俸禄を求めた。そこで詔を下し、物資を与えた。


(32)二年(1142)春二月辛卯(二十七日)、宋が曹勛を寄こし、歳幣として銀絹二十五万両匹の供出を許諾し、永の修好遵守を誓った。


(33)三月丙辰(二十三日)、左宣徽使の劉筈を派遣し、衮冕圭冊を用い、宋の康王を帝と認めた。母の韋氏、および故妻の邢氏、天水郡王、ならびに妻の鄭氏の喪を江南に送った。ついで宋を臣として天下に詔を下した。


(34)〔五月〕乙卯(二十三日)、宋に誓詔を下賜した。


(35)秋八月丁卯(七日)、朱弁・張邵・洪皓を宋に帰国させた。宋はすぐに使者を派遣して来て、感謝の意を示した。これ以後、信使が絶えなかった。


(36)九月壬辰(三日)、天水郡王の子・姪・婿、および天水郡公の子に俸給を下賜した。


(37)四年(1144)春正月己丑朔、慶賀のため、宋が使者を送ってきた。己未(七日)、宋の使者の王倫を平州転運使とした。ひとたび命令を受けながら、後に辞退した。倫を反復の罪に問い、誅殺した。


巻八
張邦昌之僭

(01)太宗の天会四年(1126)は、宋の欽宗の靖康元年である。


(02)春正月癸酉(七日)、南京路都統の宗望(斡離不)が汴城を包囲した。宋は李梲を謝罪に派遣し、また修好を求めてきた。これを許した。宋は康の構、少宰の張邦昌を人質とした。しばらくして送り返した。軍が帰還した。


(03)秋八月庚子(七日)、佐副元帥の宗翰(粘没喝)、右副元帥の宗望が再び宋を侵略した。


(04)冬閏十一月丙辰(二十五日)、汴城を下した。


(05)十二月癸亥(二日)、宋帝が降伏した。


(06)五年(1127)春正月癸巳(三日)、宗翰らが宋帝の降伏書簡を献上した。知枢密院事の劉彦宗が再び趙氏を君主とするよう求めたが、許さなかった。


(07)二月丙寅(六日)、宋の二帝を庶人に降した。


(08)三月丁酉(七日)、宋の少宰の張邦昌を大楚皇帝とした。


(09)夏四月、軍が帰還した。丙戌(二十七日)、宗翰・宗望が宋の二帝をつれて北に帰った。


(10)五月庚寅朔、康王が帰徳(応天府)で即位した。


(11)宋は張邦昌を断罪し、秘め事を理由に殺した。太宗はこれを知って激怒し、元帥府に南侵を命じた。宋帝は揚州に逃げた。


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(1)攷異中に宋と金の使者のやりとりが記されている。
(2)○は外字。
(3)二月乙卯の誤。二月の乙卯は六日、五月に乙卯は存在しない。
(4)この年、熙宗即位するも改元せず。
(5)以上の二条、攷異なし。
(6)本書は金を主体に記述しているので、文章の視点は常に金にある。随って、「宋から使者が送られて来た」と書くことはあっても、「宋が使者を派遣した」と書くことはない。



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