『宋史紀事本末』四庫提要

総目提要

宋史紀事本末』二十八巻(原二十六。據書前提要改)両淮塩政採進本

明の陳邦瞻の撰。邦瞻、字は徳遠、高安の人。万暦戊戌(1598年)の進士。官歴は兵部左侍郎にまでなった。事蹟は『明史』に備わっている。

当初、礼部侍郎の馮琦(臨胊の人)は、〔袁枢の〕『通鑑紀事本末』のやり方にならい、宋朝の事件を分類して、袁枢の続編を作ろうとしたが、完成させられずに死んでしまった。御史の劉曰梧(南昌の人)は、馮氏の遺稿を手に入れ、邦瞻に委託して増訂編輯させた。概ね、馮琦に基づくものは十の三、邦瞻の手になるものは十の七である。「太祖代周」から「文謝之死」に至るまで、全一百九目。宋朝一代の興廃治乱のあらましは、ほぼ備わっている。

袁枢の編輯方針は最も完備しており、一貫性の面でも極めて精密である。邦瞻はそれを謹厳に守ったため、本書には頗る条理がある。歴代正史の中、『宋史』は最も編輯が杜撰であり、事件の脈絡を探りだせるよう作られていた『資治通鑑』とは違うのである。本書はそれを事件ごとに分類し、各々を関連づけたものである。体裁としては袁枢をまねたことになるが、〔複雑な『宋史』から〕事件の端緒を導き出した功績は、かえって袁枢に倍するものがある。

宋元の時代、〔中国は〕南北に分かれており、まだ統一されていなかった。そのため本書の紀事は遼金の両朝にまで及んでいる。それなら〔書名を〕「宋遼金三史紀事」とでもすれば、名前と実質とが乖離するようなことはなかったであろう。にもかかわらず、ただ「宋史」とのみ標目しているのは、まことに〔宋のみを正統とする〕偏見の致すところである。邦瞻には別に『元史紀事本末』なる書がある。本書の「蒙古諸帝之立」「蒙古立國之制」などの篇は、元朝初期の史実を記したものだから、『元史紀事本末』の中に入れたなら、首尾一貫したものになったであろう。それを〔南宋の都の〕臨安がまだ陥落していないからといって、一括して宋史の中に入れてしまった。これは最も編輯を誤ったものである。これ以外にも、『宋史』の誤りや粗漏に依拠したままで、訂正できていないところもある。

しかし〔『宋史』の〕杜撰な紀事の中、一貫して理解させる方途を作った功績は確かに認められる。『通鑑』を読むものに袁枢の書がなければならないように、『宋史』を読むものにも、この書がなければならないのである。

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