『宋史紀事本末』の読み方

細々しいことは解題に書いたのでそちらを読んでいただくとして、簡単に説明すると、『宋史紀事本末』は宋代の歴史を事件ごとにまとめた本である。歴史書の体裁を取っているので、大まかには時代順に並んでいるが、本書を冒頭から読む必要はなく、知りたい事件、気になる篇目から読み進めればそれでよい。とはいえ、事件は時間順に起こる。一つの事件も、それに先立つ別の事件を原因とする場合もある。だから本書は読みたいところから読み進めればいいとはいえ、おのずとある程度の篇目をまとめて読んだ方が理解しやすい部分もある。そこで以下には本書の大まかな流れを説明しておきたい。

北宋の成立―太祖の時代―(960~976)

五代随一の名君と称される後周の世宗が若くして没した後、その有力武将・趙匡胤は部下の推戴をうけ、皇帝となり、宋王朝を開いた。これが宋の太祖である。太祖は反旗を翻した後周の武将たち――韓通・李筠・李重進を殺し、華北に於ける王朝権力を確たるものにした(太祖代周)。新たに即位した宋の太祖は、その軍事力を背景に、まず荊州・湖州を攻略(平荊湖)、ついで四川地区を奪取(平蜀)、さらに広東の南漢を下し(平南漢)、ついに華南最大の王国・南唐を滅ぼす(平江南)。周辺にはまだ呉越国と北漢の二つの軍閥が残っていたが、南唐の滅亡で実質的に天下は統一された。

一方これとは別に、太祖は唐末五代の内乱を反省し、天下太平の方策を謀臣・趙普に求めた。趙普は唐末五代に天下が乱れた原因を地方軍閥の跋扈に帰し、軍閥跋扈を許した原因を財政および兵権の地方分割に求めた。この献言を受けた太祖は、諸種の方法を駆使して軍閥を懐柔し、ついにその兵権と財政を奪い、再び皇帝権力の下に集めることに成功した。こうして北宋政権の特徴である皇帝を中心とした政治制度が完成した(収兵権)。その他、太祖の政治方針や逸話を多数収めた太祖建隆以来諸政がある。

太宗の時代(976~997)

太祖在世時から主要な働きを見せていたその弟・趙光義は、太祖の死後、既に壮年に達していた太祖の息子を斥け、みずから帝位についた。これが太宗である。帝位に即いた太宗は、弟の廷美と太祖の息子を自殺に追いやり、宋朝に掩い難い影を落とした(金匱之盟)。しかし太宗の晩年には唐代以来長らく途絶えていた立太子を復活させるなど、世の中の機運は徐々に平和に向かっていった(至道建儲)。

太宗は太祖の天下統一事業を継承し、まず既に属国化していた呉越国を廃し、南方最後の軍閥・陳洪進を服属させた。ここに於いて南方の軍閥は完全に平定された(呉越帰地)。南方を下した太宗が目を向けたのは、華北の軍閥・北漢と、伝統的に中華の領域とされる、契丹の直轄地・燕雲十六州であった。北漢は宗主国・契丹の後援を受け、宋王朝に抵抗を示すが、太宗は精鋭を繰り出しついに北漢を平定、ここに五代以来の軍閥は全て姿を消す(平北漢)。

北漢攻略に気をよくした太宗は、臣下の反対を押し切り、燕雲十六州を奪回すべく、契丹との戦いを決意する。しかし契丹の勢力は太宗の予想を遙かに超えており、遠征軍は壊滅的打撃を受け、燕雲十六州の奪回は失敗する(契丹和戦)。その他、太宗の時代には、北宋西北端の西夏が勃興し、その対応に追われたほか(西夏叛服)、四川での叛乱(蜀盗之平)、ベトナムとの戦い(交州之変)などもあった。また太宗時代の諸政務を論じた太宗致治、田地経営とその失敗を説いた営田之議もある。

真宗の時代(997~1022)

太宗の後を承けた真宗は、即位早々内乱と外敵に悩まされた。太宗時代から契丹の河北攻撃は断続的に続いていたが、その対応策もままならない間に、四川で大反乱が起こった(蜀盗之平)。遠征軍を出して四川の叛乱を鎮定したのもつかの間、今度は契丹が大規模な遠征を企てた。この契丹の遠征に宋朝は激しく動揺し、遷都を主張するものまで現れたが、寇準らの計略が功を奏し、契丹を燕雲十六州の地に押し返し、屈辱的な和平協定を結ぶことで事なきを得た。いわゆる澶淵の盟である(契丹盟好)。その他、西夏への対応策の誤りから、ついにその独立を許し、西夏との長い戦端を開いたのもこの時代である(西夏叛服)。

契丹との屈辱的協定に気を悪くした真宗は、寵臣・王欽若の献言を納れ、天書の降臨に託け、泰山や分陰などで大規模な祭祀を挙行し、都に壮麗な宮殿を建設する。莫大な国家予算を投入したばかりか、天書降臨に浮かれる人心を訝しむ孫奭らは、時をみて真宗に諫言するが、これらの発言はすべて斥けられた(天書封祀)。澶淵の盟と天書の降臨は、真宗時代の二大事件として知られ、後世批判の的になった。しかしその一方で、真宗の時代は徐々に科挙官僚が頭角を現し始めるなど(咸平諸臣言時務)、宋代特有の政治理論や制度が整う時代でもあった。

仁宗の時代(1022~1063)

真宗の後継者・仁宗は若年で即位した。このため真宗の皇后であった章献明肅太后が権力を握った。彼女は帝位を望んだとも言われるが(明肅荘懿之事)、朝廷の高官の抵抗の前に断念し、真宗末年から権力を壟断していた丁謂を斥けるなど(丁謂之姦)、基本的には宋朝の安定に貢献し、その長い執政時期を終えた。

仁宗が親政を始めるや、皇后の廃立(郭后之廃)、真宗時代以来の災異問題(天聖災議)、財政逼迫による茶と塩の専売問題(茶塩榷罷)、音楽や礼制の改訂事業(正雅楽)、貝州での内乱(貝州卒乱)、武将・狄青の活躍した儂智高の乱(儂智高)など、数多くの事件が起こったが、最も重要なのは西夏との攻防とそれにともなう政治変革である。

真宗の時代に興起した西夏は、仁宗の時代に至り、ついに北宋政権と大規模な軍事衝突を起こした。契丹との和平が成功して以来、北宋政権は平和に泥み、軍事的備えを怠っていた。西夏に虚を突かれる形になった北宋は、膨大な軍員を動員してその防衛に当たるが、戦えど戦えど敗北を重ね、常に守勢を強いられた(夏元昊拒命)。またこの劣勢を見透かされ、契丹との関係も不利に傾いた(契丹盟好)。

西夏戦で功績を残した范仲淹や韓琦は、朝廷の無能を指弾し、弊風の一新を高唱し始めた。彼らは欧陽脩らを抱き込み、仁宗皇帝を動かし、ついに慶暦改革と呼ばれる革新政治を断行した。しかし後宮や宦官、保守派の政府高官らの反撃を受け、改革はあえなく失敗し、范仲淹らは朝廷から放逐された。しかし朋党論などの慶暦改革の政治議論は、北宋の政治理論として巨大な影響を与えた(慶暦党議)。

英宗の時代(1063~1067)

仁宗末期に再び政権に返り咲いた韓琦と欧陽脩が直面したのは、仁宗の後継者指命問題であった。男児に恵まれなかった仁宗は、宗室から子供を養子に取り、帝位を継承させた。これが英宗である(英宗之立)。しかし傍系から帝位を嗣いだ英宗は、なにかと仁宗の皇后であった曹太后と衝突し、韓琦や欧陽脩はその善後策に終われた。特に英宗の実父・濮王の称号をめぐり、韓琦・欧陽脩の宰相一派と、司馬光らの若手一派が対立し、朝廷では濮議とよばれる大議論を生んだ。結局、濮議は英宗の急逝により、急速に収拾した(濮議)。

神宗の時代(1067~1085)

仁宗の治世後半以来、北宋の政治状況は悪化の一途をたどっていた。財政・軍事・文化・思想などの劣化は明白であった。しかしこれを改正すべく期待された英宗は、濮議にほとんどの時間を奪われ、また英宗自身短命であり、韓琦や欧陽脩は有効な手が打てなかった。この情況を打開すべく、若くして皇帝となった英宗の子・神宗は一大改革を行った。

神宗は王安石を抜擢し、制度・財政・軍事などの抜本的改革を依頼し、王安石もまたこれを実施した。いわゆる王安石の新法とよばれるものがこれに当たる。国制の抜本的改革は、識者の大規模な反対を生み、新法の実施は難航するが、神宗の信任を承けた王安石は反対派を朝廷から一掃し強引にこれを実施し、禍根を残すことになった(王安石変法1)。

神宗の時代は、多くの改正が実施された。多くは新法として実施されたが、特に優秀者の抜擢が困難になった科挙制度の改革(学校科挙之制)、英宗の時代から問題となっていた軍事問題(刺義勇)の改正、王朝開始以来の懸案だった官制改革(元豊官制)、音楽と礼制の改訂(正雅楽)、茶と塩の専売制度の改定(茶塩榷罷)などは独立の問題としても重要である。

またこの時代は対外戦争や外交も盛んで、契丹と盟約を更新して朝野の反感を呼び(契丹盟好)、王韶を用いて煕河路を設置し(煕河之役)、これを足がかりに西夏と戦争を起こし(西夏用兵)、四川蛮族の叛乱を鎮定し(濾夷)、ベトナムと戦争するなど(交州之変)、朝廷はことあるごとに積極策に打って出た時期であった。

哲宗の時代(1085~1100)

新法は政界に対立を生んだ。神宗が急逝し、幼少の哲宗が即位するや、神宗の母・宣仁太后は新法反対派の司馬光や呂公著を朝廷に召還する。折しも新法に嫌気のさしていた世論を背景に、司馬光はつぎつぎと新法を廃止し、新法以前の法=旧法を復活させる(元祐更化)。しかし急激な新法否定は、旧法党内部でも意見の対立を生み、朔党・蜀党・洛党の三つどもえの政争を招いた(洛蜀党議)。

旧法党内部の対立、そして政務の遅滞は世論の反感を招き、宣仁太后の崩御、哲宗の親政によって旧法党政権は脆くも瓦解する。哲宗に大権を与えられた新法派の巨頭・章惇は、つぎつぎ新法を復活させる一方、旧法党関係者の弾圧を開始し(紹述)、その批判の矛先はついに宣仁太后(宣仁之誣)と哲宗の皇后孟氏(孟后廃復)に向けられ、数多くの犠牲者を生み出し、新法派の人望を大幅に下げることになった。

徽宗の時代(1100~1125)

相継ぐ旧法党人に対する弾圧は、かえって新法政権に対する批判を呼び込んだ。哲宗の弟・徽宗は、皇帝の位に即くや、政界の対立を調停すべく、新旧折衷政権を成立させた(建中初政 )。しかし新旧折衷はすぐに行き詰まり、新旧両派の対立から、緩やかに新法派が地歩を固めていく。これを背景に、ついに徽宗は新法派の蔡京を宰相に招き、政務を運営を一任した。

徽宗の期待を一身に担った蔡京は、旧法党人と自身に反抗する士大夫を徹底的に弾圧、表面上は新法によって政権を維持していく。しかしその実態は、己の権力を維持するため、全土に重税を課して奢侈品を都に集め(花石鋼之役)、道教の仙術を励行して徽宗を籠絡し(道教之崇)、己の欲望を肆ままにするだけのものだった(蔡京擅国1)。

徽宗の時代は天下太平を装っていたが、西夏との間には領土拡張を続けていた(西夏用兵)。しかし西夏戦の勝利は政権の奢りを生み、ついには東方の金との間で契丹の挟撃を画策するに至った。ところが朝廷の重要地に突如叛乱が勃発し、驚愕した徽宗は契丹遠征軍を差し向け、叛乱を鎮圧させる(方臘之乱)。そして疲弊した軍を休める暇もなく、金軍に応じて燕雲十六州に進撃させた。疲弊した宋の軍隊は、滅亡寸前の契丹の軍に大敗、金の援護を受けてようやく旧領を回復した(復燕雲)。しかし戦勝に奢る徽宗政権は、事態の推移を正確に把握できず、対金政策を誤り、金軍の南下を呼び込む。

北宋の滅亡―欽宗の時代―(1125~1127)

燕雲六州の奪回におごった徽宗は、金の勢力を侮り、背信行為を続ける。これに激怒した金はついに南侵を決意し、二度にわたり北宋の国都開封を目指して軍を進めた。金軍の進撃と宋軍の敗退に懼れをなした徽宗は、その子に皇帝の位を譲る。皇帝となった欽宗は、ただちに蔡京政権の重臣を処罰し、人心の一新を図る(羣奸之竄)。しかし時既に遅く、進撃する金軍の前には為す術なく、北宋政権は壊滅し(金人入寇1)、徽宗と欽宗は北方に連行される(二帝北狩)。

徽宗と欽宗を連行した金軍は、趙氏に帝位を嗣がせず、朝廷の高官・張邦昌を皇帝の位につける。張邦昌は終始狼狽しながらも、金軍の軍事力を背景に政権を運営したが、金軍の撤退とともに政権維持能力を失う。動揺する張邦昌は、呂好問らの斡旋により、哲宗皇后の孟氏を宮中に招き(孟后廃復)、ついで南方に逃亡していた康王に政権を還す(張邦昌僭逆)。

北宋と契丹(遼)

北宋と契丹の関係は、太祖時代の友好関係、太宗時代の対立関係、真宗時代の交戦と和平、仁宗時代と神宗時代の和約更新、徽宗時代の契丹滅亡の六つの画期がある。しかし真宗の時代に澶淵の盟を結んで以来、徽宗の時代に戦端を開くまで、直接的な紛争は長らくなかった。この中、太宗時代までの北宋と契丹の関係は契丹和戦に、真宗時代の澶淵の盟から仁宗・神宗の和約更新は契丹盟好に記載されている。また契丹の滅亡は金滅遼に、徽宗時代の北宋と契丹の戦争は復燕雲に記述されている。

北宋の西夏

北宋と契丹の関係が、初期の内に和平の歴史に終わったのに対し、北宋と西夏の関係は常に戦争の歴史だった。太宗の時代に勃興した西夏は、真宗政権の失政も絡み、ついに独立、北宋政権に対して反復を続ける。北宋が西夏に最も苦しめられたのは仁宗の時代で、李元昊一人のために北宋はほぼ全兵力を投入してその防衛にあたらなければならなくなった。しかしさしも西夏も李元昊亡き後は振るわず、また神宗の煕河路攻略の影響もあり、全体的二位は北宋に対して劣勢に立たされる。この中、真宗の西夏独立前後の話は西夏叛服に、李元昊の活躍は夏元昊拒命に、神宗時代の煕河路攻略は煕河之役、それにともなく神宗から徽宗時代の戦争は西夏用兵に記載されている。

北宋と女真(金)

契丹の東方に生息していた女真族は、契丹の暴虐に団結力を強め、突如一大軍事集団の金国として現れる。あまりの用兵の巧さのため、契丹は瞬く間に金に滅ぼされる。一方、契丹の劣勢を見た北宋政権は、積年の恨みをはらすべく、ついに金と手を結び、契丹を滅ぼし、燕雲十六州の故地を手に入れようとする。しかし金のために崩壊寸前に陥った契丹であったが、その契丹に対してすら北宋の軍は敗北し、金軍の力を借りてようやく燕雲十六州を奪取する。しかし奢った北宋政権は金との約束を何度も破り、金の怒りを招き、ついに金軍の到来を招く。圧倒的な戦力差に宋の軍隊は崩壊し、北宋は亡びる。この中、契丹の滅亡は金滅遼に、宋の燕雲十六州奪回に関する経過は復燕雲に、宋軍敗退の原因となった方臘の乱については方臘之乱に、金による北宋滅亡は金人入寇に記載がある。

治水・茶塩・礼楽

『宋史紀事本末』は政治・軍事事件以外にも、黄河の治水、塩と茶の専売制度、音楽や礼制の整備などについても記述がある。治水・専売・礼制のどれにも宋代に一大変革があった。北宋前半の黄河の治水を描いた治河、後半の浚六塔二股河、茶と塩の専売制度の改廃を述べた茶塩榷罷、北宋前半までの音楽と礼制を論じた礼楽議、後半の正雅楽に各々まとめられている。

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