丞相呂正恵公(呂端)

呂正恵公、名は端、字は易直、幽州安次の人。石晉の時代、恩蔭で千牛備身になった。太祖の開宝年間、成都府の知事になった。太宗の時代、また開封府の判官になった。事に連座して左遷された。その後、枢密直学士、参知政事を歴任し、ついに戸部侍郎・平章事になった。翌年(*1)、病気を理由に職を辞した。享年六十六。


呂端が高麗に出向いたときのこと。強風のため帆柱が折れ、船中は大騒ぎになった。しかし呂端は平然と本を読んでいた。まるで書斎にでもいるかのように。

僧文瑩『玉壺清話』より


太宗が呂端を宰相にしようとした。ところが側近は「呂端では仕事が滞ります」と言って反対する。しかし太宗は「あいつは雑務は下手だが、大事なことはうまくやる」と、ついに意を決して呂端を宰相にした。

呂希哲『呂氏家塾記』より


保安軍から李継遷の母を捕虜にしたと報告があった(*1)。太宗はおおよろこび。当時、寇準が枢密副使、呂端が宰相だった。しかし太宗は寇準とだけ事後策を相談した。寇準が太宗の前を退出し、宰相府の前を通り過ぎると、呂端は寇準を宰相府に招き入れた。「先ほどは陛下と何の相談だね?」

寇準、「辺境の揉め事について少々」

呂端、「陛下は私に言うなと?」

寇準、「いえ」

呂端、「いつもの紛争なら国防省の仕事だ、私の関与すべきことではない。しかし国家の一大事とあらば、私は宰相だ、意見せねばなるまい」

そこで寇準は李継遷の母を捕虜にしたことを呂端に告げた。

呂端、「どう処置するつもりだね?」

寇準、「保安軍の北門の外で首を斬り、反逆者の見せしめにするつもりです」

呂端、「陛下はなんと?」

寇準、「陛下も賛同されました。枢密院から執行書を出すようにとのことです」

呂端、「それではまずかろうね。君、少し時間を稼いでくれ。執行書はまだ出さないように。私から陛下に申し上げてみよう」

呂端はすぐに役人をよび、太宗に「宰相の呂端がお目通りを願っている」と報告させた。太宗は呂端を呼び出した。呂端は太宗の前で寇準の言葉を繰り返してから、こう忠告した。――「むかし項羽が劉邦の父の太公を捕らえ、煮殺そうとしたときのこと。劉邦は『願わくは私にも〔親父を煮込んだ〕羮を一杯いただきたいものだ』と申したとか。そもそも大事に臨んでは、親の安否など気に留めぬものです。ましてや継遷は野蛮で悪逆な男。陛下があやつの母を殺したとて、継遷を捕らえることはできますまい。それどころか、あやつは怨みの心を募らせ、さらに我が国に楯突くことでしょう」

太宗、「では、どうせよと?」

呂端、「そうですね、継遷の母を延州で養ってやり、継遷に帰順を促すのがよろしいでしょう。すぐに帰順せずとも、あやつの心をつなぎ止めることくらいはできます。それにあやつの母の命は、我らが握っているのですから」

太宗は膝を打つと、「君がいなければ、とんでもない失敗をするところだった」と言って大喜びし、すぐ呂端の策を実施させた。その後、継遷の母は延州で病死し、継遷も後を追うように死んだが、継遷の子は朝廷に帰順した。

司馬光『涑水記聞』より


太宗が病に倒れると、李太后(*1)と宣政使の王継恩は、皇太子の英明を厭い、副宰相の李昌齡、禁軍総指揮官の李継勲、知制誥の胡旦らと結託し、潞王元佐 (*2)の即位を画策した。太宗が崩御すると、太后は王継恩に宰相の呂端を呼ばせた。呂端は宮中の謀略を察知し、参内すると、まず王継恩を監禁してから、太后のもとへ赴いた。

太后、「陛下が崩ぜられた。世継ぎは長男がよいというが、どうしたものかの?」

呂端、「先帝が皇太子を立てられたのは、まさに今日のため。先帝が亡くなられたばかりのこのいま、もう先帝のお言葉に背くつもりですか?」

太后は如何ともしがたく、皇太子を皇帝に迎えた。真宗が即位すると、呂端はすぐに李継勲を使相・陳州節度使として宮中から追放し、李昌齡を忠武行軍司馬に、王継恩を右監門衛将軍・均州安置に左遷し、知制誥の胡旦は、除名の上、潯州に流した。

『涑水記聞』より


真宗は先帝の棺の前で即位すると、御簾を垂らして群臣と対面した。ところが宰相の呂端は、拝礼もせずに宮殿の下で突っ立っていた。そして「御簾を巻き上げたい」と申し出た。呂端は宮殿にあがり、真宗の姿を確認すると、また宮殿の下にもどった。そしてようやく群臣とともに万歳を叫んだ。

『涑水記聞』より

〔異説〕

太宗が病に倒れると、呂端はいつも太子と見舞い赴いた。太宗が崩ずると、太子をつれて福寧殿の庭に向かった。そしてまず玉座に登り、あちこち調べた。その後、玉座から降りると、太子に礼拝し、玉座に登らせ、即位を促した。

陳師道『後山談叢』より


趙普が宰相、呂端が副宰相のときのこと(*1)。趙普はいつも人に語るよう、「呂君が陛下に具申するときの態度といったら、褒められても喜ばず、突き返されても懼れず、また口に出すこともない。確かに宰相の器だ」

丁謂『丁晉公談録』より


呂端は見てくれがよく、懐が深く、重々しい人だった。何度も左遷を経験したが、怨みの色を見せず、そのため世間の評判を集めた。また信頼に足る人間で、物惜しみをせず貧者に施しを与えた。また家事を顧みたことは一度もなかった。宰相としては、物事の本質を重んじ、細事にかまわず、簡単明瞭を心がけた。皇帝に具申するときも、同僚らが細かいことを言い争うなかにあって、呂端だけはいつも寡黙だった。ある日、真宗は政府高官の無駄口を戒めるべく、こんな命令を出した。――「今後、宰相府は必ず呂端の裁定を経てから具申するように」と。呂端はあえてその責に当たらなかった。真宗は即位したばかりとて、呂端と話しをするときはいつも丁重にもてなし、名前を呼ぶことはなかった。また朝廷の基本方針と国家千年の大計を尋ねたところ、呂端は目下の急務に終始した。それらはいずれも道理に適ったものであった。このため真宗はいたく感心したという。



(*1)戸部侍郎・平章事の就任は至道元年で、死ぬ五年前に当たる。
(*1)このとき李継遷は宋の北西で略奪を繰り返していた。
(*1)明徳皇后李氏のことで、下の元佐および皇太子の継母。
(*2)太宗の長男だったが、強暴につき廃嫡された。
(*1) 『朱子全書』の校勘記が指摘するように、時期的にあり得ない。

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