丞相畢文簡公(畢士安)

公、名は士安、字は仁叟、代州雲中の人。乾徳四年(996)、進士及第。台州・饒州・乾州の知事を歴任し、左拾遺兼冀王府(1)記室参軍になった。後、知制誥。淳化年間(990-994)、翰林学士を授けられるも、父の名が乂林であることから、辞退を申し出た。しかし二名の偏諱は礼律に適合しないとの理由で却下された(2)。真宗が開封府の尹(3)になると、その判官となり、東宮が建てられると(4)、右庶子を兼ねた。真宗が即位すると、権開封府知事になり、また翰林学士になった。景徳のはじめ(5)、吏部侍郎・参知政事(6)になった。翌月、平章事を拝した。二年の冬(7)に薨じた。年六十八。


呉越国(8)が宋に帰順したので、台州知事として公が派遣された(9)。公は任地に到着するや、「銭氏(10)の献上した地図と戸籍は、いずれも税収を過大に算出しております。今後は旧時の税収を基準とし、流民の収拾に努めていただきたい」と訴えた。太宗はこの意見に従った。

劉莘老の神道碑(10)より


端拱年間(988-989)、王府つきの官僚に文章を作らせた。太宗は「文章の巧拙はもう分かっている。品行がよいのは誰かの」と近臣に意見を求めた。一座のものはみな公の名を挙げた。太宗は「その通りだ」といって喜んだ。そこで公は本官のまま知制誥になった。

後日、公が翰林学士として召還されたとき、張洎を推薦する大臣がいた。太宗、「畢士安に比べると、たしかに張洎の文章や官歴は引けを取らぬ。しかし品行ときては遠く及ばぬ」

神道碑より


公が開封府知事のとき、皇帝の近臣に権勢を笠に着て不法行為を働くものがおり、婚約を済ませた娘を奪い取るという事件が起こった。公は皇帝に面会を求め、近臣の不法行為を直言し、娘を取り返した。

神道碑より


契丹が宋への侵略を計画していたころ、公は実施すべき五つの政治案件を上奏した。それらは将帥の選択や兵糧の確保について述べたもので、とりわけ財務に関する意見は完備しており、その多くが真宗に採用された。おりしも宰相を欠く状態だったので、公を吏部侍郎・参知政事に抜擢した。公は謝辞を述べるべく宮中に赴いた。

真宗、「まだまだこんなものじゃない。ゆくゆくは宰相を頼もうと思っている。しかし多忙を極める今日のことだ、卿と共同で政務を執れるものを探しているのだが、誰かおらぬか」

公は首を垂れて謝辞を述べ、続けてこういった。「私は愚かな人間で、とても重責に堪え得るものではありません。ただ寇準のみ、資質に優れ、国家の大事を任せるに足りましょう。彼こそ宰相の器です」

真宗、「寇準は剛毅にすぎると聞いているが」

公、「寇準は誠実一路、勇気と節度を合わせ持ち、身の危険を忘れて国家に殉じ、正しきに従い、悪事を憎むことのできる人間です。長年培ったその力は、朝廷の高官といえども、その右に出るものは少のうございます。ただ俗悪な人々に嫌悪されているにすぎません。昨今、天下の民は陛下の徳を蒙り、安逸の生活を手にしましたが、まだ西北一帯には不安が残っております。寇準こそ宰相に抜擢すべき男です」

真宗、「よかろう。ならば卿の徳の力で、みごと寇準を抑えてみせよ」

その月のうちに公を本官のまま(12)平章事とし、寇公(寇準)も平章事とした。しかし公を監修国史に命じ、寇公の上位に置いた(13)。ほどなく契丹の国境侵入が本格化した。北部が警戒の度を強めるなか、公と寇公は意見を合わせ、真宗に澶淵への行幸(14)を勧めた。時に景徳元年(1004)九月のことだった。

契丹の統軍順国王撻覧(15)は二十万と号する大軍を率いて国境を突破した。これ以前、雲州観察使の王継忠は契丹軍との戦いで消息不明になっていた。その王継忠が契丹を動かし、和平を求めてきた。宋の大臣は〔真偽を判断しかね〕判断できずにいた。しかし公だけは王継忠の申し出を信頼し、真宗にむかって、契丹との関係を絶たず、和平を結ぶよう強く進言した。

真宗、「狡猾なあやつらのことだ。和平など長続きすまい」

公、「捕虜の話しによりますと、契丹軍はわが国内部に侵入しても、しばしば撃退されて思うような戦果を挙げられず、ひそかに撤退を考えているとか。さりながら戦果なきを羞じ、それもできないでいると。それのみか契丹軍は我が国に虚を突かれ、本拠地を失うことを畏れております。和平の申し出は彼らの本音に相違ありません。王継忠の意見に従われるのがよろしいでしょう」

真宗は喜び、みずから書簡をしたため、和平を許した。

契丹との戦いが始まるや、詔が下り、真宗の北方行幸が決まった。しかし反対意見の声は強く、金陵や成都への行幸を画策する大臣まで現れた。公は朝廷の状況を危ぶみ、寇公と共同で真宗に面会を求め、北方行幸の必要性を述べ、従前の決定に従うよう強く要請した。かくして真宗の澶淵行幸が決まった。

宋の軍は総勢数十万、契丹軍は震え上がった。しかし契丹軍はおごり高ぶり、多勢を頼み、なおも徳清軍で略奪を行った。ところが澶州北部に到着したとき、偶然にも宋の伏兵部隊が弩を発し、撻覧が矢にあたって死んだ。契丹軍の命令系統が滅茶苦茶になり、撤退を余儀なくされた。こうして宋と契丹の和議は成立した。

和議が締結される前のこと、真宗が閲兵を終え、北方へ軍を向けようとした矢先、金星が昼間に現れ、流星が上台(16)にかかり、北斗の柄を貫く天変があった。あるものは兵を北上させてはならぬと言い、またあるものは大臣の身に不吉なことが起こると口にした。おりしも公は病気で床に伏せっていた。そこで寇公に手紙を寄こして言うには、「病ではあるものの、陛下に付き従いたく何度も要請したが、許可がおりなかった。行幸は既に決まったのだ。君はその実現に向けて努力して欲しい。私は身をもって不吉の祥に当たるつもりだ。これこそ我が望みだ」と。ほどなく病が少しく癒えたので、公も真宗の後を追って澶淵に赴いた。

後、公は真宗とともに帰還した。そして遠征軍を解散し、国境に名将を並置した。――雄州には李允則、定州には馬知節、鎮州には孫全照、保州には楊廷昭などなど。その他、公の任用したものは、みな職責を全うした。また契丹国境上での略奪行為を禁じ、交易を開き、鉄禁を除き、流浪人を呼び集め、備蓄を充実させた。このすぐ後、夏州の趙徳明(17)も宋に帰順した(18)

こうして契丹と夏州の国境二方面が安定し、天下は落ち着きを取り戻した。公は法を定めるとき、よくよく時期を見極め、性急な実施を慎んだ。また専売制の増税を禁止し、死刑囚の冤罪を暴いたものは、成績査定上の優遇処置をとり、自分の利害に関わらぬ訴訟を起こしたものは重罰に処した。これらは現在に至るまで実施されている。また賢良方正直言極諫等科を設置し、広く天下の逸材を集めた。真宗と意見を交わすときは、いつも倹約と愛民の重要性を口にし、善良な正直者を近づけ、阿諛迎合する者を遠ざけることが政治の要諦だと説いた。そのため天下の人々は平穏無事に生を営むことができ、公の政治は至治とよばれた。

神道碑より


公は正直重厚、威風堂々たる風貌の持ち主で、若いころから名誉を重んじ、倹約に務め、それは年老いても変わらなかった。また平素より一語の過ちも犯さなかった。高官に昇った後も、それまでと変わらぬ質素な生活をおくり、子孫のために殖財することもなかった。そのため世の人々は公を「清人」と評した。公が没したとき、真宗は「畢士安は君子だった。彼は南府や東宮の官僚として長らく私に仕え、宰相にまで昇ったが、いつも身を厳しく引き締めていた。古人の風格がある」と寇公に語った。

その後、王文正公(王旦)は宰相になると、真宗に面会して訴えた。――「陛下は前に畢士安の人となりを古人のようだと称賛されました。朝廷の臣下で陛下の言葉に感動せぬものはおりませんでした。そもそも畢士安は宰相でありながら、わずかの田園や邸宅も持たず、その喪を終える前に既に家財は尽き果てたと申します。彼の妻が私のところへ借金を申し込みに参りました。たしかに陛下のお言葉に違わぬ人間であったこと、この一事からも明らかです。とはいえ、彼の遺族は必ずや扶けねばなりませんが、その際の恩恵は陛下から出されるべきものです。したがって私はあえて遺族に恩を与えませんでした」と。真宗は感嘆し、公の遺族に白金五千両を賜った。

神道碑より


公には心を許した友が少なかった。そのため朝廷で公を弁護するものはいなかった。ただ王晉公(王祜)と呂公端(呂端)には目をかけられ、王文正公・寇萊公・楊文公(楊億)の三人とは仲がよかった。

公は寇公とともに政務を執った。しかし寇公は正しきを守り、悪を憎むに率直なあまり、その政治に不便を感じる小人は多く、彼らはいつも寇公の失脚を狙っていた。そのとき布衣の申宗古なる者が、「寇準は安王元傑(19)と結託している」と密告した。寇公は恐れおののき、弁解の術を知らなかった。公は密告の虚偽を力説し、宗古を尋問してその証拠を突き止め、処刑した。このため寇公の身は無事に済んだ。

王禹偁は済州の平民の子だった。仕事で公の官舎を訪れたとき、公は王禹偁に非凡な才能を感じ、手許において学問を授けた。王禹偁は科挙に及第し、その昇進は公よりも速かった。公が知制誥になったとき、その辞令を書いたのは王禹偁だった。後、公が潞州に去るや、王禹偁も連累で黄州に左遷された。すると公は旅路の面倒を工面してやった(20)

神道碑により


公は正直重厚、清廉潔白、至るところで厳正をもって評された。しかしもとより謙虚な人柄だった。彼の口癖は「私には大した功績はない。ただ自分を厳しく律して、過失を少なくしようと心がけてきただけだ」だった。(21)


咸平年間(998-1003)、学者に『三国志』『晉書』『唐書』を校勘させた。しかし「両晉(22)の歴史には俗悪なことが多いから、『晉書』は世間に流通させてはならない」と批判するものがいた。真宗が宰相に相談したところ、公は「悪しきことなら、それによって世の戒めとすることができましょう。善きことなら、それによって世の勧めとすることができましょう。善きことも悪しきことも、ともに聖人の『春秋』(23)に記されております」と答えた。真宗は納得し、ついに『晉書』の出版を命じた。

『蓬山志』より



〔注〕
(1)冀王は太宗の息子元份。
(2)古代中国には、父親や皇帝などの実名を諱む風習があった。このため畢士安は父の名(林)を冠する翰林学士の官職に就くことを辞退した。しかし習慣では、実名が二名(二文字)の場合、その片方だけを諱まないことになっていた。そこで朝廷は畢士安の辞退を認めず、翰林学士に就かせたのである。
(3)開封府長官のこと。
(4)真宗が皇太子になったことを意味する。「真宗」の二字は皇帝即位の後、死後に奉られた廟号だが、ここでは便宜上「真宗」の字を用いた。
(5)景徳元年(1004)七月のこと。
(6)吏部侍郎は寄禄官で、吏部侍郎としての実権はない。参知政事は副宰相のこと。
(7)景徳二年冬十月のこと。冬は旧暦の十月から十二月を指す。
(8)五代十国最後の国家。国号のごとく呉と越の地にあった。
(9)割譲地の調査と人心の掌握のため、旧呉越国に送り込まれたの意。
(10)呉越国の国王。
(11)劉莘老は劉摯のこと。莘老はその字。神道碑は伝記の一種で、正式には「畢文簡神道碑」(『忠肅集』巻11)という。
(12)もとの官のまま、すなわち吏部侍郎のままの意。
(13)北宋初期の宰相は同時期に複数人いる場合が多く、その際の序列は昭文館大学士、監修国史、集賢殿大学士のどれを兼ねるかで決められた。例えば、首相は昭文館大学士・監修国史を兼ね、次相は集賢殿大学士を兼ねることが多かった。ここでは畢士安は監修国史を兼ね、寇準は集賢殿大学士を兼ねた。したがって同じ宰相ではあるが、畢士安が寇準の上に位置することになった。
(14)行幸は事実上の親征を指すが、原文の表現を重んじ、原語のままを用いた。行幸は天子の外出の意。
(15)統軍順国王撻覧は、蕭撻凛(『遼史』巻85)に同じ。契丹の将軍。
(16)紫微星(北極星)ちかくの星。
(17)西夏の君主。宋から趙姓を与えられていたので趙徳明という。ここで「夏国」と言わず「夏州」と言うのは、は宋側の表現で、西夏を独立国と見なさず、宋の領土の一部(すなわち夏州)と見なしてのことである。
(18)宋の北西にあった西夏が宋に恭順の意を示し、略奪行為を中止したことを指す。
(19)太宗の息子。
(20)劉摯の神道碑はこのあたりの事情をぼかして書いているおり、記事の内容が分かりにくい。神道碑の種本である畢仲游の「丞相文簡公行状」(『西台集』巻16)によると、この逸話は第3条に絡むものであることが分かる。すなわち畢士安が近臣を弾劾したところ、その近臣と翰林学士の王禹偁とに関わりがあった。結局、娘は奪還したものの、事件の影響で、畢士安は開封府の知事を辞め、いちど翰林学士となった後、すぐに潞州知事に遷った。一方の王禹偁も事件に連座し、翰林学士を罷免され、黄州知事に左遷された。世人は王禹偁を批判したが、畢士安は、王禹偁に資産がなく、黄州への旅費もままならないからといって、金子を工面してやったという。
(21)典拠未詳。同様の逸話が趙善璙『自警編』に引かれている。
(22)西晉と東晉を指す。
(23)『春秋』は経書の一つ。孔子が魯の年代記『春秋』に手を加え、歴史的な事柄に対して、善いものは褒め、悪しきものは貶したとされる。

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