丞相萊国寇忠愍公(寇準)

公、名は準、字は平仲、華州下邽の人。進士及第。帰州巴東県知事、鄆州通判を歴任。太宗の召対に応え、三司度支判官・塩鉄判官になった。淳化二年(991)、左諫議大夫・枢密副使に抜擢、同知枢密院事になる。後、職を辞し、青州知事。翌年、召還されて参知政事。至道二年(996)、職を辞し、鄧州知事。咸平のはじめ、河陽・同州・鳳翔府の知事を歴任。開封府知事を拝し、三司使になった。景徳元年(1004)、同平章事。三年(1006)、陝州知事として下野した。泰山封禅に従事し、天雄軍に移った。後、枢密使として朝廷に復帰し、同平章事になった。ほどなく使相として職を辞し、河南府と永興軍の判事になった。天禧元年(1017)、宰相に返り咲いた。三年(1019)、職を辞し、太子太傅。後、太常卿に降格され、相州知事。安州知事に左遷。また道州司馬に左遷。乾興元年(1022)、また雷州司戸参軍に左遷。天聖元年(1023)、衡州司馬に移るも、出発の前に薨じた。年六十三。十数年後、中書令を贈られ、諡を賜った。翰林学士の孫抃が神道碑を書き、その冒頭に仁宗皇帝みづから「旌忠」と刻んだという。


太宗が魏(1)に行幸したとき(2)、公のまだ十六歳だった。ところが父が敵軍に捕らわれるや、行在所に意見書を投げ込んだ。その文面は激越で、態度も忌憚なかった。太宗は公の勇猛さに感じ入り、有司に姓名を記録させた。二年後、進士に及第し、ようやく世間に名を知られるようになった。

『寇萊公遺事』より


公は十九歳で進士に及第した。この当時、太宗は年齢を任用の基準とし、若い人間はしばしば退けられた。そこで公にむかって年齢を高めに言うよう助言したものがいた。公、「仕官したてのいま、君主を欺けようか」


帰州巴東県知事になると、税の徴収に名簿を用いず、郷里と姓名を県門に掲げるだけだったにも関わらず、期日に遅れる民はいなかった。あるとき詩を作ったところ、「原野を流れる川に人影はなく、一双の舟は日を終えるまで横たわれり」の句があった。そのため、もし公が大用されたなら、きっと大きなことをしでかすだろうと噂された(3)。公は手づから隻柏を県庁の庭に植えた。今にいたるまで、民はこれを甘棠(4)になぞらえ「萊公柏」と呼んでいる。

『政要』より

〔異説〕

元祐九年(1094)、巴東県に大火事があり、柏と公の祠は二つながら焼けてしまった。翌年、莆陽の鄭贛が県令としてやって来た。鄭贛は柏の焼失に心を悼めたものの、公が手づから植えたことを思えば伐採するに忍びず、凌霄花(5)を下に植え、接ぎ木をした。そして公の遺跡を顕彰し、人々の慰めとした。

『澠水燕談録』(6)より


寇公が員外郎の頃のはなし。太宗に意見し、機嫌を損ねたことがあった。太宗は衣を払って立ち上がり、禁中に入ろうとした。公は手づから太宗の衣を引っ張り、また座席にもどし、案件を結審してから退いた。このため太宗は大いに喜び、いつも「私が寇準を得たのは、唐の太宗が魏鄭公(7)の得たのと同じだ」と言っていた。

『涑水記聞』より


太宗の頃のはなし。大旱があり、太宗は心配のあまり御車で館中を過ぎるごとに、人々にひろく意見を求めた。だれもかれも「水害や干害は天のなせるものです。堯や湯ですらどうにもなりませんでした」(8)と答えるなか、寇準だけは「朝廷の刑罰に偏ったところがあります。天が旱魃を下したのはそのためです」と答えた。太宗は怒って禁中に入ってしまった。ところが太宗はしばらくして寇準をよび、さきほどの真意を質した。寇準、「両府の大臣(9)をよんでいただきたい。さすればすぐにでも申し上げます」。そこで両府の大臣をよびよせたところ、寇準は口を開いた。

「某の息子の甲は若干の窃盗をはたらきました。わずかではありましたが、罪に照らして死刑になりました。ところが参知政事の王沔の弟淮は、管下の財産を窃盗し、その数は千万以上といいます。しかるに死刑にならぬばかりか、罪にすらなりませんでした。これを偏らぬともうせましょうか」

太宗が王沔に糺すと、王沔は首を垂れて謝罪した。みなが御前を退いたその日の夕方、ついに大雨が降った。太宗は大いに喜び、寇準の抜擢を決めた。こうして寇準はにわかに重職を任されることになった。

劉貢父(10)『萊公伝』より

〔異説〕

公は忠実素朴で直言を喜び、忌憚するところがなかった。このため当時の人は「寇準が殿中にあがれば、百官は戦慄する」と言った。

『寇萊公遺事』より


公が青州にいた頃のはなし。太宗は久しく病を患っていた。そこで駅伝で公を都に呼び、後事について意見を求めた。

公、「『子を知るは父に如くはなし』と申します。私ごとき愚か者が、そのような大事に関わるわけにはまいりません」

太宗がきつく求めるので、公は再拝して答えた。「私の見立てでは、諸皇子のなか、ただ壽王(11)のみが人の心を得ております」

太宗は大いに喜び、ついに壽王を太子にした。

さて、太子は〔報告のため〕太廟に詣で、宮中にもどってきた。すると後宮の女官らは高殿に登って太子に熱い視線を投げかけ、下々の者は手を合わせて額を打ち、「少年の天子だ」と躍って喜びあった。李皇后はこれを知って不機嫌になり、太宗に告げ口した。太宗はすぐに公を呼んで詰った。「みな太子ばかりを見て、私の存在を忘れておる。卿は間違えたのだ」

公、「太子は万世の世継にして社稷の主となるべきお方です。もしふさわしからぬ人が太子になりでもすれば、それこそ憂うべきこと。しかし今や天下のものが太子の賢たるを歌うております。私は陛下に慶賀を申し上げたいと存じます」

この言葉によって、ようやく太宗のわだかまりは解けた。

『寇萊公遺事』より


章聖(12)が即位すると、公は青州の知事になった。真宗は公を慕っていた。そこで中使(13)を山東に派遣したついで、公の見舞いにむかわせ、朝廷に挨拶に来るよう促させた。公は再拝して、「陛下が私をお棄てにならぬかぎり、朝に召されたなら夕にも向かいましょう。ですが君の僥倖を求めるようなことは敢えて致しませぬ」。ほどなく公は都によばれ、ついに宰相の印を任された。

『寇萊公遺事』より

〔按語〕

これは太宗朝の出来事である。


契丹が澶淵に侵入したとき、急報が一日に五度も舞い込んできた。ところが萊公は封を開きもせず、酒を飲んで談笑していた。翌日、同僚がこの有様を告げた。真宗は驚愕し、封書を取り寄せ、開いたところ、すべて危急を告げたものだった。真宗は震え上がって公に理由を質した。

公、「陛下はすぐに終わらせるおつもりか、それとも時間をかけるおつもりか」

真宗、「国家の危機だぞ。長引かせたいはずがなかろう!」

公、「陛下がすぐにも終わらせるおつもりなら、五日もかかりますまい」

そう言って公は澶淵への行幸を求めた。真宗は口を閉ざして黙り込んでしまった。同僚は震え上がり、その場を離れようとした。

公、「畢士安らはここに止まり、陛下の車駕とともに北へ向かうのだ!」

真宗は難色を示し、禁中にもどろうとした。

公、「禁中に入られては、私は意見を述べられず、どうにも仕方がありません。禁中にもどることなく、進んでいただきたい」

かくして真宗が澶淵に向かうや、六軍百司(14)はそれを後から追いかける有様だった。

『後山談叢』より


澶淵の役が始まり、王超と傅潛が戦いに敗れると、天下に紛々たる議論が巻き起こり、ついに「契丹は石晉(15)に勝ったがため、中国を侮るようになった」(16)と主張するものまで現れた。ただ寇萊公だけは、はじめから親征を要求し、李沆と宋湜もこれに賛同した(17)。しかし多くのものは、絶対に勝てるとは限らないからと反対した。

このとき陳堯叟は蜀への行幸を求め、王欽若は江南への行幸を求めた。真宗は寇準に意見を求めた。

公、「このような策を献じたのは誰です?」

真宗、「卿は策の可否を判断してほしい。人を求めてくれるな」

公、「この策を献じたものを教えていただきたい。そやつを斬り捨てて軍太鼓の生け贄とし、それから北伐に参りましょう」

この言葉に真宗はついに覚悟を決め、澶淵への行幸を決意した。

『東軒筆録』より

『寇萊公遺事』および『邵氏聞見録』もこれに同じ


真宗は長垣に到着すると、黄河沿辺に守将を派遣することにした。寇準は辞令書数十通を積んで真宗の側におり、近臣は東西の廡下に控えた。ところが近臣をよびつけ、守将に任命しても、誰もかれも「兵がいないから」と言って辞退した。そこで詔を下して言うよう、「あらゆる人間が兵士であり、各地の蔵はすべて財産だ。汝の望みのままに行動せよ。野戦も責めぬ。ただし、城郭を失ったものは、軍法によって処断する」と。人々はこの詔を手に駆け出した。かくして城を失ったところは一つもなかった。

『萊公伝』より


公が真宗と澶淵に向かった頃のはなし。王欽若はひそかに金陵への行幸を求め、陳堯叟は蜀への行幸を求めた。真宗は公に意見を求めた。このとき王欽若と陳堯叟の二人は真宗の側にいた。公は二人の献策であることを知りながら、さも知らぬふうに装い、「陛下にこの策を献じたのは誰です?斬り捨てねばなりません。現在、敵軍は猖獗を極めておりますれば、陛下は人心を鼓舞し、前に進んで敵を防ぎ、社稷を守らねばなりません。宗廟を棄て、遠く楚や蜀に逃げるなど、とんでもないことです。もしこの状態を前にして、一歩でも退くようなことがあれば、天下は瓦解し、万民は四散いたしましょう。敵軍がこの隙に乗ずれば、楚や蜀に逃げることすら不可能です」。真宗は事態を悟り、二人の献策を退けた。これ以後、二人は公を怨むようになった。

『涑水記聞』より

〔異説〕

真宗が河上の行宮にいた頃のはなし。真宗は公を呼び、事後策を練ることにした。公が訪れると、女官の声が聞こえてきた。「あの方々は陛下をどうなさるおつもりでしょう?今すぐ都にお戻りください」と。公が中に入ると、真宗は二人の策について意見を求めた。公、「あのものたちは臆病者で何も分かっていない。先程の婦人と同じです。云々」。真宗は公の意見に従い、ついに北のかた河を渡った。

『涑水記聞』より

〔按語〕

『涑水記聞』所伝の二説は前の所伝と違うところがある。前の所伝が正しいのであろうが、萊公の言葉は『涑水記聞』のものが最も詳しい。そこで両説とも記録することにした。


契丹は河北に侵入するや、南のかた冀州・貝州に軍を進めた。契丹の騎兵は強く、河北の地は乱れに乱れた。真宗が澶州に行幸したときには、既に契丹軍の騎兵が魏府(18)にまで到達していた。真宗は状況を正しく把握できず、渡河を嫌がり、南澶州に兵を止めた。寇準は澶州の北城まで軍を進め、兵卒の心を固め、契丹軍の勢いを止めるよう真宗に進言した。しかし真宗はなおも決心できずにいた。

このとき陳堯叟は蜀への待避を、王欽若は金陵への待避を勧めた。真宗は寇準に意見を求めた。

寇準、「陛下にこの策を献じたのは誰です?」

真宗、「ただ計画の可否を判断してくれ。人は尋ねてくれるな」

寇準、「人を知りたく思います。こやつらを斬り捨ててから、天下に号令をかけねばなりません。そもそも先帝が都を建てられてより五十年、天下の財と兵は全て都に集められ、宗廟社稷もまたこの地にあります。不幸にして戦いになれば、陛下は我らとともにこの地を守らねばなりません。一旦この地を棄てれば、もはや二度と陛下の手にはもどりますまい。もし盗賊が隙でも衝こうものなら、そもそも陛下はどこにお帰りになるつもりです」

真宗は黙ってしまった。

〔按語〕

これも『涑水記聞』と同じ。

寇準は再度渡河を求めたが、それでも真宗は決めかね、衣を変えるからと立ち上がったので、寇準も退いた。このとき高瓊は殿前都指揮使として真宗を守っていた。寇準が高瓊に言うよう、「どうすべきと思う?太尉(19)はなぜ何も言わぬ」

高瓊、「相公(20)が廟堂で策を献じておるのに、私ごときがなぜ口を挟めましょう。とはいえ相公は陛下に何と?」

寇準、「いま河を渡れば、河北の地は労せずして我らのものになろう。だが、もし渡らねば、敵勢は強くなる一方、人心も動揺しよう。こうなっては、いかに知謀の士が現れようとも、手の打ちようがあるまい」

高瓊は絶叫して、「陛下は寇準の言葉を聞かれよ!寇準の言葉こそ真実だ!」

真宗は座にもどると、長らく議論を続けた。寇準は高瓊に目配せし、まず高瓊の兵に河を渡らせ、高瓊じしんに真宗の馬を牽かせたいと申し出た。これでようやく真宗も寇準の意見に従った。

澶州に到着すると、真宗は城の北門に腰を下ろし、寇準を前に控えさせ、軍事活動を一任した。寇準は思うまま軍令を出したが、分かりやすく厳格だったので、兵士は喜んで従った。契丹軍の騎兵数千が余勢を駆って城下に迫ると、寇準は迎撃を命じ、その過半を殺傷した。このため契丹軍は後方に避き、攻撃を控えるようになった。ちょうど日が暮れたので、真宗は寇準を城に留め、自分は行在所にもどった。その夜、真宗が寇準の様子を調べさせたところ、「寇準は酒を飲み、音楽にうつつを抜かしていた」と報告があった。真宗はようやく心を落ち着けることができた。

〔異説一〕

真宗が澶州に到着したとき、契丹軍はまだ退いていなかった。公、「我が軍の心は陛下御身の上にあります。今もし陛下が城に登れば、必ずや敵軍の心を擒にできましょう」。真宗が澶州城の北門に登ると、宋の将兵はその黄屋を望み見、みなして万歳を叫んだ。その声は原野にこだまし、指揮は百倍にも膨れあがった。

『寇萊公遺事』より

〔異説二〕

公が澶州にいた頃のはなし。公は日が暮れると、いつも楊億と酒を飲み、博打をし、歌を口ずさみ、夜が明けるまで冗談を語り合った。そして眠りに落ちるや、雷のようないびきをかいだ。真宗は人をやって調べさせていたが、公の様子を知るや、「彼がこんな状態なら、何の心配もない」といって喜んだ。

『涑水記聞』より

両軍対峙すること十数日、契丹は軍の撤退を計画し、はじめて和平の使者を宋に送った。ところが盟約を交わしたにも関わらず、契丹は塹壕を埋めるからと虚偽を吐き、宋を攻めた。たまたま契丹の統軍に飛矢が命中し、契丹軍は大混乱に陥った。そのため契丹は和平を強く求めるようになった。寇準が和平案を突っぱねると、契丹はますます恭順の意を示してきた。真宗は和平を許そうとしたが、寇準はこれに反対し、契丹の臣従と幽州の割譲を提案した。しかし真宗の心は既に戦争から離れ、契丹を手なづけられるなら、それでよいと考えるようになっていた。さらには寇準を讒言するものがおり、「寇準が和平を望まぬのは、兵権が己にあるのを幸いに、権力の増強を狙っているからだ」と発言した。このため真宗も寇準を疑い出した。そこでやむを得ず、契丹の和平を許した。

このとき契丹は国を挙げて軍を動かし、千余里の遠き道を越えて中国に侵入していた。そのため退却するにも十日を要すほどだった。ましてや帰路には防御を固めた中国の城が待ち受け、清野の法(21)を行っていた。契丹の兵馬は喰らうものがなく、その百万の軍も戦うことなく命を落とさねばならなかった。契丹の窮乏がこのようであれば、いま少し彼らを苦しめさえすれば、契丹は必ずや臣と称したであろうし、幽州もきっと手に入れられたであろう。

『萊公伝』より

〔異説〕

契丹が和平を求めてきた。真宗は公に意見を求めた。公、「もし私の策を用いれば、今後数百年は安定しましょう。さもなくば、四五十年の後、また彼らの心は変わりましょう」。真宗、「私は人々の苦しみを坐視できぬ。しばらく和平を許してやれ。四五十年の後にも契丹を防ぐものが現れようから」。こうして契丹は和平を許された。

『寇萊公遺事』より


契丹は軍を後に退け、和平を求めてきた。宋は和平案の策定に曹利用を向かわせた。このとき契丹軍は既に疲弊しており、さらには帰路に鎮州と定州の大軍が待ち構えていることを畏れていた。そのため曹利用の到着を大いに喜び、豪華な夜具を用意させた。

さて、契丹の君主は河北の割譲を求めた。曹利用は「そのような要求を呑んでは、私の命がありません。とても報告できるようなものでは......」と抗議し、かわりに毎年金繒二十万の譲渡を申し出た。しかしこれには契丹側が少なすぎると難色を示した。

曹利用は帰還すると、真宗に状況を説明した。真宗は「百万以下だ。それならなんでもいい」と言った。曹利用が退出すると、寇準は曹利用を部屋に呼び、「陛下の許可があったとて、三十万を越えてはならぬ。もし三十万を越えるようなら、生きて私の顔は見れぬぞ。私がお前を斬り殺すからだ」と言った。曹利用は震え上がり、契丹と再度の交渉の結果、三十万で折り合いをつけ、戻ってきた。

『涑水記聞』より


契丹との和平が成立すると、宋の将軍たちは、伏兵を配して迎撃し、契丹軍を殲滅しようと言いだした。萊公が真宗に言うよう、「なりません。契丹軍の帰国を許し、盟約を保持なさいますように」と。

『邵氏聞見録』より


真宗が澶淵に到着したある日のこと。萊公に意見を求めて言うよう、「契丹軍はまだ退却せぬばかりか、後方には天雄軍がある。万に一も陥落すれば、河北の地はすべて契丹のものになってしまおう。だれか私のために魏(22)を守るものはおらぬか」

萊公、「ここに至っては、もはやなす術がありません。しかし古人はこう申しております。『知将は福将に如かず』と。私の見立てでは、参知政事の王欽若はたいへんな果報者かと。彼に守らせるのがよろしいでしょう」

こう言って公はすぐ辞令書を出して許可を取り付けた。

公は退出すると、王欽若をよび、真宗の意向を伝え、辞令書を手渡した。王欽若は突然のことで我を失った。そしてまだ一言も発さぬうち、公は「これは親征だ。臣下たるもの、辞退の許されるときではない。ましてや参政は国家の大臣だ。意味するところはお分かりであろう?早馬はもう到着しているから、陛下に報告するには及ばぬ。すぐに行かれたがよい。さすれば御身も安全だ」と言うや、上馬盃となづけた大杯に酒をそそいで差し出した。王欽若は動揺を隠せなかったが、さりとて辞退もできず、酒を飲みほし、公に別れを告げた。公はこれに応えて言った、「努力されよ。朝廷に戻れば宰相の椅子が待っている」と。

王欽若が魏に入ったときは、既に契丹軍が野に満ちており、戦略を立てる術もなかった。そのため堅く城門を閉じ、一日の間、ずっと端座していた。数日後、契丹軍は撤退し、王欽若は次相として呼び戻された。

ある人はこう言う。――王公(王欽若)はしばしば真宗を惑わす発言をしていた。だから萊公はうまく王欽若を追い出すことで、契丹に勝ったのだ。

『東軒筆録』より


景徳のはじめ、契丹が侵入したとき、陳堯叟は黄河沿辺の浮橋を撤去し、舟船をすべて南岸に集めるよう訴えた。勅のとおり河陽・河中・陝府の浮橋が撤去されると、住民は騒ぎ立てた。ただ河中府知事の王済だけは、浮橋を撤去せず、勅書を突き返し、反対意見を差し出した。また陝州通判の張稷は、この通達があったとき、仕事で城を出ており、そこで浮橋の撤去を目の当たりにした。張稷は城にもどると、河中府が浮橋の撤去を拒否したことを知った。そこで陝州でも浮橋をまた架けさせた。寇公はこの一件で二人の名を知った。翌年、王済を召還して知雑御史とし、張稷を三司判官とした。王済は剛直な人柄で、多くの人に疎まれていた。そのため寇公が宰相を辞任すると、王済もまた野に下り、そのまま死んだ。

『涑水記聞』より

〔異説〕

澶淵の役のおり、真宗が南に向かおうとすると、萊公は反対して、「それでは中原を棄てることになります」と。浮橋を落とし、河を防衛線にしようとすると、公は反対して、「それでは河北を棄てることになります。国の存亡は河北にかかっています。棄ててはなりません」と。

『後山談叢』より


澶淵の役は、ただの紙きれ一枚の命令を下したにすぎない。――州県は守りを堅くせよ、村人を城に収用せよ、金幣は自由に処分せよ、穀物は動かすな、死者はその場に埋葬せよ、敵軍が来ても戦うな、と。このため契丹軍は中国に深くに侵略しても得るものがなく、わずかに徳清軍の一城を落とすのみで、とても不足分を補うことはできなかった。我が方と戦う前から疲弊していたのだ。

『後山談叢』より


章聖が馬歩軍都指揮使にふさわしい人間を両府に求めた。公が人事案を練っていると、下役人が履歴書を持ってきた。公が理由を問うと、「登用の順序を記した先例集です」と。公が叱って言うには、「朝廷が一人の武官を選ぶときですら先例が必要だというなら、我らの場合はどうだ。これこそ国政を駄目にするもとだ」

『寇萊公遺事』より


真宗は澶淵での活躍を思い、公を優遇すること甚だしく、しきりに功績を称えていた。王欽若はこれに嫉妬し、こっそり真宗に告げ口した。「澶淵でのことですが、寇準は陛下を骰子のごとく扱い、契丹と博打をしたのです。もし我らが勝てねば、契丹が勝ちました。陛下のために万全の計を練ったわけではありません(23)。ましてや城下の盟(24)は古人の恥ずるところ。このたび契丹は猖獗を極め、我が王畿にまで侵入する有様でした。ところが寇準は国の宰相でありながら、契丹の将兵を殲滅できぬばかりか、ついには城下の盟を結び、わずかに危機を免れる有様でした。これでも褒めるに足るものでしょうか」。このため真宗の心は少しずつ寇準から離れていった。しばらくして寇準は宰相を辞め、天書の事件が起こった(25)

『涑水記聞』より

〔異説〕

真宗は都にもどると、いつも萊公の功績を称えていた。小人が讒言していうよう、「陛下は賭博をご存知ですか?負けて手持ちの銭が減ると、孤注と申しまして、あり金のすべてを賭けてしまうのです。これをよくよくお考えください」。真宗は驚愕し、萊公に対する優遇も衰えてしまった。

『邵氏聞見録』より


公が大名府を守っていたころ、契丹の使者が道すがら立ち寄った。公に語るよう、「相公ほどの人がなぜ中書省(26)におらぬのです」。公、「陛下の思し召しよ。朝廷は安泰なれど、北の守りは私でなければ務まらぬというのでな」

『聖宋掇遺』より


大中祥符元年(1008)正月、天書が宮中の承天門に降り、真宗は元号を改めた。その年の六月、天書はまたしても泰山に降った。そして同年十月、泰山に封禅を行った。二年後、汾陰に后土を祀った。真宗の天書に対する扱いはじつに丁重なものだった。天書を玉輅(27)に載せたばかりか、天書の向かうところ、真宗みずからその道を避けた。ほどなくして、また神が延恩殿に降り、それを天尊とよぶことになった。真宗みずから神を見たこともあり、ますます祭祀を重視するようになった。天書が降るや、まず玉清昭応宮を造り、次いで会霊宮や景霊宮を増築した。そして亳州で老子を祭った。こうして天下は神事一色となった。この当時、寇準は朝廷におらず、また天書を信じてもいなかった。そのため真宗はますます寇準を疎んずるようになった。ところが最後に、寇準が京兆府の知事を勤めていたころ、都監の朱能がまたしても天書を献上した。真宗が王旦に意見を求めたところ、王旦は「寇準は始めから天書を信じていませんでした。ところがいまや天書は寇準の任地に降りました。天書を寇準に献上させれば、天下の人々も納得するでしょうし、天書を疑う人々も必ずや信じるようになるでしょう」と助言した。真宗はこの意見に従い、宮中から人を遣って寇準を説得させた。朱能は宦官の周懐政に近く、また寇準の娘婿の王曙は朝廷にあって周懐政と仲がよかった。そのため朱能に附合するよう、王曙も寇準に勧めた。はじめは寇準も断っていたが、王曙がどうしてもと頼み込んだ。寇準もこれによって中書侍郎・平章事に返り咲くことができた。天禧三年(1019)のことである。

『萊公伝』より


天禧の末年(1021)、真宗が病に倒れると、章献明肅劉太后が政務を執るようになった。真宗はこれに不満を持っていた。寇萊公は真宗の心を読み取るや、章献を廃し、仁宗を立て、真宗を太上皇とし、丁謂や曹利用などを排除しようとした。かくして李迪・楊億・曹瑋・盛度・李遵勖らの協力を取り付け、計画は決まり、辞令も楊億がすべて書き上げ、あとは実行するだけになった。ところが萊公は酒に酔って計画を漏らしてしまった。これを急ぎ丁謂に告げたものがいた。丁謂は夜中に牛車に乗り、曹利用のもとを訪ね、事後策を練った。翌日、曹利用は朝廷に入るや、萊公の計画をすべて太后に言上した。そして真宗の意向を曲げ、公から宰相の任を解いてしまった。真宗が崩御すると、丁謂らは公を謀叛人と断じ、ついに海上(28)に流してしまった。これは上官儀の事件(29)と同じで、世の人々から冤罪の謗りを受けた。後、楊億は死のまぎわ、事件の辞令書や始末記を李遵勖に譲り渡した。章献が崩御すると、李遵勖は楊億の書物を仁宗に進呈し、あわせて事件の顛末を訴えた。仁宗は当時の曲直を見定め、感嘆すること再三、ついに詔を下して冤を雪ぎ、公に中書令を贈り、忠愍と諡した。また楊億に礼部尚書を贈り、文と諡した。その他、萊公一味として排斥された人々の無実が証明された。李淑が楊億の増官制(30)に「天禧の末、政治が宮中より出でしとき、よく重臣として振る舞い、太子の尊ぶべきを論じた」と記すのは、これがためである。

『東軒筆録』より

〔異説一〕

真宗はその晩年、病気になると、自身の寿命を考えるようになった。そんなある日、宦官の周懐政の股を枕に話をし、太子(31)を監国にしようということになった(32)。周懐政は東宮の官僚だった。彼は退出してから寇準と話し合った。寇準は太子を立て、劉皇后を廃し、丁謂らを排斥しようとした。その際の辞令は全て楊億に執筆させた。ところが楊億は妻の弟の張演(33)に、「数日後、政治が一新されるぞ」と口を滑らせた。この言葉が外に漏れるや、丁謂は闇夜を婦人の車に乗り、曹利用と対策を練り、ついに周懐政を誅殺し、寇準を失脚させた。丁謂が楊億を中書省に呼びつけたところ、楊億は恐怖のあまり糞尿を垂れ流し、死人の顔色になった。しかし丁謂は平素より楊億の高く買っていたので、危害を加える気はなかった。丁謂が楊億に言うよう、「私は昇進することになったので、一つ君の手で立派なものを書いてくれぬか」と。これを聞いて楊億はようやく心を落ち着けることができた。

はじめ寇準がこの計画を練ったとき、各地に使者を派遣し、計画に従わせ、異論あるものは排除しようとした。そして楊億に詔を書かせ、娘婿の王曙を地方に向かわせた。しかし王曙は計画の無謀を悟り、強く反対した。失敗することが分かっていたからである。王曙は楊億の文書を隠し、妻に命じて衣服の中に縫い込ませた。劉后(34)が崩御すると、朝廷は寇準の名誉回復に乗り出した。このとき王曙は当時の書簡を提出したが、既に文字は摩滅しており、判読不能な状態だった。これが幸いして、楊億は増官と諡を得られた。たしかに寇準は篤実な人柄で、もとより不埒な考えをもつ人ではなかった。とはいえ、もし寇準が権力を手中に収めたなら、必ずや専横の挙に出で、人心を失い、国家の禍となったであろう。

『龍川別志』より

〔異説二〕

真宗が病に倒れるや、寇萊公と周懐政は、天子の位を太子に譲るよう進言した。真宗はこれを許したが、それは皇后以下の誰も預かり知らぬことだった。しかしその月が終えようというのに、何の音沙汰もなかった。二月二日、真宗が後苑に赴いたとき、後宮のものに青菜を摘ませた。左右のものが去り、真宗が一人いるのを見た周懐政は、ひそかに小刀を懐にしまって近づき、涙を流して訴えた。「私は前に社稷の大計を申し上げました。そのとき陛下は我らの進言を採納くださったにも関わらず、いまだ決断くださいません。なぜでしょうか。私は自分でこの心臓を割き、忠誠のほどをご覧に入れとうございます」。こういって刀で胸を刺した。周懐政は地面に倒れ込み、あたりには血が飛び散った。真宗は驚きのあまりその場に倒れ、左右のものに抱えられて禁中にもどった。皇后は周懐政を獄に下し、事情を調べさせた。また宮中から萊公の意見書――位を太子に譲ること――を入手した。そこで禁軍将校の楊崇勳に「寇準と周懐政は皇帝を廃し、太子を立てようとした」と密告させ、ついに周懐政を誅殺し、萊公を左遷した。

『涑水記聞』より

〔按語〕

三書の言うところは大同小異である。よってこのたびは三書とも収録することにした。


公は善良な士を愛し、才能ある者の推薦を厭わなかった。种放や丁謂はいずれも公の推薦によって名を知られた人々である。しかし公が親しい人に語るよう、「丁君はたしかに奇才だが、重責には堪えられまい」と。

公が丞相、丁謂が参知政事の頃のはなし。都堂(35)で会食したとき、羮の汁が公の髭にかかった。丁謂が立ち上がってそれを拭うと、公は色を正して言い放った。「執政の身でありながら、宰相の髭をぬぐうとはどういうことか!」丁謂はこの恥辱に我慢ならなかった。公は己の正直を頼み、人の阿諛迎合を恐れなかった。だから最後には彼らに陥れられたのだ。

『寇萊公遺事』より


公が枢密使、曹利用が副使の頃のはなし。公は曹利用を武人だからと馬鹿にしていた。意見が対立したときには、いつも「君は武人だろう?国家の大事が分かるのかね」と言った。このため曹利用は公を怨んでいた。真宗が劉氏を皇后に立てようとするや、公と王旦・向敏中は、卑しい出だからと反対したが、聞き入れられなかった。その後、劉氏の一族が蜀で幅を利かせ、民の塩井(36)を奪うという事件があった。真宗は皇后の体面を考え、棄て置こうとした。しかし公は法の定めのとおり処置するよう強く求めた。この当時、真宗は病のため記憶が曖昧になり、政務の多くが宮中で決められていた。丁謂は曹利用と寇準の対立を見て取るや、ついに曹利用と手を結び、公の宰相職を解くよう求め、太子少傅にしてしまった。もとより真宗のあずかり知らぬことだった。その年も暮れなんとするころ、真宗はふと近臣に尋ねた。「しばらく寇準の顔を見ていないが、どこにいるのだ?」しかし近臣に事実を告げるものはなかった。真宗が崩御し、太后が称制(37)を始めると、公は再び雷州に左遷された。この年、丁謂も処罰された。

『涑水記聞』より

〔異説一〕

丁謂が言うには、「先朝の時代、節日(38)になれば宰相寇準の邸宅で宴会を催した。寇準は大盃を人に飲ませるのが好きだった。このとき曹利用は枢密副使で、寇準におもねることができなかった。すると寇準は『ただの一夫の分際でなんだ!』と怒鳴った。これには曹利用も声を荒げ、『私も枢府に責を任された人間だ。それを相公は一夫というとは。よろしい、明日、陛下の前で決着をつけようではないか!』と。こういうことがあって、二人の仲は悪くなった。その後、萊公の計画を暴いたのは曹君だった。私にはなんの関わりもないことだ』と。しかし世のだれもが知っていた。萊公の失脚に丁謂が一枚も二枚も噛んでいたことを。

『倦遊録』より

〔異説二〕

章聖は病の床から近臣にこう言った。「後のことを任せられるのは寇準と李迪だけだ」。しかし真宗が崩御すると、丁謂を宰相に迎え、公を排斥した。これは真宗の本心ではなかった。

『寇萊公遺事』より


最初、公は道州司馬に左遷された。もとよりその地に屋敷はなかったが、来訪を知った地元の人々が争って瓦木を持ち寄ったので、あっという間にできあがった。それがまた実に立派なものだった。知事がこの一件を朝廷に報告したところ、今度は海康に左遷されることになってしまった(39)

『倦遊録』より


公が雷州に左遷されると、丁謂は中使(40)に勅書を運ばせた。そして錦の袋に剣を刺し、馬の前に掲げておくよう言い含めておいた。中使が到着したとき、公は郡の官僚(41)と宴会を開いていた。駅の官吏が中使の様子を知らせてきたので、公は郡の官僚に出迎えさせた。ところが中使は面会を拒み、宿舎に籠もって出ようとしなかった。来訪の理由を尋ねても、答えようとしない。この様子に郡の官僚は震え上がり、おろおろするばかりだった。しかし公は平素と変わらず、中使にこう伝えさせた。「朝廷が私に死を賜うなら、願わくはその勅書を拝見しよう」。中使はどうしようもなく、公に勅書を授けた。公は録事参軍から緑色の単衣(42)を借り受け――その短さときてはわずかに膝のところまでしかなかったが――庭で詔書を拝受した。そして部屋に戻り、夕暮れまで宴会を続けた。

『涑水記聞』より


公が雷州で死ぬと、朝廷は洛陽への帰葬を許した。道すがら公安を過ぎると、民が出迎え、公の喪に哭し、竹を斬って地に植え、紙銭(43)を燃やした。後々、筍が生えて竹林となった。地元ではこれを相公竹とよんだ。こういうことがあって、竹林のそばに公の廟を立て、たいそう丁重に祭ることになった。劉貢父と王楽道の二人は、各々この逸話を文字に書き写し、石に刻んだ。

『麈史』及び『名臣伝』より

〔異説〕

公は左遷先の雷州に赴く途中、道すがら公安に立ち寄った。竹を斬って神祠の前に指し、祝辞を述べて言うならく、「私の心、もし朝廷に背くことあらば、この竹は必ずや死なん。もし朝廷に背かずんば、この枯竹はまた生き返らん」と。はたして竹は生き返った。

『東軒筆録』(42)より

〔按語〕

この所説は前二書の所説と異なる。前説が正しかろう。


公は若いころ礼儀作法に無頓着で、いつも鷹や犬と駆け回っていた。ところが母親は厳しい人で、あるとき怒りのあまり秤の分銅を投げつけたところ、足に当たって血が流れ出た。これ以後、公は心を入れ替えて学問に精を出した。公が地位を得たころ、その母も既に亡く、公はかつての古傷をさするごとに、いつも母を想い涙したという。

『涑水記聞』より


はじめて枢密直学士になったとき、公は大変な賞与を賜った。それを見た乳母が泣いて言った。「母君が亡くなられたとき、家は貧しく、薄い絹織物で掛布団を作ろうにもできませんでした。若君がこれほどの富貴を手に入れられようとは、夢にも思われなかったでしょうに」。公は乳母の言葉に慟哭し、それ以後、賞与を使い尽くし、身を終えるまで蓄財に心を止めなかった。その後、宰相になっても、手に入った俸禄は施与に務めた。

公は奢侈な振る舞いの目立つ人だったが、その実、倹約家で、音楽や女に心を奪われることはなかった。寝食にも一重の帳を二十数年つかい続け、破れたところは繕わせていた。戯れで「公孫弘のまねですか?」(45)と言うものがいた。公は笑って、「彼のは見せかけだが、私は真心からだよ。破れたとて、大したことはあるまい。それに長く使っておれば、情が移り、破れてもなかなか棄てられぬものさ」と。その者は己の発言を恥じたという。

『寇萊公遺事』より


処士(46)の魏野はかつて公に詩を贈った。――「高貴の官を身にまといながら、かくも矮小なる邸宅とは」。仁宗が即位すると、契丹の使者が慶賀に訪れた。そこで宴会を催し、両府の大臣も出席を許された。契丹の使者はあたりを見回し、通訳に問うよう、「あの『かくも矮小なる邸宅』なる相公はどなたのことかな」。みなが口を閉ざすなか、丁謂が訳者にこう言わせた。「我が朝廷は新帝が即位されたばかり。南方に大臣をやって鎮撫させねばならぬとて、寇公にはしばらく南夏の地に出ていただいた次第。久しからずして戻られるでしょう」

『政要』より


鄧州の花蝋燭(47)といえば、天下に知られた名燭で、京師の技術者とてまねすることのできないものだ。世間では相伝えて「寇萊公の燭法」と言っている。公が鄧州知事の頃のはなしだ。公は若い時分から恵まれた生活を送り、油燈など用いなかった。とりわけ夜の宴会を好み、寝るときも蝋燭を朝まで灯していた。人事異動の後、後任のものが官舎に訪ね、厠を開けると、そこには蝋燭の残り糟がうず高く積まれていたとか。一方、杜祁公(杜衍)は倹約を旨とし、官に籍を置いてからも官の蝋燭を燃やさず、油燈を一つ用いるのみで、それすら消え入らんばかりの炎。客と話しをするときは、清談のみで済ませた。二公はともに名臣として知られているが、両人の奢侈と倹約のほどはこれほど違っていた。しかし杜祁公は長寿にして安寧に逝き、寇萊公は晩年に南方左遷の禍があり、ついに都に帰ることができなかった。たしかに不運ではあったのだが、また後人の戒めとするに足りるだろう。

『帰田録』より


寇準は機転の利く知恵者で、人づきあいも大好きだった。また贅沢な食べ物を好み、身の回りのものには桁外れの金をかけていた。しかし蓄財はせず、気節を貴び、人々の尊敬を集めていた。これらは天性のものであろう。

『萊公伝』より


王元之(王禹偁)の子の嘉祐は、館職(48)を帯びながら、いつも愚者のごとき風采だった。ただ寇萊公のみは彼の本質を見抜き、好んで話をしていた。萊公が開封府知事のころ、ある日、嘉祐に意見を求めた。

萊公、「外では私をどう言っている?」

嘉祐、「明日にも宰相だと申しております」

萊公、「どう思う」

嘉祐、「私からすれば、舅様はまだ宰相になられぬ方がよろしい。宰相になれば、名声を損ないましょう」

萊公、「なぜかな」

嘉祐、「昔から賢宰相が功業を立て、生民に恩沢を施し得たのは、君臣の心が水魚の交わりのごとくしっくりしていたからです。ですから発言すれば受け入れられ、計略は従われ、功績・名誉ともに成就し得たのです。いま、舅様は天下の重望を担っておいでです。ならば宰相となれば、天下を太平にする責務が生じましょう。しかし舅様と君主の間は、はたして水魚の交わりと申せましょうか。これこそ私の恐れるところです」

これを聞いて萊公は大喜びし、立ち上がって嘉祐の手を握った。「元之は文章で天下の第一人者となったが、さしもの彼も、洞察力と見識においては、お主にはかなわぬな」

『涑水記聞』より


張忠定公(張詠)は蜀を治めているとき、萊公の宰相任命を聞いた。そこで言うならく、「寇準はまことの宰相だ」。そしてまた言うならく、「天下が彼の恩恵を被ることはなかろう」。門人の李畋は理解できず、理由をたずねた。曰く、「ふつうの人間が千言を用いてもなお尽くし得ないものを、寇準は一言で済ませてしまう。しかも仕官した年も若ければ、昇進も驚くほど速かった。学問が間に合っていないのだ」

張忠定と寇萊公は心を許した間柄で、しかも萊公が忠定を兄貴分として慕っていた。忠定はいつも面と向かって萊公を批判し、少しの遠慮もなく、それは萊公が出世してからも変わらなかった。

萊公が岐(49)にいたとき、忠定は蜀から都に還り、岐を通り過ぎた(50)。その別れ際、萊公を顧みて、「霍光伝(51)を読んだかね」。萊公、「まだです」。忠定はそれ以上なにも言わなかった。萊公はもどって霍光伝を読み、「学術がなかった」のくだりまで来るや、笑って言った。「これは張の兄貴が私のことを言ったのだ」

『後山談叢』より


張乖崖(張詠)はいつも言っていた。「寇公に蜀を治めさせても、私には及ぶまい。しかし澶淵の一挙、私には出来ぬ相談だ」。深く萊公に敬服していたのである。

『涑水記聞』より


寇準は懐が深く、機知に富み、勇猛果敢、冷静沈着、判断力があり、細事にこだわらず、気節を尊び、議論がうまく、腹蔵するところがなく、無尽の魅力を備えていた。また大義としてなすべきことは全力で行い、心を奮わせ、飛翔するが如く、身をもって先んじた。その勇気はまことに古の孟賁や烏獲(52)に比類するものがあった。内患外憂に際しては、毅然として事に臨みならがも、心に余裕を持ち、畏れるところがなかった。わずかの善事を聞けば、その者を推薦して止まなかった。そのため阿諛迎合の徒は、あたかも仇敵のごとく寇準を憎んだ。

孫抃の奉勅撰『旌忠碑』より


寇準は罪人として南へ向かった。零陵を過ぎ、大陂(53)を越えたところで、渓族(54)が隙をついて荷物を盗んだ。ところが酋長はすぐにその盗人を呼びつけ、「お前達はなぜ賢宰相の荷物を盗んだのだ。神さまが許すと思うておるのか!」と言い、略奪した荷物を一族の者に届けさせ、さらに道すがら謝罪させた。寇準は謝罪を受け入れ、彼らを許した。

南海に到着してからは、朝謁の礼をいつも通り行った。そして息子に言うよう、「法を守り、正義を行うのは、士大夫のつとめだ。うまくいくかどうかで態度を変えてはならない」

庁舎の東に高殿を造り、そこに机を置いた。端座すること終日、他に何もしなかった。経書、史書、老荘および天竺の書物(55)に至るまで、あらゆる書物をまわりに並べ、暇さえあれば読んでいた。客が来れば高殿に登り、遊覧談笑し、全く貴人のそぶりを見せなかった。

嶠南の地は道が険しく、馬で進むことができなかった。そのため当地の役人は竹で簡単な輿を造り、寇準を迎えに出た。しかし寇準は「私は罪人だ。馬で行かねばならぬ」と言って謝絶した。一行は熱さと湿気の中、毎日、嶮難の道程を百里ほど進んだ。周囲の者はこのために涙を流したが、寇準は気持ちを奮い立たせ、沈んだ顔を見せなかった。寇準はかくも広大な度量の持ち主だったのだ。

雷陽に到着すると、下役人が地図を出してきた。地図を見ると、そこには「郡の東南の門から海岸まで、およそ十里」と記されていた。寇準は夢見心地で、「私は子供のころ『海に至るまでわずか十里、山を過ぐること万重(56)』という詩を詠んだことがある。いま思えばこのことだったのだ。人生に偶然はないのだな」と。

『旌忠碑』より


丁謂は政争に敗れ、罪人として左遷され、その道すがら海康に足を運んだ。寇準の従者は怨みを晴らそうと、よからぬことを企てた。寇準はこれを知るや、屋敷に席を設け、遊具をならべ、すべての従者を集めて賭博を催し、自分はひじかけにもたれて眺めていた。そして丁謂が通り過ぎたのを確認してから、賭博を止めさせた。

『旌忠碑』より

〔異説〕

寇忠愍公が雷州に左遷されたとき、宰相は丁晉公(57)と馮拯の二人だった。丁公は辞令を書くにあたり、はじめは崖州を考えていた。しかしふと思うところがあり、馮拯に尋ねた。「崖州は二回も海を渡るが、どうだろうか?」馮拯はただ頷ずくだけだった。そこで丁公はおもむろに雷州を左遷場所に決めた。ところが丁公が左遷される段になると、馮拯は崖州に左遷してしまった。当時、好事者は言った。「雷州の寇司戸(58)に会うだろうよ。人生、どこで人に会うか分からない」。丁公が南へ向かったころ、寇公の任地も道州に移っていた。寇公は丁公の来訪を知ると、蒸した羊を州の国境に送った。そして従者を家に集め、門を閉ざし、外に出られぬようにした。寇公のやり方は礼儀に適ったものと言えよう。

『帰田録』より


寇準の著作はいろいろあるが、最もうまいのは上奏文だった。言葉は簡単ながら論旨は透徹しており、世に裨益するところが多かった。他の文章はすぐ焼いてしまい、身近な人々ですら読むことができなかった。また好んで詩を作ったが、人の心を突き動かす美しく清らかな様は、劉夢得・元微之(59)の風格があった。しかし力強さや奇抜さときては、彼らをも越えていた。

『旌忠碑』より



〔注〕
(1)魏郡。大名府のことで、北方の要衝として知られる。
(2)太平興国四年の北伐を指す。
(3)『忠愍集』巻中の春日登楼懐帰には「高楼聊引望、杳杳一川平。遠水無人渡、孤舟尽日横。荒村生断靄、深樹語流鶯。旧業通清渭、沈思忽自驚」とある。韋応物にちなんで作られたこの詩は、唐代詩人の風格を備えたものと評された。
(4)周の召公の故事をふまえたもの。召公は周建国の名臣。かつて甘棠の下で善政を布いたところ、その地の住民は召公の徳を思い、甘棠を愛したという。
(5)植物の名。
(6)本条は現行本に見えない。
(7)唐の名臣魏徴のこと。
(8)堯も湯も古代の聖天子。堯や湯に不可能なことは、後代の君主にも不可能だと考えられた。
(9)中書省(宰相府)と枢密院の長官。
(10)劉攽のこと。
(11)後の真宗のこと。
(12)真宗のこと
(13)宮中の使者。宦官である場合が多い。
(14)禁軍と文武百官。
(15)石氏の晉のこと。一般に後晉とよばれる五代十国時代の王朝。
(16)石晉の出帝が契丹に敗れたことを指す。
(17)契丹の本格的攻撃は景徳元年(1004)閏9月以後であるが、李沆はその直前の同年7月に薨じている。ましてや李沆の薨御をうけ、畢士安と寇準が宰相になり、対契丹戦略を練ったのだから、この時期に李沆が寇準に賛同することはあり得ない。したがってこの記事は誤りを含む。
(18)大名府のこと。
(19)高瓊のこと。
(20)宰相のこと。ここでは寇準を指す。
(21)住民と食物をすべて城内に収納し、略奪による敵軍の食糧確保を阻止する策戦。
(22)大名府のこと。
(23)どう転んでも真宗が勝つような計画を練ったのではなく、運がよければ勝てるが、悪ければ負けるような博打をしたという意味。
(24)敗戦の盟約。
(25)天書については第21条に見える。
(26)宰相府。
(27)皇帝の載る車。
(28)海南島近辺に左遷したことを指す。
(29)上官儀は唐の人。則天武后の専横を厭う高宗皇帝の諮問に応じ、廃后の文を書いたところ、皇后に阻止され、逆に大逆罪に問われて処刑された。『旧唐書』巻80、『唐書』巻105に伝あり。
(30)昇進辞令を指す。
(31)後の仁宗。
(32)監国は、皇帝不在のおり、皇太子が代わって政務を執ること。ここでは皇太子を監国にすることで、皇后の専横を沮み、不測の事態に備えることを指す。
(33)不詳。
(34)章献太后劉氏のこと。
(35)宰相府。
(36)塩の取れる井戸。
(37)皇帝に代わり皇后や皇太后が政務を執ること。
(38)皇帝の誕生日、または祝日。
(39)都から遠い左遷先ほど悪地とされる。道州は荊湖南路の最南端で、かなりの悪地であるが、雷州(海康)はさらに遠く、海南島の手前である。したがって寇準は最初の左遷は道州で済んでいたが、その地の住民が余計なことをしたので、さらに遠い雷州まで左遷されることになった。
(40)宮中から派遣される使者。宦官である場合が多い。
(41)雷州勤務の地方官のこと。
(42)下級官吏の服。
(43)死者があの世で使う銭。葬儀のとき燃やすことになっていた。
(44)本条、現行本になし。
(45)前漢の学者、政治家。『史記』巻112、『漢書』巻58に伝あり。かつて汲黯が「公孫弘は宰相でありながら布の蒲団を使っている」と弾劾したとき、公孫弘は情を偽り名を釣ろうとしたと告白した。
(46)在野の著名人のこと。学者が多い。
(47)装飾を施した蝋燭。
(48)肩書きの一種で、出世に必要だった。
(49)陝州のこと。
(50)景徳三年(1006)のこと。
(51)『漢書』霍光伝のこと。霍光は前漢の政治家。昭帝を助け、宣帝を導き、前漢に功があった。しかし学術がないため、物事の本質を知らず、死後、族誅にあった。以下の「不学無術」は同書の賛に見える。
(52)いずれも戦国時代の勇者。
(53)不詳。
(54)広東沿辺の異民族。
(55)上から儒学の聖典たる経書、歴史書、道家に関係する書物、仏教関係の書物。
(56)非常に多いことの譬え。
(57)丁謂のこと。
(58)寇準のこと。司戸は司戸参軍のこと。当時、寇準が雷州司戸参軍だったことによる。
(59)劉禹錫と元稹のこと。夢得および微之は各々の字。いずれも唐代の政治家。詩人として著名。

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