太尉衛国高烈武王(高瓊)

王、名は瓊。代々燕の地に住んでいたが、亳州の蒙城に移住した。太宗に仕え、御龍直指揮使になった。後、昇進を重ね、帰義軍節度使・殿前都指揮使に至った。景徳元年(1004)、真宗の行幸に従軍し、澶淵で戦功を収めた。翌年、病気のため兵権から離れ、検校太尉・忠武軍節度使になった。同三年、薨じた。年七十二。王の曾孫女は英宗皇帝の皇后になった。これが宣仁聖烈皇后(1)である。


太平興国四年(979)、太宗の太原征討(2)に従軍した。太宗は幽州からの帰還途中(3)、契丹の大軍が到来したと報告を受けた。そこで王を御営(4)に留め、夜に引龍直楽を奏でさせた(5)。夜明け、王は太宗の車駕が遠く離れたことを確認してから、契丹の囲みを破って脱出し、行在所にたどり着いた。ところが六班(6)の兵は間に合わなかった。太宗は六班を処罰しようとした。王は「陛下は昼夜を徹して軍を動かされました。命令の伝達が遅れたのは主将の罪です。ましてや六班の兵士は選りすぐりの猛者ばかり。彼らを率いて太原を降しながら、その功績も賞さぬうちに、彼らを処罰してよいものでしょうか」と諫言した。このため太宗の怒りは解けた。

王禹玉の神道碑(7)より


高瓊は帰義節度使として并州馬歩軍都部署になった。ときに潘美も太原にいた。旧制では、節度使として軍職を帯びるものが上席にあずかった。しかし高瓊は、潘美は古参の将軍だからと言って、末席に降ることを願い出た。

その後、高瓊が歩軍都指揮使になったとき、守備兵の中に喰い物が腐っていると騒ぐものがいた。この発言を耳にした高瓊は、ある日、巡回の途中、食事のために集まる兵士らに近づき、彼らの飯を手にとって喰らった。そして言った。「辺境が無事ゆえ、こうして座って飯を腹一杯食える。幸せをかみしめねばなるまい」と。

『本朝蒙求』より


管軍(8)の将校に欠員が生じたので、王が二司(9)を兼任することになった。そこで王が上奏するには、「私も年老いました。もし病に倒れるようなことでもあれば、誰にこの重職を任せばよいのでしょう。先帝の御代は、殿前司以下にそれぞれ副都指揮使と都虞候(10)が常時十人ほどおりました。彼らは同じ職務を担い、また身分も接しておりましたので、下位の将校を上級職に取り立てるのも容易でした(11)。また指揮官の能力は、日ごろから兵士によく知られていましたので、いざというときにも、適切に指揮官を用いることができました。これこそ軍制の基本です」。真宗は王の意見に従った。

神道碑より


景徳元年、契丹軍が澶州に侵入した。真宗は北方に行幸したものの、途中、韋城で軍を止めた。大臣に南方へ逃げるよう進言するものがいた。真宗は王を帷幄によび、意見を求めた。

王は落ち着き払って、「敵軍は本国から遠く離れた我が国で戦っております。長くは持ちますまい。ましてや我らは既に伝令を発し、天下の兵を集めておるのです。我が軍が前進するだけで、確実に戦果を収められます。もし軍を止めでもすれば、それこそ人々を惑わせるもとです。そもそも誰がこのような策を陛下のお耳に入れたのです?」

真宗、「分かった。なら改めて大臣の意見を聞いてみよう」

王、「天子みずから六軍(12)を率い、戦地に足を踏み入れられた以上、国の安危は一瞬の判断に決します。これ以上、なにを議論することがありましょう」

かくして真宗は韋城を出発し、澶州まで軍を進めた。しかし浮橋を渡る段になり、またしても近臣が車駕の足を止めた。王は馬を降りて車駕の前進を促し、みなとともに河を渡った。そうして渡り終えるや、すぐに北城に赴き守備兵を激励するよう真宗に訴えた。宋の軍隊は皇帝の黄蓋を望み見ると、みながみな万歳を叫び、契丹軍もこれに呼応した。このため兵士の声は数十里の遠きに及び、契丹の将軍は驚愕して色を失った。ほどなく伏兵の発した弓が契丹の将軍撻覧に命中し、撻覧(13)は命を落とした。このため契丹は和平の書簡を献上した。

軍の帰還に際して行宮で宴を催したところ、李継隆・石保吉・魏咸信は酒に酔いしれ、たがいに戦功を競い合った。これを見た王は「天子の神武があればこそ、一挙にして敵勢を挫いたのだ。諸君らに何の功績があろうか!」と一喝した。李継隆らは大いに恥じ入った。

神道碑より

〔異説一〕

真宗が澶淵の南城に到着すると、殿前都指揮使の高瓊は北城まで前進するよう申し出た。「陛下が北城においでになられねば、北城の人々は父母を失ったも同然です」。馮拯が真宗の側におり、「無礼であろう!」と叱りつけた。高瓊は怒って、「君は文章の力で大臣になった。ならば敵軍の目前に迫るこのとき、私を批判するくらいなら、一つ詩賦でも作って敵軍を退けてみせよ」。こうしたことがあって真宗は北城に向かうことになった。

真宗は浮橋まで歩を進めると、またもや進軍を止めた。高瓊が鞭で人足の背中をつつき、「はやく行け!ここまできて何をためらうことがある」と急かしたので、真宗はようやく車駕を前進させた。北城に到着すると、門楼に黄龍旗を張らせた。これを見た城下の将兵は一様に万歳を叫び、軍の指揮は百倍にも膨れあがった。おりしも契丹の大将撻覧が弩矢に当たって死んだため、契丹軍は退散した。

他日、真宗は寇準に命じて高瓊を中書省に呼びよせ、こんな訓戒を与えた。「卿はもとより武臣だ。強いて儒士のまねごとをする必要はない」

『涑水記聞』より

〔異説二〕

契丹が澶州に侵入したとき、萊公(寇準)は真宗の宰相となり、北伐を進めた。しかし河を渡るか否かをめぐり、朝廷では意見が分かれた。その日の夕方、宮中の女官らは涙を流した。

翌日、参知政事の王欽若は金陵に行幸すべきだと訴え、枢密副使の陳堯叟は蜀に行幸すべきだと主張した。真宗が諸将に意見を求めたところ、王は「蜀は遠ございます。欽若の意見が正しいと存じます。陛下と後宮の女官らは、舟にお乗りになり、汴河を下られたい。さすれば数日のうちに到着いたしましょう」と答えた。朝廷の高官は一様に頷いたが、萊公は驚愕のあまり顔が真っ青になった。王はおもむろに言葉を続けた。「ただし、陛下がこの都を一歩でもお逃げ遊ばされたなら、この王城には別の者が立ちましょう。官吏も兵士もみな北の人間です。家はこの都にあります。彼らは新たな主君に仕えることになりましょう。はたして陛下を南方まで送り届けるものがいるでしょうか。はたして陛下は金陵までたどり着けますでしょうか」と。萊公は期待以上の出来に大喜び。「高瓊よ、そこまで分かっていながら、なぜ陛下の車駕を用意せぬのだ!」王も応える。「陛下の御車を!」萊公は真宗を車駕に乗せ、ついに河を渡って契丹軍を退けた。

『後山談叢』より

〔異説三〕

太祖は臣下と話をするとき、まったく文章談義をしなかった。これは恐らく将兵を激励するためであったと想像される。これこそ漢の高祖が儒者の冠に催したことと同断だ。太宗になると文を好み、戦争の合間にも、しばしば群臣と詩賦を作った。そのため武事が競わず、ついに潘美の失敗を招くことになった。澶淵の役のおり、章聖(14)が河を渡り、浮橋の中ごろに達するや、高瓊は御者の轡を手に、「ここはよきところ。宰相をよんで詩でも作らせてはいかがか」と言ったとか。当時、宰相の王欽若や陳堯叟は好んで詩賦を作り、武人を軽蔑していた。そのためこのような言葉を吐いたのだ。

『元城語録』より

〔異説四〕

蘇子の論評(15)。王郎(16)が河北で叛乱を起こしたとき、世祖(17)の手には鉅鹿と信都の兵があった。群臣はこの二郡の兵を確保して長安に帰るべきだと主張した。しかし邳彤(18)だけはこれを否定した。「公が西に向かえば、邯鄲の兵士(19)はあえて父母を棄て、主君に背きますまい。ならば千里の遠き道のりを越え、離散逃亡もせず、誰が公を送りとどけましょう」(20)と。世祖はこの言葉に深く感じ入り、長安への帰還を止めた。これこそ東漢興亡の決定的瞬間である。邳彤こそ漢の重臣というべきであろう。高瓊の発言も概ねこれと同じものだ。みな一代の傑物と言えよう。


ある日、蔵の米が腐っていると訴える兵士がいた。王、「辺境で従軍しているものは雨露を忍んでいる。まして口にする粟など、豆色のものばかりだ。諸君はいつも太官(21)の食事を口にできるばかりか、月々の賜与も陛下の御目を通したものだ。他の軍と比べるべくもない。つまらぬことを発言をして軍を動揺させるものは斬り捨てる」と。このため兵士に不平の言葉はなくなった。

その後、王が病気のため軍に趣かなくなると、たちまち件の米を宮中に持ち運ぶものが現れた。それを宮中の高官が皇帝に伝え、ために一人一人に精米一斛が支給されることになった。これを見た王は、「こんなことをしてしまっては」と嘆き、ついに病気を理由に典軍(22)を辞任した。

神道碑より


王は平素より寇準の信認を得ていた。王欽若は南方行幸の件で寇準を怨んでいた(23)。寇準が宰相を辞めると、欽若が枢密院の長官になった。おりしも王の病気が悪化したので、真宗はみずから見舞いに行こうとした。王欽若、「天子みずから臣下を見舞うのは、勲功ある臣下を優遇するためです。しかし高瓊には戦功がありません。行くべきではありません」。このため真宗は見舞いを取りやめた。

神道碑より


あるとき真宗が王に尋ねた。「卿には子供が何人いる?」王、「十四人おります。私は全くの愚か者ですが、子供達にはきつく書物を読むよう教えております」。これを聞き、真宗は王の家に経書(24)や史書を与えた。

王は常にこう言って子供達を戒めていた。「権勢に媚びて栄達を求めてはならぬ。私が大将になれたのは、他人の力を頼ってのことではない」

子供達と蔚昭敏・李斌の人となりを語り合ったときのこと。子供達が「彼らは世間で非難されております」と答えたのに対し、王は、「私はいつもこの二人と言葉を交わすが、彼らは忠直一心、少しも朝廷を欺くところがない。人々の非難するところこそ、私の取るところだ」と答えた。

神道碑より



〔注〕
(1)『宋史』巻242に伝あり。
(2)太原は河東路の中心都市。北漢征討を意味する。
(3)幽州は当時契丹の領土になっていた。太宗は北漢を降した後、余勢を駆って幽州も奪回しようとした。ところが応援に駆けつけた契丹軍に惨敗し、撤退を余儀なくされた。本条はこの撤退時の話である。行文が分かり難いのは、宋人の手になる文章のため、宋の敗戦を諱んだことによる。
(4)太宗の陣営。
(5)引龍直楽は御営で奏でる音楽。太宗は自分の逃げる時間を稼ぐため、高瓊に殿を任せたのである。
(6)近衛兵の意。
(7)王禹玉は王珪(1019-1085)のこと。禹玉はその字。本神道碑は、正式には「推忠保節翊戴功臣忠武軍節度許州管内観察処置等使開府儀同三司検校太尉使持節許州諸軍事行許州刺史兼御史大夫上柱国渤海郡開国公食邑八千七百戸食実封三千戸累贈太師尚書令兼中書令烈武高衛王神道碑銘」(『華陽集』巻49)という。
(8)禁軍のこと。
(9)宋の禁軍は殿前司と侍衛馬軍司および侍衛歩軍司の三司から成る。「二司を兼任」とは、高瓊はこの三司のうちの二司の責任者を兼ねたことを意味する。
(10)いずれも禁軍の指揮官の官名。
(11)副都指揮使や都虞候から都指揮使に昇格されるという意味。
(12)天子の率いる軍隊。朝廷の全軍を指す。
(13)蕭撻凛(『遼史』巻85)に同じ。
(14)真宗のこと。
(15)『蘇軾文集』(中華書局本)巻65、史評、邳彤漢之元臣に見える。また『東坡志林』巻4(12巻本)にも収める。
(16)新王朝を立てた王莽の一味。
(17)後漢の光武帝。
(18)後漢の人。『後漢書』列伝11に伝あり。
(19)王郎の軍。
(20)世祖が長安に退却すれば、鉅鹿と信都の兵も世祖の手から離れ、世祖を長安に送るために留まるものはいないだろうという意味。
(21)宮中の食事を用意するところ。
(22)軍の管理職。
(23)本巻寇準の言行録に見える如く、王欽若は真宗に南方行幸を勧め、寇準の叱責を蒙った。ために王欽若は寇準に含むところがあり、その一派と目される高瓊に嫌がらせをしたのであろう。
(24)聖人の教えの記された書物。五経とその注釈群を指す。

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