丞相王文康公(王曙)

公、名は曙、字は晦叔、河南の人。進士及第。咸平年間(998-1003)、賢良方正科に及第。その後、枢密直学士として益州知事になった。朝廷にもどり、給事中になり、羣牧司を兼任した。宰相の寇萊公(寇準)が遠方に左遷されると、公はその婿のため、連座して郢州団練副使に左遷された。復帰後、襄州知事を経て河南府知事になった。仁宗の命をうけ、御史中丞として朝廷にもどり、理検使を兼任した。尚書工部侍郎として参知政事になった。病気を理由に重職を辞し、陝州知事になった。河陽と河南府の知事を歴任し、枢密使として朝廷に復帰、同中書門下平章事を拝した。翌月、薨じた。


王晦叔は益州知事になると、窃盗はその分量の多寡を問わず一律に処刑した。このため蜀中は震撼し、数ヶ月にして盗賊は近辺に逃れ、蜀の人々は門を閉じずともよくなった(1)

むかし張詠が益州知事のとき、春に時価の三分の一で官米を売り出し、貧民を救った。およそ十戸を一保とし、一家に罪を犯すものがおれば、同じ保に属す戸は連帯責任を問われ、官米の売り出しに参加できなかった。このため罪を犯すものは少なくなった。その後、異論を唱えるものがおり、張詠の法律は改められ、ために貧民は生きる術を求め、また盗賊に身をやつした。晦叔は朝廷に意見し、張詠の法を復活させた。

『名臣伝』より


王文康が蜀を治めた頃のはなし。法の運用が厳格で、苛酷に過ぎると批判するものがいた。たまたま〔蜀から〕劉燁(2)が召還され、右正言になった。真宗が尋ねるよう、「凌策と王曙、どちらが蜀をうまく治めていると思う?」劉燁、「凌策が蜀にいたときは豊作でした。ですから平易に治められたのです。しかし王曙は凶作に当たりました。ですから民が盗賊に身をやつすのを恐れ、法によって治めているのです。二人を取りかえても、結果は同じになりましょう」。真宗もこれに賛同した。

『名臣伝』より


王文康公と薛簡肅公(薛奎)の二人は、むかし蜀を治め、各々に治績があった。章献太后の時代、二人そろって執政になった(3)。ある日、政務を終えた後、二人して蜀のことを語り合った。

文康、「私が蜀にいたときは、兵士の謀叛を知らせるものがおれば、すぐに捕らえて軍門で斬り殺した。おかげで何事も起こらなかった」

簡肅、「私が蜀にいたときも、兵士の謀叛を知らせるものがおりましたが、叱って追い出しました。ですが何事も起こりませんでした」

『湘山野録』(4)より


玉清昭応宮が火事で焼けた(5)。守衛者全員がその責任を問われ、御史の獄につながれた。

王文康公が意見するには、「むかし魯の桓公と僖公の廟に火災があったとき、孔子は『桓公と僖公はすでに親族の関係が切れている。二公の廟は毀たねばならなかったのだ』と言いました(6)。〔漢の時代〕遼東の高廟と高園陵の便殿に火災がありました。これに対して董仲舒は『高廟は郡国にあってはならず、便殿の傍らに高園陵があってはならない。だから火災があったのだ』と言いました(7)。魏の崇華殿に火災があったとき、高堂隆は『天は高殿や宮室に訓戒を垂れたもうたのです。もはや修復してはなりません』と言いました。しかし文帝(8)は聴き入れず、ために翌年また災異がありました。(9)今時の玉清昭応宮の建設は、聖人の教えに沿うものでなく、この火災は天からの訓戒と申せましょう。願わくは、宮殿の地を取り除き、諸々の祭祀を罷め、天の御心に応えて頂きたい」

仁宗と太后はこの発言に心を動かされ、守衛の罪を軽くした。ほどなく宮殿の修築を中止せよと詔が天下に下った。

公は品行方正、しかも重厚簡略、まことに大臣然とした人物であった。その口癖は「臣下たるもの質素を旨とせねばならぬ。ところが昨今の風潮ときては、邸宅は不相応に大きく、衣服は奢侈に流れ、下男や妾ですら数限りない有様だ。もっと節約せねばならぬ」だった。高官にのぼってからも、私欲を厳しく抑え、家にあっては粗食で済ませ、まことに淡泊な生活を送った。


謝希深(謝絳)と欧陽永叔(欧陽修)が洛陽で勤務していた頃のはなし。二人して嵩山(10)に登ったその帰り道、夕暮れ、龍門の香山にたどり着いたところで、とうとう雪が降り出した。留守の銭文僖公(錢惟演)(11)は官妓を送って寄こし、こう労った。――「山道を行くのは大変でしょう。少しく龍門に留まり、雪を愛でられるがよい。洛陽の仕事は簡単ですから、慌てて帰らずともよろしいですよ」と。銭の諸公に対する厚遇ぶりはこのようだった。その後、銭が漢東に左遷されたときは(12)、諸公も見送りに出かけた。そして彭婆鎮(13)まで来たところで、銭は酒宴を開き、長短句を作り、妓女に歌わせたが、あまりの悲しさに涙をこぼした。諸公もみな目頭が熱くなった。

さて、代わって王文康公が留守になると、下役に対する扱いが厳格で、諸公はみな窮屈でしかたなかった。また王公は諸公に外遊が多いことを訝しみ、「君らに寇萊公ほどの才能があるのか?萊公ほどの人ですら、奢侈のため失脚し、貶地で命を落としたのだ。ましてや萊公に及びもしない人間ではどうだ」と批判した。希深以下の諸公はあえて口答えしなかったが、永叔だけは笏を取って立ち上がった。「私の見るところ、萊公の失態は酒杯のためではありますまい。老境にありながら、退くことを知らぬことにあったと思われます」と。このとき王公は既に年高く、永叔はこれを諷したのであった。この発言を受け入れ、ついに王公は永叔を朝廷に推薦した。それでも永叔は銭公を忘れられなかった。世間にこう噂するものがいる。――銭公が三度も諡を改められ、ついに美字を手に入れられたのは永叔の力だ(14)、と。

『邵氏聞見録』より



〔注〕
(1)盗賊が他地域に逃げたので、住民は家門を閉じずとも安心して生活できるようになったの意。
(2)王曙が益州知事のとき、劉燁は益州通判だった。
(3)真宗崩御後、後継者の仁宗はまだ幼少であるとして、真宗の妻・章献太后が垂簾執政を行った。王曙と薛奎がともに政府にいたのは、天聖7年~10年の間。
(4)現行本になし。薛奎の言行録(『五朝名臣言行録』巻5)では、出典を『東斎記事』とする。。
(5)玉清昭応宮は、天書にちなみ真宗が作らせた壮麗な宮殿。天聖7年(1029)、雷が落ちて焼失した。
(6)春秋経の哀公3年に「桓宮僖宮災」とあり、左氏伝に「孔子は陳にあって、この火災を聞いた。そこで、僖公と桓公の廟であろうか」とおっしゃった(孔子在陳、聞火。曰、其桓僖乎)」とある。これに対する杜預の注に、「桓公と僖公は哀公から見て親族関係が断たれているのに、二公の廟を毀たずに置いたため、天が譴責を加えたのであろう(言桓僖親盡而廟不毀、宜為天所災)」とある。王曙の発言はこれをふまえたもの。
(7)『漢書』五行志による。董仲舒は前漢の学者。災異に詳しかった。
(8)明帝の誤。
(9)高堂隆の発言は、『三国志』魏書、高堂隆伝による。ただし翌年の災異は何にもとづくか不詳。『三国志』魏書、明帝本紀、青龍4年(236)に金星の出現が記録されているが、崇華殿との関係は明記されていない。
(10)河南府(洛陽)にある山。下の龍門も同じ。
(11)晩年の一時期、河南府の判官を務めていた。
(12)錢惟演は章献太后と姻戚関係にあり、それを利用して宰相になろうとした。しかし官界の反感を買い、逆に姻戚関係を理由に政権から遠ざかるよう弾劾され、随州(京西南路)に遷された。漢東は郡の一つで崇信軍節度が置かれていた。
(13)河南府。龍門の南方にある。
(14)当初の諡は、批判の意を込めて「文墨」とされたが、遺族の反対にあい「思」と改められ、さらに章献太后の姻戚というので「文僖」と改められた。

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