参政魯肅簡公(魯宗道)

公、名は宗道、字は貫之、亳州譙の人。進士及第。濠州定遠県尉、秀州海塩県令、河陽通判を歴任した。天禧元年(1017)、右正言に抜擢された。仁宗が皇太子になると、諭徳を兼任した。仁宗の即位にともない、侍読を兼ねた。判吏部流内銓を経て、右諫議大夫・参知政事になった。在任七年にして薨じた(1)


仁宗が東宮のとき、魯肅簡公は諭徳だった(2)。公の邸宅は宋門の外にあり、俗にこれを浴堂巷といった。その近辺に仁和なる酒肆があり、京師でも名の知れた酒を売っていた。公はしばしば服を変えて出かけては(3)、そこで酒を飲んでいた。

ある日、真宗から急の呼び出しがあった。聞きたいことがあるというのだ。中使(4)が公の家を訪ねたとき、公はおらず、しばらくして仁和の酒屋から酒気を漂わせて帰ってきた。中使は急いで公のもとに駆け寄った。

中使、「陛下はきっと不信に思われますぞ。なんと理由をおつけなさいます?言っていただければ、私も口裏を合わせます」

公、「事実のままを答えるがよい」

中使、「それでは処罰されますぞ」

公、「酒を飲むのは、人なら当たり前。しかし君を欺くのは、臣子の大罪だ」

中使は感嘆して宮中にもどった。すると案の定、真宗は遅れた理由を尋ねたので、中使はありのままを告げた。

さて、真宗が公に聞いた。「なぜこそこそ酒屋に行ったのだ?」

公は謝罪して、「私の家は貧しく、盃や皿などがありません。ところが酒屋はなんでも揃っており、客が来れば持てなしてくれます。たまたま郷里から親しいものが尋ねてくれましたので、そのものと酒を飲んだ次第です。しかし私は服を変えておりましたので、市中に私を知るものはおりませんでした」

真宗は笑って、「卿は太子のつき人(5)だから、きっと御史に弾劾されるぞ」

しかしこれ以後、真宗は公に信頼を寄せるようになった。実直な人柄を見込み、将来の宰執候補にと考えたのだ。真宗は、その晩年、章献明肅太后のために、宰執として期待できる人々の名を挙げたが、公はその一人に入っていた。後、章献太后はそれらの人々をすべて任用した。

『帰田録』より


魯宗道は正言になると(6)、失政を見つけるたびに、弾劾文を上奏した。このため真宗は少しずつ疎ましく思いはじめた。ある日、魯宗道は真宗の面前で自分自身を弾劾した。「私は諫言を職務とする地位にあるが故に、諫言をして参りました。これは職務に忠実ならんがためです。しかるに陛下は諫言の数が多いからと厭うておいでです。諫言を納れるべき立場にありながら、その職務を果たさず、いたずらに虚名を抱いて俸禄を貪るようなこと、私には出来かねます。私はこのことあるを恥じております。願わくは私を罷免していただきたい」。真宗は魯宗道の忠勤を喜び、分かっているからと勇気づけ、送り出した。後日、真宗は魯宗道の言葉を思い出し、宮殿の壁に「魯直」とみずから筆した。

『聖宋掇遺』より


章献太后の執政時期、魯肅簡公には見識ある発言が多かった。太后が「唐の武后(7)はいかなるお人であろう」と尋ねるや、公は「唐の罪人です。あと少しで国を滅ぼすところでした」と答えた。このため太后は黙ってしまった。またあるとき、劉氏の七廟を立てるよう献言するものがおり(8)、太后が宰執に意見を求めたところ、誰も口を開かぬなか、公ひとり「駄目だ」と答えた。そして太后の前を退いてから同僚に語るよう、「もし劉氏の七廟を立てれば、世継の君をどうするつもりか」と。また仁宗と太后が慈孝寺に行幸したときのこと、太后は大安輦(9)を駆って帝の前に進もうとした。公、「婦人には三従の教えがあります。『家にいては父に従い、嫁いでは夫に従い、夫の亡きあとは子に従う』と」。このため太后は帝の後に車を移動させた。

恩蔭(10)として子弟に館閣読書(11)をもらう政府高官が多くいた。公、「館閣は天下の英才を養う場所。執政の子弟に恩沢を与える場所ではない。私の子は幼くして京官(12)をいただいたが、国の秩序を乱すような恩沢は決して求めなかった」。また枢密使の曹利用は、権勢を頼んで専横の振る舞いが多かった。このため公はしばしば帝の面前でこれを非難した。当時、権勢家や寵臣でも、公を憚らぬものはなく、「魚頭の参政」とあだなした。これは公の姓にちなむ(13)ほか、魚頭(14)のごとき剛直さを指して言ったものである。(15)


朝廷での魯肅簡公は、剛直な心で事に臨み、悪事に対して容赦なかった。政府にあること七年、不適切な恩沢の削減に務め、己のことで人事を左右することはなかった。公が亡くなると、太常礼院は「剛簡」なる謚(16)を出してきた。ところが美諡であることを知らぬものが、「謚を利用して公を譏っている」と批判したので(17)、「肅簡」に改められた。公と張文節公知白(張知白)は、章献明肅太后の垂簾の時代、ともに中書におり(18)、ともに清らかで正しく、当時あって名臣と呼ばれた。とりわけ魯公はおおらかであった。もし「剛簡」の謚であれば、よりその本質を備えたものとなったであろう。

『帰田録』より



〔注〕
(1)参知政事在職中に薨御した。
(2)仁宗が東宮に立てられたのは、天禧二年(1018)八月丁酉のこと。魯宗道の右諭徳兼任はその13日後の庚戌にあたる。
(3)政治家の身分を隠して酒屋に向かったの意。
(4)宮中からの使者。多くは宦官がなる。
(5)魯宗道は当時、東宮観である右諭徳を兼ねていた。
(6)正言は官名。魯宗道は左正言に命ぜられた。ここでの正言は、寄禄官ではなく、天禧元年(1017)の詔に応じて任命された特別な存在で、風紀粛正のため政治的弁論を許されていた。
(7)則天武后のこと。唐の高宗の皇后で、高宗の死後、帝位に登った。中国で唯一の女帝として知られる。
(8)劉氏は皇后の姓。宋の皇帝は七つの廟を造り、祖先を祭っていた。これにまねて、皇后も劉氏のために七つの廟を作ってはどうかと意見するものがいた。
(9)章献明肅太后が作らせた太后専用の車。
(10)政府高官などの子弟を官吏として抜擢する制度。
(11)館閣読書は、宮中の図書室で読書すること。エリートコースの一つに利用されていた。
(12)最下層に属する正式官員。
(13)魯宗道の魯が魚の字に似るによるか。
(14)不詳。後世、「魚頭」の二字で、剛毅にして融通のきかぬ人の意になった。
(15)本条は、『宋史』『東都事略』の魯宗道伝、および『続資治通鑑長編』天聖七年二月庚申条に類似の逸話が引かれている。
(16)王公および職事官三品以上に与えられる死後の称号の一つ。
(17)『逸周書』謚法解に「彊毅果敢曰剛。追補前過曰剛」とある。あるいは「前過を追補す」を拠り所に「剛」の字を批判したのであろうか。
(18)中書は宰相府のこと。魯宗道と張知白がともに中書にいたのは、天聖三年十二月から同六年二月までの間。

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