参政薛簡肅公(薛奎)

公、名は奎、字は宿芸、絳州正平の人。進士及第。隰州推官、莆田長水県知事を経て、興州知事に移った。召還されて殿中侍御史になった。陝西転運使になった。江淮制置発運使に移り、三司戸部副使に抜擢された。延州知事に移り、権知開封府、権御史中丞を歴任した。并州知事、秦州知事になった。枢密直学士を加えられ、益州知事になった。召還されて権三司使になり、ついに参知政事になった。職を辞し、判尚書都省になった。薨ず。年六十八。


薛簡肅公は進士に及第すると、馮魏公(馮拯)のもとへ挨拶に出向いた。その詩の首篇に「書を嚢に入れて空しくみずから負えり。早晩、明君に達さん」(1)なる文句があった。馮拯は目を止め、「はて、貴君の抱負は何であろうか」と。つづいて第三篇の「春の詩」に目を通すと、そこには「千林、喜びあるが如し。一気、自ずから私なし」(2)とあった。そこで馮魏公、「貴君の抱負がこれほどとは......」

『東斎記事』より


契丹の使者蕭従順が来朝した。当時、章献明肅太后が政務を執っていた。蕭従順は「中国から契丹に来たものは、我が太后に謁見を許されている」と主張し、太后への謁見を求めた。朝廷は対処に苦慮し、なかなか意見がまとまらなかった。公が道理でもって応酬したところ、蕭従順は要求を取り下げた。

欧陽公の墓誌(3)より


公は開封府知事のとき、厳格な態度で政治に臨んだ。そのため京師の民は、俚語でもって公をあざなし、「この人には逆らうな」と囁きあった。ところが蜀の知事として赴任したときには、恵みと愛しみの人として讃えられた。

例えば、偽蜀時代(4)の中書の印(5)を持つものがおり、夜中、錦嚢(6)に入れて西門に掲げるという事件があった。門番が報告に上がると、そこには万を数える蜀の人々が群がっていた。人々は不安に駆られ、不穏な発言を口にし、公の態度を見守った。ところが公は監督官に偽印を納めさせ、確認しようともしなかった。そのため民も騒動を止めた。また、我が子の不幸を訴える老婆がおり、その子もまた貧しき故だと訴え出すことがあった。公は己の給与から銭を取らせ、「これで養育せよ」と言った。このため老母と息子の間にまた愛情が甦った。また、若くして両親を失った資産家の三人娘がおり、その財産を奪おうとするものがいたたときのこと、公は娘たちの財産を三つに分け、それぞれ嫁がせてやった。

そもそも当時の蜀は揉め事の起こりやすい状況にあった。だから公は務めて安静を心掛け、蜀の習慣を従い、ゆったりと楽しく物事を処理した。しかしひとたび事に臨んでは、いかなる悪人の姦計をも見破った。こうしたことから、蜀の人々は公を愛しながらも、また同時に公を畏れた。そして張尚書詠(張詠)に比肩させつつ、愛しみの心は張尚書以上だと讃えあった。

そもそも開封府は天子のお膝元である。益州は蜀の中心都市である。いついかなるときでも、最も統治の難しいところである。しかるに公はそのいずれの地においても治績があった。寛容と厳粛、公はこの異なる政治手法を適切に用いたのだ。まことに政治の要諦を知るものと言えるだろう。

墓誌より


公が成都にいたころ、ある日、大東門の外で酒宴を催した。時に兵卒が城内で騒ぎを起こし、すぐに捕縛されるという事件があった。都監(7)が報告に訪れたところ、公は「その場で飯を食わせてやれ」と命令を出すのみだった(8)。人々はこれを神断と評した。もしこうしなければ、徒党は膨れあがり、短時間で収拾できなかったであろうし、また彼らの心を落ち着かせることもできなかったであろう。

『東斎記事』より


王文康公(王曙)と薛簡肅公の二人は、むかし蜀を治め、各々に治績があった。章献太后の時代、二人そろって執政になった(9)。ある日、政務を終えた後、二人して蜀のことを語り合った。

文康、「私が蜀にいたときは、兵士の謀叛を知らせるものがおれば、すぐに捕らえて軍門で斬り殺した。おかげで何事も起こらなかった」

簡肅、「私が蜀にいたときも、兵士の謀叛を知らせるものがおりましたが、叱って追い出しました。ですが何事も起こりませんでした」

『東斎記事』(10)より


公は参知政事を拝したので(11)、感謝の言葉を述べるべく、仁宗のもとを訪れた。仁宗、「先帝(真宗)はいつも貴方を宰執にと考えておられた。その意を汲んで、こうして用いることにしたのだ」。これを聞いて公はますます気持ちを奮い立たせた。公は剛毅にして厳格な性格で、妥協を好まず、政府に入ってからも、直立不動の精神で臨み、人に迎合しなかった。しかしあらゆることを規則正しく処理しようとしたので、どうしても意に満たぬことが多く、帰宅しては臥せり、憂い顔でため息をつき、食事もままならぬ有様だった。これを見た家人が「そう思い通りにはいきませんよ」と笑ったところ、公は「私は古代の人間(12)に及ばぬことを恥じ、また後世の謗りを畏れているのだ」と答えた。

墓誌より


明道二年(1033)、章献明肅太后は天子の礼服で太廟に向かおうとした(13)。しかし群臣は状況を見守り、あえて行動にでなかった。公はひとり抗議の声をあげた。「天子の礼服で祖宗の廟に赴かれて、どのような拝礼をなさるおつもりか?」太后は反論できず、他の礼服に改めざるを得なくなった。

太后が崩御したとき、仁宗は群臣を顧み、泣いて言った。「口をきけぬようになっても、太后は何度も衣を引張っておられた。なにかお望みがあったのではないかの?」公はすぐに「天子の礼服でございましょう。しかし、それを身にまとわれたなら、もはや先帝にあわせる顔はありますまい」。仁宗はこの言葉を重く受け止め、ついに皇后の服を着せて埋葬した。これ以後、仁宗はますます公の大用を考えるようになった。

墓誌より

〔異説〕

章献明肅太后は天子の礼服で太廟に向かおうとした。次々と抗議の意見が奉られ、宰執も強く反対したが、聞き入れられなかった。薛簡肅公は関右(14)の人だった。御簾の外から、通りのよい声で飾ることなく言い放った。「皇太后陛下は太廟に向かわれた際、男子の礼をなさるおつもりか?それとも女子の礼をなさるおつもりか?」これには太后も返答の仕様がなかった。その日の夕方、中止が伝えられた。

『続湘山野録』より


公は剛直な人柄で、妥協を許さず、必要とあらば諫言を憚らなかった。真宗の時代、しきりに大臣との宴会が開かれ、時に泥酔に及ぶものまで現れた。公が諫めて言うには、「大臣の身にありながら、しばしば酒に酔いしれ、威儀を失うようでは、朝廷を重うするものとは申せません」と。また公は人の素質をよく見抜き、范仲淹、龎籍、明鎬といった人々に対しては、選人(15)のときから将来の宰相候補として接していた。その後、たしかに公の予言どおりになった。(16)

〔異説〕

薛簡肅公が開封府知事のとき、明参政鎬(明鎬)(17)が府の曹官だった。簡肅は明鎬を厚遇し、将来の宰相候補と目していた。その後、秦州と益州の知事に移っても、明鎬を部下として呼び寄せ、別格の扱いをしていた。公に理由を問うものがいた。「なぜ将来の大用が分かるのです?」公、「彼の人となりは端正で重々しく、その発言は簡略でありながら道理を尽くしている。人というものは、簡略・重厚であれば、尊厳が生じるのだ。これが宰相と目されるものの人相なのだよ」。その後、公の予想どおり、明鎬は参知政事になった。

『帰田録』より



〔注〕
(1)「早く皇帝に自分の意見を聞いてもらいたい」の意。
(2)「万民の喜びこそ私の抱負、そこに一つの私心もない」の意。
(3)欧陽修の「資政殿学士尚書戸部侍郎簡肅薛公墓誌銘」(『欧陽文忠公文集』巻26)を指す。
(4)五代十国時代に蜀を治めていた国を指す。宋朝から見ると、勝手に蜀の地にあって権力を握っていた反逆国家なので、「偽りの国」という意味を込めて「偽蜀」とよぶ。
(5)宰相府の印のこと。
(6)錦の包み。機密の文書を入れるのに用いた。
(7)ここでは成都在住の軍監督者を指す。
(8)現行本『東斎記事』は、「公は『その場で斬り捨てよ』とのみ命令を出した」とある。
(9)真宗崩御後、後継者の仁宗はまだ幼少であるとして、真宗の妻・章献太后が垂簾執政を行った。王曙と薛奎がともに政府にいたのは、天聖7年~10年の間。
(10)本条は現行本『東斎記事』になし。王曙の言行録(『五朝名臣言行録』巻4)は、出典を『湘山野録』とする。
(11)天聖七年(1029)二月のこと。
(12)堯舜や湯武など聖人の時代を指す。儒学的観念において、古代は理想的な時代とされていた。
(13)皇帝ならぬ皇太后が、天子として歴代皇帝の廟に挨拶に向かおうとしたという意味で、礼に照らして許されぬ行為と考えられた。
(14)潼関(長安の東方の地)以西の地。ただし薛奎は絳州(河東)の人で、関右の出身ではない。なおここでの「右」は「西」のこと。
(15)科挙合格後、正式に登用される以前の身分。官僚見習い。
(16)『宋史』および『東都事略』の薛奎伝に類似の逸話が引かれている。
(17)明参政鎬は「参知政事の明鎬」の意。参政は参知政事の略。

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