参政蔡文忠公(蔡斉)

公、名は子思。蔡氏はもと洛陽の人。後、萊州に移住した。真宗の時代、進士科を首席で合格した。兗州通判、直集賢院になった。仁宗のはじめ、修起居注兼御史知雑事を経て翰林学士になった。河南府、密州と応天府の知事を歴任した(1)。召還されて御史中丞になり、また枢密使になった。枢密副使を経て、参知政事になった。潁州知事として地方に下り、薨じた。年五十二。


公は幼少より外舅(2)劉氏のもとで育てられ、そこで勉学に励み、郷試を首席で合格した。しかし郷里の史防を首席に推し、自身は次席に移った。大中祥符八年(1015)、真宗皇帝は省試の試験問題に賈誼の置器説(3)を出した。さて、公の答案に目を通したところ、「天下を安んず」の文字を発見した。感嘆して言うならく、「これこそ宰相の器だ」と。通例では、考査終了の後、必ず上位合格者数人を集め、その中から資質の優れた者を選び、首席を与えていた。しかし真宗に呼び出されたときの公ときては、姿形は凛々しく、対応もみな礼儀に適っていた。真宗もこれ以上の逸材はもはやおるまいと考え、すぐに首席を与えた。

欧公の行状(4)より

〔異説〕

真宗は文辞を愛する君主であった。そのため文辞の優劣で科挙の合否を決めていたが、さりとてそれのみでなく、礼儀作法や精神の強さ、あるいは答案の内容に道理があるか否かも重んじた。だからこそ、徐奭の〔答案である〕鋳鼎象物賦に「ただ〔鼎の〕足が下に正しくば、何ぞ公餗(5)の傾くことあらん。鉉(6)の上にあるは、実に王臣(7)の威重を取れり」とあったが故に、あるいは蔡斉の置器賦に「天下をしかと安逸にするは、その功や大とすべし」とあったが故に、両人を首席に選んだのである。

『帰田録』より


蔡文忠公は酒が大好きで、その量ときては常人をはるかに越えていた。さて公は科挙に及第し、済州通判になると、毎日のように濃い酒を呑み、しばしば泥酔に及んでいた。当時、文忠の母は既に齢高く、たいそうこれに心を痛めていた。ある日のこと、山東の賈存道先生が済州に立ち寄り、文忠の家で数日世話になった。先生は文忠の素質を愛しつつも、酒のため学問がおろそかになり、体をこわすことを惜しみ、一つ詩をひねって文忠に差し出した。曰く、「君上の恩は重く、ありがたくも首席を授けくだされた。慈母のお歳は既に高く、髪も白うおなりだ。君の寵愛と母君の恩徳、いずれの恩をも果たさぬうち、もし酒によって病をなさば、悔ゆるとも何ぞ追いつかん」と。文忠ははっと起き上がり、感謝の意を述べた。これ以後、親しい客でもなければ酒には応じず、身を終えるまで深酔いすることはなかった。(賈同、字は希徳、門人の私諡を存道先生という)

『澠水燕談録』(8)より


公が兗州通判のときのこと、当地の太守王臻は、厳酷な政治を布き、毛ほどの罪も見逃さぬといったありさまだった(9)。これに対して、公は無駄を切り詰め、取り締まりを寛容にした。このため冤罪沙汰がなくなった。翌年、濰州通判として同地に赴いたところ、民の密告にでくわした。――某氏は税印を偽造して暴利を貪っている、と言うのである。しかし不正は十年の長きにわたり行われており、共犯者が少なくなく、その数は数百にのぼるありさまだった。公はため息をつき、「民から利を奪い尽くせば、民に逃れるところはない。これは為政者の過ちだ」(10)と言って処罰を寛くした。このため死罪を免れたものは十数人、他は一切罪を免かれた。濰州の人が言うよう、「公は私たちに恩をかけてくだすった。私たちにやり直しの機会を与えてくだすったのだ」。これ以後、濰州の風俗はすこぶるよくなった。

行状より


真宗が崩御し、仁宗は喪に服すべく、政務から遠ざかった。時に丁晉公(丁謂)が権力を握っており、公を手懐けるべく、知制誥の地位をちらつかせた。しかし公はきっぱりと拒絶した。その後、丁晉公に靡かぬというので、寇萊公(寇準)と王文康公(王曙)が朝廷から追放された。公は帰るや、ため息をついて言った。「私は先帝の知遇を得て、この地位を忝なくした。それをどうして権臣の脅しに屈せよう。処罰など畏るるに足らぬ」。ほどなく晉公が失脚すると、晉公に靡いた人々は途方に暮れたが、公だけは少しも恥じるところがなかった。

行状より


章献太后が景徳寺を修造したさい、公に記念文の執筆を依頼した。宦官の羅崇勲が造営事業を受け持った。こっそり公に伝言するには、「すぐに文章を作っていただければ、参知政事が待っていますよ」。公はこれを聞くや、わざと執筆を遅らせた。羅崇勲がなんど催促しても、結局、差し出さなかった。羅崇勲はこれに怒り、太后に讒言した。

行状より


章献明肅皇太后が崩御した。〔その遺言に〕「楊太妃(11)を太后とし、垂簾を布き、皇帝とともに政務を執らせよ」とあった。重臣の間で意見がまとまり、楊太后を慶賀すべく百官に召集がかかった。公は「天子は聡明叡智にして、太后を奉ずること十余年、今ようやくみずから万機を治め、天下の心を慰めようとしておられる。それだのに太后が相継いで政務を執ってよいものか。ましてや古代より類例なきことだ」と批判し、強く参列を制止した。このため太妃は政務に関与せず、ただ宮中で太后と呼ばれるだけに止まった。

行状より


京師に荊王(12)を指さして飛語をなすものが現れた(13)。内侍省が三司の小役人を取り調べたところ、被疑者が数百人に及んだ。仁宗はこれを聞いて激怒し、事件を徹底して調査するよう公に命じた。しかし流言の出処は杳として知れず、仁宗の督促も日ごとに厳しさを増した。このため有司は狼狽の色を隠せず、京師は恐怖と疑惑に包まれた。公は「でたらめな噂はつまらぬ人間のしわざに他ならぬ。徹底して調査する必要もなければ、またこれによって荊王の不安を除くこともできぬ」と考え、一晩のうち三度も上奏に及んだ。これには仁宗も大いに心を動かされ、公の意見を認め、数人をむち打つに止めた。かくして人々はようやく安堵の心を取り戻した。

行状より


南海に住む蛮族(14)の長が族人を虐待した。このため八百余人の蛮族が宜州を訪れ、中国に帰属したいと訴えてきた。しかし朝廷はその帰属を認めず、蛮族を追い返すことになった。公は「蛮族が残酷な境遇を逃れて我が有徳の地に逃げ込み、命を長らえようとしている。彼らを荊湖の地(15)に移して休耕田を与え、自活させるべきだ。いま彼らの帰属を拒否すれば、もといた部族には戻るまい。山谷に逃げ込みでもすれば、あとあと大変なことになる」と考え、朝廷で反対意見を述べたが、認められなかった。数年後、案の定、蛮族が叛乱を起こした。

行状より


郭氏(16)が廃后された。京師の富豪陳氏の娘――見目麗しい女性だった――を後宮に入れ、皇后にしようとした。公はこれに反対し、午前八時から十時に至るまで、延々と抗弁を続けた。このため仁宗も心を動かされ、ついに陳氏を家に帰らせた。

黄河の大水で横壠(17)が決壊し、水流が北向きに変わった。河の流れを塞き止めよと発言するものがいた。公、「水は低きに流れるものである。そして黄河の北側は低地である。水の赴くところに従い、流れを導いてやれば、澶州や滑州に決壊の恐れがなくるばかりか、貝州や博州などの数州は河の南岸になる。これは国家において便利なことで、あとはただ堤防を作って魏(大名府)を守ればよいだけだ」。朝廷が公の意見を採用した結果、澶州と滑州に不安はなくなった。

契丹が幽州で祭天の儀礼を挙行し、国境周辺に兵を集めた。国境周辺は騒動に陥り、朝廷にも大軍を出して警備に当てよと主張するものが現れた。しかし公は状況を分析し、契丹は決して動かないと判断した。そしてその通り、何事も起こらなかった。

公は宰執の重責を担いながら、事に臨んで惑うことがなく、忌避するところもなかった。そればかりか慎み深く控えめで、己の功を誇ったことは一度もなかった。天下の人々は公を正人といって称賛し、在地の名賢は朝廷の重鎮として公に心を寄せた。

行状より


銭惟演の筆になる『枢密直学士題名記』(18)がある。銭は丁謂に迎合し、みだりに寇準の姓氏を除き、「反逆者の寇準は記さぬ」と嘯いた。公が仁宗に弁明して言うよう、「寇準は社稷の臣(19)にして、その忠義は天下に鳴り響いております。邪悪な一味の思うままにさせておいてよいでしょうか」。このため仁宗は文字を削り取らせた。(20)


公が死んだとき、もと部下の朱寀(21)が潁州に立ち寄った(22)。潁州の人々は朱寀を目にするや、その馬前で涙を流し、当地での公の施政を指さして、「これが公のなさったことです」と。公の恩愛に溢れた施政は、至る所このありさまだった。公は平素より喜んで人士を推薦した。推挙に預かった楊偕、郭勧、劉随、龎籍、段少連は、いずれも当時に名臣とよばれた人々である。

公は眉目秀麗なる紳士だった。また博学でありながら精微を極め、寛大でありながら重厚さを備えていた。口より出でた言葉は、終身の名言となった。

行状より


(23)は微卑のときから公の側におり、その振る舞いや発言を目にしてきたが、一つとして悪しきものはなかった。家の中では親に孝を尽くし、いつも親の容体に心を配っていた。また親族や兄弟に対しても、痛々しいばかりに愛情を注いでいた。さて、公は真宗に抜擢され、将来の宰相として属望されていた。真宗崩御のおり、公は悲しみのあまり数日ものあいだ、物を口にしなかった。家人が寝具を調べると、涙で濡れていたという。公は汝陰で病に倒れたとき、拓抜の僭称を聞き(24)、悲嘆に耽けるところがあった。そして弟に西方の対策を詳述し、朝廷に届けさせた。その忠孝の人となりは、天性のものであったのだ。

公は、親しき人に対して、死んだ後も生前と同じ気持ちで接し、身寄りを亡くしたものがおれば、婚姻の世話をしてやった。また学問を好み、最も名教のことを急務とした。孔子の末裔は文宣公を世襲し、曲阜を治めてきた。しかし乾興の時代(1022)に第四十九代の孔承祐が死ぬと、以後、十数年にわたりこの慣例が廃止された。公は承祐に母弟がいると知るや、そのものを跡継ぎにするよう抗議した。このため詔が下り、公の意見に従うことになった。

公の朝廷での振る舞いは、心を清らかに、節を高うし、功を求めなかった。御史台の職を二度拝したが、職務に忠実なこと厳正にして不動、百官は畏れをなした。権勢家に過ちがあれば、弾劾して隠すことなく、一度たりともその風下に立つことはなかった。政府に入ってからは(25)、広大な心で天下に至公を示し、賢者の抜擢を楽しみとし、天下をもって憂いとした。諂うものを見ては忌み嫌い、優れた発言を耳にすれば必ず感謝した。孜孜として道を論じ、我が君を堯舜(26)にまで高めることを念慮とした。大臣と居りては、和して同ぜず、規正しつつも悪言を放たず、親疎の別なく、品格ある度量を備えていた。朝廷は公の力により天下に重んぜられ、賞罰は公の力により公平だった。

范文正公の墓誌(27)



〔注〕
(1)欧陽修の行状によれば、河南府と応天府は知事ではなく留守として赴任した。
(2)妻の父。『宋史』本伝は外家とするが、蔡斉の母は張氏で、妻は劉氏である。したがってこの外舅は蔡斉後年の妻の実家という意味であろう。
(3)『漢書』巻48の賈誼伝に見える言葉。「夫れ天下は大器なり。今の人の器を置く、諸を安き処に置けば則ち安く、諸を危うき処に置けば則ち危うし」にもとづく。
(4)欧陽修の「尚書戸部侍郎贈兵部尚書蔡公行状」(『欧陽文忠公文集』巻38)を指す。
(5)鼎の中の食物。君主や貴族の食するものを指す。
(6)鉉は鼎の「みみづる」。
(7)大臣のこと。
(8)現行本『澠水燕談録』に本条なし。
(9)公金の不正流用を厳密に防いだという意味であろう。
(10)行状には「民から利を奪い尽くせば、民に逃れるところはない。『法出でて、姦生ず』というやつだ。これこそ為政者の過ちなのだ」とある。やや文意が通りにくく、公田連太郎氏は「利は恐らくは刑の誤ならん」と指摘される。しかしこの言葉は張方平の神道碑(推誠保徳守正功臣正奉大夫尚書戸部侍郎知潁州軍州事管内勧農使上柱国汝南郡開国公食邑二千戸食実封四百戸賜紫金魚袋贈兵部尚書諡文忠蔡公神道碑銘、『楽全集』巻37)にも見え、同じく「利」に作る。
(11)真宗の妃。『宋史』巻242(楊淑妃)に伝あり。
(12)太宗の息子、趙元儼のこと。『宋史』巻245に伝あり。
(13)『宋史』蔡斉伝によると、荊王を天下兵馬都元帥に任じたと飛語をなしたとある。天下兵馬都元帥は、宋の全軍権を握る将軍という意味であろう。後、南宋の初代皇帝高宗は、兄欽宗から天下兵馬大元帥に任ぜられた。
(14)南海は広東広州の郡名。南海の蛮族は、広州に住む異民族の意。
(15)荊湖は広東の北部にあり、嶺内の最南端にあたる。
(16)仁宗の最初の皇后。章献太后に気に入られたが、後に仁宗と対立し、廃后された。『宋史』巻242に伝あり。
(17)澶州にある防波堤。
(18)記念碑の一つで、歴代在任者の名が刻まれた。
(19)王朝のために働いた重臣の意。
(20)本条は欧陽修の行状に見えない。ただし『宋史』蔡斉伝、『東都事略』蔡斉伝、張方平の神道碑には明記されている。
(21)不詳。同時代の同名に春秋学を修めた者がいる。
(22)これだけでは分かり難いが、蔡斉は死ぬ間際に潁州の知事を務めていた。
(23)本墓誌銘の著者・范仲淹のこと。
(24)西夏の李元昊が宋に反旗を翻したことを指す。
(25)政府すなわち宰相府(中書省)に入ったことを指す。ここでは知政事のこと。
(26)中国古代の帝王。理想的な君主とされた。
(27)范仲淹の「戸部侍郎贈兵部尚書蔡公墓誌銘」(『范文正公集』巻12)を指す。

inserted by FC2 system