『宋史紀事本末』を読むための予備知識を書いておこうと思ったが、元来それほど学的蓄積のない身の上なので、『皇朝十朝綱要』を参考にして宋代史基本資料を列挙するに止めることにした。『皇朝十朝綱要』は宋代各朝の重要事項を編年形式で記したものであるが、特に各皇帝冒頭に置かれた巻には、皇帝の基本事項や宰執両轄給舎台諫が列挙され、宋代史の一覧表として便利である。
本ページには皇帝・年号・進士・誕節について、九朝分をまとめて記載する。その他、皇帝の皇后・皇子・皇女・宰執等については、各皇帝のページを参照されたい。
なににせよ、『宋史紀事本末』を読むのに、皇帝の名前を知らなければ話しにならない。宋代の皇帝の呼び名には廟号と帝諡がある。廟号は太宗・真宗のように「宗」のつく呼び名を指し、帝諡は以下に示した以上に長い「至仁應道神功聖德文武睿烈大明廣孝皇帝」(太宗)というような呼び名を指す。帝諡は呼びにくいので、通常、宋代の皇帝は廟号で呼ぶのを通例とする。以下、皇帝即位の順番、廟号、帝諡、続柄を記す。帝諡は複数回贈られるのを常とするが、下に挙げるのは最後に贈られたものである。各皇帝の帝諡については、各皇帝のページに別個記したので、そちらを参照されたい。
番号 | 廟号 | 帝諡 | 続柄 |
---|---|---|---|
1 | 太祖 | 啓運立極英武睿文神德聖功至明大孝 | ― |
2 | 太宗 | 至仁應道神功聖德文武睿烈大明廣孝 | 太祖の弟 |
3 | 真宗 | 應符稽古成功讓德文明武定章聖元孝 | 太宗の子 |
4 | 仁宗 | 體天法道極功全德神文聖武濬哲明孝 | 真宗の子 |
5 | 英宗 | 體乾應曆隆功盛德憲文肅武睿神宣孝 | 太宗の曾孫 |
6 | 神宗 | 體元顯道法古立憲帝德王功英文烈武欽仁聖孝 | 英宗の子 |
7 | 哲宗 | 憲元繼道世德揚功欽文睿武齊聖昭孝 | 神宗の子 |
8 | 徽宗 | 體神合道駿烈遜功聖文仁德憲慈顯孝 | 神宗の子、哲宗の弟 |
9 | 欽宗 | 恭文順德仁孝 | 徽宗の子 |
中国の明代以降や近代日本と異なり、宋代には一人で複数の年号をもつ皇帝が多い。年号は重大事件があるとなんどでも変更されたからである。『宋史紀事本末』は他の史書と同じく、宋の皇帝の年号を軸に時間を形成しているので、年号の順序が分らなければ、時間の前後が分らない。しかし同時に、年号にはその時代を反映した文字が選ばれるので、年号の時系列が分っておれば、無味乾燥な数次の羅列である西暦よりも、時代の雰囲気は理解しやすい。いずれにせよ年号を知っておかねば、『宋史紀事本末』を読むことはできない。
以下には各皇帝の年号とその期間を挙げる。北宋の皇帝は徽宗と欽宗を除き、没年と在位年限が同じである。なお年の途中で改元された場合は、改元日に月日(旧暦)を記した。また年数は通常の換算よりも多い場合がある。通常、年の途中で改元した場合、改元した年を一年に換算し、前の年号にその年の年数を加えない。しかし以下のものは改元した年数を両年号の年数に加えいる。
廟号 | 年号 | 年数 | 西暦 | 改元日 |
---|---|---|---|---|
太祖 | 建隆 | 4 | 960~963 | ― |
乾徳 | 6 | 963~968 | 建隆四年十一月十六日(甲子) | |
開宝 | 9 | 968~976 | 乾徳六年十一月二十四日(癸卯) | |
太宗 | 太平興国 | 9 | 976~984 | 開宝九年十二月二十二日(甲寅) |
雍煕 | 4 | 984~987 | 太平興国九年十一月十一日(丁巳) | |
端拱 | 2 | 988~989 | ― | |
淳化 | 5 | 990~994 | ― | |
至道 | 3 | 995~997 | ― | |
真宗 | 咸平 | 6 | 998~1003 | ― |
景徳 | 4 | 1004~1007 | ― | |
大中祥符 | 9 | 1008~1016 | ― | |
天禧 | 5 | 1017~1021 | ― | |
乾興 | 1 | 1022 | ― | |
仁宗 | 天聖 | 10 | 1023~1032 | ― |
明道 | 2 | 1032~1033 | 天聖十年十一月六日(甲戌) | |
景祐 | 5 | 1034~1038 | ― | |
宝元 | 3 | 1038~1040 | 景祐五年十一月十八日(庚戌) | |
康定 | 2 | 1040~1041 | 宝元三年二月二十一日(丙午) | |
慶暦 | 8 | 1041~1048 | 康定二年十一月二十日(丙寅) | |
皇祐 | 6 | 1049~1054 | ― | |
至和 | 3 | 1054~1056 | 皇祐六年三月十六日(庚辰) | |
嘉祐 | 8 | 1056~1063 | 至和三年九月十二日(辛卯) | |
英宗 | 治平 | 4 | 1064~1067 | ― |
神宗 | 煕寧 | 10 | 1068~1077 | ― |
元豊 | 8 | 1078~1085 | ― | |
哲宗 | 元祐 | 9 | 1086~1094 | ― |
紹聖 | 5 | 1094~1098 | 元祐九年四月十二日(癸丑) | |
元符 | 3 | 1098~1100 | 紹聖五年六月一日(戊寅) | |
徽宗 | 建中靖国 | 1 | 1101 | ― |
崇寧 | 5 | 1102~1106 | ― | |
大観 | 4 | 1107~1110 | ― | |
政和 | 8 | 1111~1118 | ― | |
重和 | 2 | 1118~1119 | 政和八年十一月一日(己酉) | |
宣和 | 7 | 1119~1125 | 重和二年二月四日(庚辰) | |
欽宗 | 靖康 | 2 | 1126~1127 | ― |
覚えておく必要はないが、科挙のあった年と、状元(殿試首席合格者)、省元(省試首席合格者)、合格者数を挙げておく。科挙合格者の記録は『皇朝十朝綱要』にも存在するが、以下のものは『文献通考』選挙考五に記載のものを利用した。
宋初の科挙首席合格者は榜首と記されるが、開宝六年に殿試が始まると、これ以後は殿試首席合格者の状元と省試首席合格者の省元が並記されるようになる。また崇寧五年に太学法が施行されると、太学上舎から試験を受けるようになる。ここでは上舎合格を魁とよび、殿試合格を今まで通り状元と呼ぶ。以下の表では、便宜上、榜首や魁を省元の項に一括した。
備考には『文献通考』記載の注記などを記した。簡単に説明しておくと、宋初の科挙は不定期実施で、太祖の初期はほぼ毎年施行されていた。しかし時間が経つにつれ、一二年ごとに一度行われるようになり、仁宗の嘉祐二年の科挙では間歳(隔年)一度の科挙となり、すぐ後の英宗の治平二年の科挙では三年に一度の実施となる。以後、三年に一度が規準となった。
真宗の大中祥符に少数合格者の科挙が実施されている。これは泰山封禅や汾陰祭祀(土地の神様を祀る儀式)にともなって、祭祀に関係ある土地のみで実施されたものである。その他、宋代では唐制を承けた科目選挙から、王安石の改革によって進士科一本になったり、同じ王安石のもとで明法科(新科明法)が生まれたりもしたが、煩瑣なのですべて注記は避けた。
皇帝 | 実施年 | 状元 | 省元 | 進士科 | 制科 | 諸科 | その他 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
太祖 | 建隆元年 | 楊礪 | 19人 | |||||
二年 | 張去華 | 11人 | ||||||
三年 | 馬適 | 15人 | ||||||
四年 | 蘇徳祥 | 8人 | ||||||
乾徳二年 | 李景陽 | 6人 | 2人 | |||||
三年 | 劉察 | 7人 | ||||||
四年 | 李肅 | 6人 | 2人 | |||||
五年 | 劉蒙叟 | 10人 | ||||||
六年 | 柴成務 | 11人 | ||||||
開宝二年 | 安徳裕 | 7人 | ||||||
三年 | 張拱 | 8人 | 賜十五挙未及第人司馬浦等一百六人本科出身 | |||||
四年 | 劉寅 | 10人 | ||||||
五年 | 安守亮 | 11人 | ||||||
六年 | 宋準 | 11人 | 96人 | 再試取十六人落下一人 殿試開始 |
||||
八年 | 王嗣宗 | 王式 | 31人 | 24人 | ||||
太宗 | 太平興国二年 | 呂蒙正 | 109人 | 207人 | ||||
三年 | 胡旦 | 74人 | 82人 | |||||
五年 | 蘇易簡 | 121人 | 534人 | |||||
八年 | 王世則 | 王禹偁 | 239人 | 285人 | ||||
雍煕二年 | 梁顥 | 陳充 | 258人 | 699人 | ||||
端拱元年 | 程宿 | 28人 | 110人 | 是年不臨軒 | ||||
二年 | 陳堯叟 | 同 | 186人 | 478人 | ||||
淳化三年 | 孫何 | 同 | 353人 | 774人 | ||||
真宗 | 咸平元年 | 孫僅 | 同 | 50人 | 150人 | |||
二年 | 孫曁 | 同 | 71人 | 180人 | ||||
三年 | 陳堯咨 | 李庶幾 | 409人 | 1129人 | ||||
五年 | 王曾 | 同 | 38人 | 180人 | ||||
景徳二年 | 李迪 | 劉滋 | 247人 | 570人 | ||||
大中祥符元年 | 姚曄 | 鄭向 | 207人 | 320人 | ||||
二年 | 梁固 | 31人 | 親試東封路 | |||||
四年 | 張師徳 | 31人 | 祀汾陰路 | |||||
五年 | 徐奭 | 126人 | 377人 | |||||
七年 | 張観 | 21人 | 亳州南京路 | |||||
八年 | 蔡斉 | 高餗 | 280人 | 65人 | ||||
天禧三年 | 王整 | 程戡 | 140人 | 154人 | ||||
仁宗 | 天聖二年 | 宋郊 | 呉感 | 200人 | 354人 | |||
五年 | 王堯臣 | 呉育 | 77人 | 894人 | ||||
八年 | 王拱辰 | 欧陽修 | 249人 | 2人 | 573人 | |||
景祐元年 | 張唐卿 | 黄庠 | 499人 | 3人 | 481人 | |||
宝元元年 | 呂湊 | 范鎮 | 311人 | 2人 | 617人 | |||
慶暦二年 | 楊寘 | 同 | 435人 | 1人 | ||||
六年 | 賈黯 | 裴煜 | 538人 | 1人 | 415人 | |||
皇祐元年 | 馮京 | 同 | 498人 | 1人 | 550人 | |||
五年 | 鄭獬 | 徐無党 | 520人 | 522人 | ||||
嘉祐二年 | 張衡 | 李実 | 388人 | 1人 | 389人 | 以後、間歳一科挙 | ||
四年 | 劉煇 | 劉摯 | 165人 | 3人 | 184人 | |||
六年 | 王俊民 | 江衍 | 183人 | 102人 | ||||
八年 | 許将 | 孔武仲 | 193人 | 11人 | ||||
英宗 | 治平二年 | 彭汝礪 | 同 | 200人 | 2人 | 18人 | 以後、三歳一科挙 | |
四年 | 許安世 | 同 | 250人 | 36人 | 神宗即位後 | |||
神宗 | 煕寧三年 | 葉祖洽 | 陸佃 | 295人 | 2人 | 472人 | ||
六年 | 余中 | 邵剛 | 400人 | 40人 | ||||
九年 | 徐鐸 | 張[山茲] | 422人 | 194人 | ||||
元豊二年 | 時彦 | 先浚明 | 348人 | |||||
五年 | 黄裳 | 劉概 | 445人 | 明経科3人 | ||||
八年 | 焦蹈 | 同 | 485人 | 諒闇不臨軒 | ||||
哲宗 | 元祐三年 | 李堂寧 | 章援 | 523人 | 1人 | |||
六年 | 馬涓 | 鄒起 | 519人 | 3人 | ||||
紹聖元年 | 畢漸 | 劉範 | 512人 | 3人 | 宏詞科8人 | |||
四年 | 何昌言 | 汪革 | 564人 | 宏詞科9人 | ||||
元符三年 | 李崟 | 同 | 561人 | 諒闇不臨軒 | ||||
徽宗 | 崇寧二年 | 霍端友 | 李階 | 538人 | ||||
五年 | 蔡薿 | 呉倜 | 671人 | 学校試開始 | ||||
大観三年 | 賈安宅 | 李彌遜 | 685人 | 宗室上舎42人 | ||||
政和二年 | 莫儔 | 師驥 | 713人 | |||||
五年 | 何㮚 | 傅崧 | 670人 | 宗室上舎17人 | ||||
八年 | 王嘉 | 何奎 | 783人 | |||||
宣和三年 | 何渙 | 宋斉愈 | 630人 | |||||
六年 | 沈晦 | 楊樁 | 805人 | 省試にもどす |
聖節とは皇帝の誕生日のこと。宋代ころになると、皇帝の誕生日を祝う風習が存在した。取り立てて書いておくほどではないが、分量も知れているので、ついでに『宋史』礼志をもとに以下に記しておく。月日は旧暦。
太祖 | 太宗 | 真宗 | 仁宗 | 英宗 | 神宗 | 哲宗 | 徽宗 | 欽宗 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
長春節 | 乾明節 壽寧節 |
承天節 | 乾元節 | 壽聖節 | 同天節 | 興龍節 | 天寧節 | 乾龍節 |
2月16日 | 10月7日 | 12月2日 | 4月14日 | 1月3日 | 4月10日 | 12月8日 | 10月10日 | 4月13日 |
© 2008-2009 Kiyomichi eto Inc.