陸淳『春秋微旨』三巻

○内府蔵本

唐の陸淳の撰。陳振孫の『書録解題』には「『唐書』芸文志には陸淳の『春秋集伝』二十巻とあるが、これは現存しない。また『微旨』一巻とあるが、これは未見である」とある。袁桷は淳の『春秋纂例』の後序を作ったが、そこには「杭州で『微旨』三巻を手に入れた。皇祐年間の汴京(開封)の刊本である」とある。恐らく本書は開封で印刷されたものであろう。それが南渡以後に刊本の流通がなくなり、桷が北宋の旧版を手に入れたことで、また世間に流通するようになったものと思われる。柳宗元は淳の墓表を作ったが、そこでは「『春秋微旨』二篇」と言っており、『唐書』芸文志も二巻としている。ところがこの本は三巻である。いつ分巻されたのか判然としない。しかし本書冒頭には淳の自序があるが、そこには全三巻であると明記されている。柳宗元の文集を校正したものが三篇を二篇と書き間違え、『唐書』を編纂したものがさらに柳宗元の文集を襲ったのであろうか。

本書はまず三伝の異同を列挙し、継いで啖助と趙匡の学説を参照し、その是非を判断している。自序には「正しい処方に反することでかえって正しい結末を導こうとしたこと、一見正しいようでも内心に姦悪を潜ませた行為、始めは正しくとも結末が邪悪となったもの、始めは間違っておりながら結局は正しくなったものなど、紛らわしいものについてはすべて細かく分析し、春秋経の主旨を明らかにした。だから〔経文の微細な旨を明らかにするという意味から〕微旨と名づけたのである」とある。本書は淳の自撰ではあるが、解釈ごとに逐一「私が師より聞いたところによると」と記している。これは学の由来を明らかにしたものである。

また自序には「三伝の旧説はすべて残したが、解釈の当否は朱と墨を用いて区別した」とある。いまの通行本は、朱書の文章を方匡(四角の形)で囲み、始点と終点を明示している(*1)。皇祐の旧版は木版を用いたために朱墨の色分けができず、『嘉祐本草』のやり方をまねて、陰文と陽文(*2)を用いて印刷したのだろう。さらに後世の人が〔皇祐の板本を〕再版したとき、まだ雙鈎(*3)の技法が難しいというので、ついに方匡で〔朱文を〕区別することにしたのだろう。これらは本書の大筋に関係するものではないので、この度の編集ではしばらくその方式に拠り、原本のあり方をここに付するに止める(*4)。

『四庫全書総目提要』巻二十六



(*1)現物未見につき不詳。恐らく本文を四角の中に包むか、〔 〕もしくは[ ]の中に入れたものと思われる。
(*2)陰文陽文:印刷文字を凸(陽文)にするか凹(陰文)にするかを指す。凸は白地に黒色の印字となるが、凹にすると黒地に白抜文字となる。
(*3)ここでは印刷上の文字処理の用法を指す。
(*4)『書録解題』『唐書』などの引用文は『経義考』所引と一致する。なお四庫提要の主張と反し、朱墨・括弧による区分は『四庫全書』所収の『春秋微旨』に一切存在しない。随ってどの部分を朱書であったか判別できない。これは古経解彙函本、経苑本でも同じである。

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