劉敞『春秋伝』十五巻

○内府蔵本

宋の劉敞の撰。敞の著書の中、『春秋権衡』と『意林』は宋代に刊本があったが、本書は家々に蔵されたまま抄本として流伝した(*1)。近年、通志堂が本書を『経解』に収めたおかげでようやく刊本が生れた。偽作を疑う人もいたが、本書の議論や体裁を見る限り、敞の他の著書とぴったり一致しており、とても後世の人間が贋作し得るものではない。

本書は三伝の事迹を節録したものだが、その取捨の判断は自己一身の考えによったものである。褒貶や義例は公羊伝と穀梁伝から採る場合が多い。例えば、荘公が郕国を圍んだ後、軍をもどしたことをもって仁義のこととし(*2)、公孫寧と儀行父をもって国家存続の功績があったとし(*3)、晉が先穀を殺したことをもって過失を忌んだとし(*4)、九月の郊祭をもって人を犠牲にしたとする(*5)具合である。そのため「趙鞅、晉陽に入り以て叛す」の一条(*6)などは、公羊と穀梁の二伝が「地を以て国を正した」とする間違いをそのまま襲っている。これらは固陋の譏りを免れないところである。

本書の経文は三伝を混用し、一伝を中心としたものではない。いつも経文と伝文を連ねて区別を設けず、頗る経伝間を混乱させている(*7)。また好んで三伝の字句を増減し、しかも改竄によって三伝の真意を違えたところが多い。例えば『左氏伝』には「惜しむらくは国境を越えれば罪を免れたものを」という一句(*8)がある。後世、孔子の言葉とは考えられぬと言われたところだが、敞はこれを「賊を討てば罪を免れたものを」と改めた揚げ句、「孔子が言った」と付け加えている。これなどは全くのでたらめである。黄伯思の『東観餘論』を見ると、「『尚書』の武成篇を考訂したのは敞からである」(*9)とある。ならば宋代に生まれた経文改竄の弊風は敞が先導だったのである。伝文を改めるに躊躇しないのも当然である。

しかしながら本書全体は春秋の主旨を得たところが多い。北宋以来、春秋学に新解釈を提示したのは孫復と敞からだが、復は啖助・趙匡の余波を受け、ほとんど三伝を用いなかった。しかし敞は三伝に全く従うことはなかったが、三伝を全く用いないわけでもなかった。だからその解釈ははるかに復より優れていたのである。

『四庫全書総目提要』巻二十六



(*1)南宋に刊本の存在が確認されている。
(*2)莊8年のこと。
(*3)宣11年のこと。
(*4)宣13年のこと。
(*5)成17年のこと。
(*6)定13年のこと。
(*7)劉敞の『春秋伝』は、公羊や穀梁のように経文と伝文を連ねている。そのため経文と伝文(解釈文)の切れ目が分かり難い。
(*8)宣2年左氏伝に見える。
(*9)『東観余論』巻下の跋古文書武成篇後条に見えるが、内容は提要と異なる。

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