劉敞『春秋伝説例』一巻

○永楽大典本

宋の劉敞の撰。敞の行状および墓誌によると、いずれも『春秋説例』二巻とする。しかし陳振孫の『書録解題』は一巻とする。流伝の際に集散分合され、あれこれ違う板本が生れたのだろう。『宋史』芸文志に至っては「敞の『説例』十一巻」などとするが、筆写のときに「十」の字を間違って加えたか、十一篇を十一巻と勘違いしたのだろう。

敞の『春秋伝』『権衡』『意林』の三書は『通志堂経解』に刊板がある。しかし『文権』と『説例』の二書はわずかに書名を残すのみで、書物そのものは全く残っていない。このたび『永楽大典』を調べたところ、なお『説例』を幾条か引用していた。そこで謹んで『永楽大典』の方々から寄せ集め、一巻の書物にまとめあげた。

『書録解題』には「『説例』は全四十九条」とあるが、このたび収集し得たのはわずか二十五条のみで、全体の半分を得られたにすぎない。しかもそれは断簡零句が多く、すべてが完全な佚文というわけではない。また公即位例と例使・来例・師行例・大夫奔例・殺大夫例・弗不例の七条こそ原文の標題を残すとはいえ、それ以外は『説例』本文はあっても標題は残っていない。今次の編修では、本文を精査し、現存諸条の流儀にならって本書の考訂を行った。また『春秋説例』と記録する書物が多い中、『永楽大典』だけは〔『春秋伝説例』と〕「伝」の字を加えている。本書の内容は春秋の事柄を比較して、その意味を論述したものであり、まさしく敞の『春秋伝』の褒貶の主旨を語ったものである。『永楽大典』の記載は宋代刊本の姿を残すものと言えるだろう。このたびの編修では『永楽大典』の書名に従うことにした。

敞の春秋学は新解釈の提示を好み、文体は公羊伝と穀梁伝を模倣することが多い。どの著書もみなそうなのだが、本編は特に簡潔古風である。ただ大夫帥師例の一条で、「魯に三軍があってはならぬ」といい、そのために『周礼』〔の関係部分〕を後学の附会によるものだと決めつけたところは、少しく偏見に渉るものである(*1)。また宣公十八年の経文の「帰父還自晉(帰父、晉より還る)」に対して、敞の『春秋伝』は左氏伝の経文に従って「至笙(笙に至る)」とするのに、本編では公羊伝と穀梁伝の経文に従って「至檉(檉に至る)」とする。これなどは全くの自己矛盾である(*2)。しかしそれ以外は概ね精確で、経文の主旨を明らかにしたものが多い。

それにしても宋元時代の経学者に本書を引用するものは誰もいない。宋代以後すでに稀覯本となっていたのだろう。本編は幸いにも概略がまだ残っているのだから、まことに春秋学者の宝とすべきものである。

『四庫全書総目提要』巻二十六



(*1)大夫帥師例に対する四庫官の判断は再考を要する。劉敞『春秋伝』には大夫帥師例に関係する伝文が二箇所存在する。これに『説例』の同例を含めて、劉敞の大夫帥師に対する研究成果を理解する必要がある。
(*2)笙も檉も同じ場所を指す地名。三伝によって経文の文字が異なる場合があり、本条もその一つに数えられる。劉敞は三伝の経文を混用するので、三伝所載の経文に異同がある場合は、そのどれかを固定して用いる必要がある。ところが劉敞は『春秋伝』では左氏伝の経文に従い、『説例』では公羊と穀梁に従った。経文の文字を詳細に読み解く春秋学者としては、極めて大きい錯誤と言える部分である。ただしこれは『春秋伝』と『説例』が同時に成立していた場合に言えることで、もし両者の完成度に差異があれば、おのずと用いる経文にも相違が生まれる可能性があり、錯誤とは断じられなくなる。

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