崔子方『春秋本例』二十巻

○内府蔵本

宋の崔子方の撰。本書の主旨はこうである。――春秋は聖人の記したものである。それは「年」を根本に掲げ、「四時」(四季)によって区別を設け、日月を例(規則)としたものである。そして日月の例はその根本にあたる。だから〔例の根本にあたる日月を中心に春秋をまとめるという意味で〕「本例」と名付けるのである、と。本書は全て十一門あるが、各門はすべて日月時に分けられ、さらにその中に著例と変例の区分がある。各経文はその各々に配属され、自然と秩序立つよう作られている。

公羊と穀梁の二伝は日月の例を中心に据えているが、そこには明らかに穿鑿滅裂の弊害がある。しかし経文の「公子益師、卒す」(*1)に対し、左氏伝は「公(隠公)が公子益師の小斂に参与しなかったので、経文に日を記さなかったのだ」とある。ならば日月を例とするのは、既に二伝が作られる以前からあったのだ。公羊と穀梁の二伝が作られたときは、聖人孔子の生きた時代からまだ遠く離れていなかった。だからきっと受け継がれたものがあったのだろう。しかし春秋の予奪筆削(*2)〔といった解釈方法〕は、その指し示すところ広大深厚である。日月の例はただその中の一つにすぎない。だから二家の所説(日月の例)は聖人の微旨に合致したところもあるが、これを推し広げて全経文を律するとなると、支離滅裂に陥り、すべてを整合的に処理しきれなくなる。どうしても処理しきれなくなると、あれこれ手を加えて変例が生まれるのである。これは日月の例が間違っているのではなく、すべてを日月の例で処理しようとしたのが間違いなのである。例えば、易には互体(*3)というものがあり、確かにこれは象を導く一つの方法である。だから繋辞伝には「物を雑(まじ)え徳を撰(えら)び、是と非とを辨ずれば、則ち其の中爻に非ざれば備わらず」(*4)とある。しかし一卦ごとに互体によって象を求めるというなら、強引につじつまを合わせて穿鑿に陥り、結局は整合的に解釈できなくなる。王弼は易に注を施して互体を一掃し、啖助・趙匡は春秋を説いて「例」を一掃してしまった。深く思うところあってそうしたのであろう(*5)。

子方のこの書に対して、陳振孫の『書録解題』は「本書の主張は三伝の是非を正すことにありながら、かえって〔公羊伝や穀梁伝の〕日月の例を根本としている。これは同じ轍を踏みながら、かえってそれを悟らぬものである」と言うが、頗る適切な論評である。しかし伝統ある学説に依拠しのは、墨守の嫌いがあるとはいえ、要するに放言高論を好み、恣ままに憶説を吐いて聖人の作られた春秋経を乱す人々よりは遙かに優れている。春秋家には古代より日月の例を重んずる一家が存在したのだから、いまただちに本書を捨て去るわけにはいかない。

『四庫全書総目提要』巻二十七



(*1)隠公元年の経文。
(*2)予奪筆削は春秋学の用語の一つ。魯国の歴史書に筆削を加えることや、春秋時代の人間や物事に対して加えられた褒貶を指す。
(*3)互体は、一卦を構成する六爻の中、中間の三つの爻を取って象を求めること。易学の解釈法の一つ。
(*4)『周易』繋辞下伝の言葉。
(*5)この部分は同じ総目提要によっても異同がある。ちなみに書前提要にはこうある。――「春秋の公羊と穀梁の二伝は日月の例を中心に据えているが、確かにそこには穿鑿滅裂の弊害がある。しかし二伝が作られたとき、聖人の生きた時代にまだ近く、代々授受するところがあった。その学説にはきっと伝授されるところがあったのだろう。啖助・趙匡・陸淳らが例を廃して経文を解釈するようになってから、漢晉以来の師説はすべて捨てられたが、こういうことからも憶説で経文を解釈する弊害を生むことになったのである。」

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