張大亨『春秋通訓』六巻

○永楽大典本

宋の張大亨の撰。本書の自序に「若くして趙郡の和仲先生に春秋を習った」とある。宋の蘇軾の年譜によると、軾のもとの字は和仲だったとある。また蘇洵の『族譜』には、「唐の宰相の蘇頲の末裔で、趙郡の出身である」とある。今に伝えられる軾の「題烟江疊嶂図詩」にも、石刻の末尾に「趙郡の蘇氏」の印がある。ならば「趙郡の和仲先生」は軾のことである。

蘇籀の『雙溪集』には、「大亨が春秋の義を軾に問うたところ、軾は書簡でこう答えた。――『春秋は学者の本務である。しかし春秋は非常に精緻に作られており、はっきり理解できる学者はほとんどいない。一定の規律でもって春秋を理解しようとするものも多いが、これでは法家の流儀と同じになってしまう。わずかな誤差にこだわってみても、それでは何のやくにも立つまい。ただ左丘明だけは春秋の用法を心得ていたが、聖人の微言については言い尽くそうとしなかった。学ぶものみずからがそれを見つけよと言うのだろう云々』」とある(*1)。これは大亨の自序とも合致する(*2)。大亨は蘇氏に薫陶を受けたのであろう。だからその議論や主旨も蘇氏に近いのである。

陳振孫の『書録解題』と『宋史』芸文志は本書を十六巻とする。また朱彝尊の『経義考』は「散佚した」とする。しかし本書は『永楽大典』に佚文が残っており、それによると十二公ごとに巻を分け、さらに隠公・荘公・襄公・昭公を上下巻に分けており、〔振孫らの記す〕十六巻の数と一致する。しかし各巻の分量は少ない。そこで煩雑を厭い、この度の編纂では六巻に作り直して閲覧の便に備えた。なお本文に欠落したところはない。

『四庫全書総目提要』巻二十七



(*1)蘇籀『欒城遺言』の公少年與坡公治春秋云々条に見える。
(*2)本書の後叙に蘇籀所引の言葉が見える。

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