葉夢得『春秋讞』二十二巻

○永楽大典本

宋の葉夢得の撰。本書は三伝の是非を論じたものであるが、全体として経文を信じて三伝を疑う態度を保持している。これは啖助や孫復の余波を承けたものである。本書は公羊伝と穀梁伝を多く論難しているが、左氏伝に対してすら、その最後に「韓と魏が裏切って智伯を滅ぼした」という言葉があるからといって、「智伯が滅びたとき左氏はまだ生きていたのだから、左氏は戦国の人間だ」と断定するように(原注。そもそも経に続経があるように、伝にも続伝がある。夢得はこれをよく考えなかったのだろう。これについては『左伝注疏』のところで詳しく論じておいた)、語気荒く三伝を排撃してる。

例えばこうである。――諸侯間の謁見は衰世のことである(*1)。宰孔が晉の献公に与えた助言や魯の穆姜の悔過の言葉はすべて牽強付会である(*2)。天の十二次を十二国に配当するのは間違いである(*3)。夾谷の会で孔子が斉の景公を阻止したというのは、後世の仮託によるものである(*4)。郈と費を取りつぶしたのは、孔子の本意ではなかった(*5)。諸侯の出国と入国には善い場合もあれば悪い場合もある(*6)。諸侯が卒したとき、日を書く場合と書かない場合があるが、その全てが褒貶に関わるわけではない(*7)。魯侯が帰国したとき、経文に「至」とある場合とない場合があるが、それらは凡例にこだわって理解してはならない(*8)等々。夢得は言葉巧みに三伝を論難し、得意気でもあるのだが、口の軽すぎる嫌いがある。経文の主旨に照らしても、合致するところもあれば乖離したところもあり、その全てが精確というわけではない。しかし自分の思い通りに文章を作り上げている。要するに文章を綴るのがうまいのである。

しかし昔から「春秋を用いて獄を決した」(*9)とは言っても、「決獄の法を用いて春秋を修めた」とは言わない。書名に〔決獄を意味する〕「讞」の字を用いるのは不穏当である。そもそも左氏・公羊・穀梁はみな前代の経師であり、その功績は典籍に残っている。それに対して罪を裁くかのような態度を取るのは、名実において最も不適切である。これこそ宋代の学者が前代の学者を軽視していた証拠であり、決してまねしてはならぬものである。

『宋史』芸文志は本書を三十巻としている。また夢得その人も「左氏は四百四十二条、公羊は三百四十条、穀梁は四百四十条」(*10)と言っている。しかしこのたび『永楽大典』所載の佚文を調べ、さらに程端学の『春秋三伝辨疑』を参照して通計したところ、左氏は九十条を欠き、公羊は六十五条を欠き、穀梁は八十四条を欠いていた。既に完本ではないようだが、概ね夢得の主張は出そろっておれば、ここに謹んで佚文を編成し、『左伝讞』十巻、『公羊讞』『穀梁讞』各々六巻としてまとめあげた。

『四庫全書総目提要』巻二十七



(*1)『左傳讞』巻3の文1公孫敖如斉条。
(*2)『左傳讞』巻3の僖9諸侯盟于葵丘条、及び同襄3葬我小君穆条。
(*3)『左傳讞』巻6の襄28春無冰条。
(*4)『左傳讞』巻9の定10夏公会斉侯于夾谷条。
(*5)『左傳讞』巻9の定12公圍成公至自圍成条。
(*6)『公羊傳讞』巻2の桓15鄭世子忽復帰于鄭条。その他多数。亡命諸侯について、経文に出入が記されるときがある。この是非を論じたもの。
(*7)『公羊傳讞』巻1の隠3葬宋繆公条。
(*8)諸処にあり。直接の典拠を断定できず。
(*9)決獄は裁判のことだが、現代の裁判とは異なるので、「獄」の文字を残しておく。
(*10)不詳。

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