高閌『春秋集注』四十巻

○永楽大典本

宋の高閌の撰。閌、字は抑崇、鄞県の人。紹興元年、上舍から進士を授かり、礼部侍郎などを歴任した。その生涯は『宋史』儒林伝に詳しい。本書は程子の『春秋伝』を根本に置いているが、それは程子の序文を冠していることからも明らかである。その内容は唐宋諸学者の学説を集め、それらを自己の見解に融合させたものであるが、依拠した学者の姓名を一々挙げていない(*1)。『宋史』には「秦檜は閌が張九成を推薦したことに疑いをもった。そのため筠州知事として地方に出ることになったが、任地に赴くことなく卒した」とある。しかし樓鑰の序文には「剛直な性格のために時の宰相と対立し、一たび排斥されると復帰することはなかった。家居すること累年、欲望のために心を乱すことなく、日課を定め、どんなときも改めなかった」とある。ならば閌は家居すること久しく、その晩年の精力は全て本書に注がれたのであろう。『宋史』はこれを詳しく記していないのである(*2)。

閌は程頤の『春秋伝』を宗旨とした。しかし、例えば程子は漢の薄昭が淮南王に与えた書簡中に「斉の桓公は弟を殺した」との言葉があることから(*3)、子糾を弟とし、斉の桓公を兄とした(*4)。閌は、これに対し、三伝および『史記』『漢書』の文章から、「子糾と小白はどちらも〔斉の〕襄公の弟であるが、糾は年長なのだから〔斉侯として〕即位すべきであった」(*5)とする。このように〔閌は頤に〕阿附迎合することなく、門戸の見にとらわれるところがない(*6)。他にも「衛人、晉を立つ」を解釈したところ、「夫人氏の喪、斉より至る」を解釈したところ、「済西の田を取る」を解釈したところなど、どれも深く聖人の微旨を体得したものである。また「向戌と劉に盟す(及向戍盟于劉)」を解釈しては、「そもそも〔魯国に〕来聘して盟を行ったならば、それは必ず〔魯の〕国内のことでなければならない。劉というは王畿の領地である。魯に来聘しておいて、遠く〔周の領地である〕劉で盟を行うものがあろうか。おそらく下の経文に『劉夏』というのがあるので、伝を作ったものが〔劉夏の夏を〕春夏の夏だと思ったのであろう。また文公四年の経文の『夏、婦姜を斉に逆う(夏、逆婦姜于斉)』とも構文が同じなので、間違って〔この経文に〕『于劉』の二字を書き加えたのだろう」といい(*7)、また「州蒲」を「州満」の誤植であるとするなど(*8)、どの発言も一説として備えるに十分である。

ただ隠公元年の「防に会す」の防は琅邪華県の東南にあり、十年の「防を取る」の防は高平昌邑県の西南にあり〔別の地名であり〕、また文公十二年の「諸及び鄆に城く」の鄆は城陽姑幕の南にあり、成公四年の「鄆に城く」は東郡廩邱県の東にあ〔り別の地名であ〕るのに、閌はすべて同じ地名だとしている。これらは少しく考証に不備があると言えるだろう(*9)。

原書は久しい以前に散佚したが、まだ佚文が『永楽大典』に散見する。そこで謹んで編集し、一書にまとめあげた(*10)。『永楽大典』にもともと欠落しているところは(*11)、各書に引用された閌の学説を集めて増補した。かくして再び首尾完具した書物に仕上げることができた。陳振孫の『書録解題』は本書を十四巻とするが(*12)、この度の編修では紙数の煩雑を慮って四十巻に分けた。なお『宋史』本伝は閌の著書を『春秋集解』とするが、『永楽大典』は『集注』と明示しており、『書録解題』とも合致する。ならばこれが宋代刊本の原題だと考えられる。そこでこのたびは〔『永楽大典』の書名に〕従うことにした。また本書の経文は左氏に従うことが多いとはいえ、まま公羊と穀梁のときもある。宋代の学者は三伝を兼ね用いるものが多く、漢代専門の学とは異なるのである(*13)。

『四庫全書総目提要』巻二十七



(*1)書前提要は「故其序直引伊川傳序、而無片語附益。其于唐宋諸家之説、亦多擇善而從、鎔以己意、不載各書之名、體例畧與胡安國『春秋傳』相似」とある。
(*2)書前提要は「故當時學者甚重之」とする。
(*3)『漢書』巻44(淮南厲王長伝)に見える。
(*4)程頤の子糾を弟とする考えは『河南程氏遺書』に散見するが、『漢書』淮南王長伝を直接の根拠とはしない。例えば「齊侯死、公子皆出、小白長而當立、子糾少亦欲立。管仲奉子糾奔魯、小白入齊既立、仲納子糾以抗小白。以少犯長、又所不當立、義已不順。既而小白殺子糾。管仲以所事言之則可死、以義言之則未可死。故春秋書『齊小白入於齊』、以國繋齊、明當立也。又書『公伐齊納糾』(原注:二傳無子字)、糾去子、明不當立也。至齊人取子糾殺之、此復繋子者、罪齊大夫既、盟而殺之也」(『遺書』巻2上、東見録、君實修資治通鑑云々条)とあるように、経文に「糾」とあるか「子糾」とあるかに依拠している。
(*5)荘9齊小白入于斉条。但し高閌は『史記』『荀子』に直接依拠したとは明言しない。随って(*6)の書前提要の方が正しい書き方である。
(*6)書前提要は「書中大旨、雖宗程傳、而亦間有異同者。如子糾、齊桓、長幼之次、三傳注疏、並以糾為兄、桓為弟、與『史記』『荀子』所載同。獨程子見漢薄昭與淮南王書有齊桓殺弟之文、遂謂糾為桓弟。不知當薄昭時、漢文于淮南為兄、其避兄言弟、特一時遷就之語、未可據依。閌則云:『子糾、小白皆襄公弟、糾於諸弟最長當立』。實足以正程傳之失」とする。
(*7)書前提要は「所見創闢而確鑿尤為、自來説春秋者所未及」とする。
(*8)書前提要は「又如以子般卒為善終、以州蒲為州滿之訛、考核精詳、亦非漫然立異者」とする。
(*9)書前提要は「然在宋代春秋詩家中、正大簡嚴、實可與張洽相匹、非孫復、崔子方輩所可幾及。故『欽定春秋傳節彙纂』採取最多」を加える。
(*10)書前提要は「特是有明以來、其書久佚、『彙纂』所録、祗就元以後諸書引用閌説者、隨條摘入、而海内究以未覩全書為憾。今幸直聖代右文、蒐羅秘籍、是書之散見『永樂大典』内者、復可薈萃成編、謹按次排比、是正訛舛」とする。
(*11)原文「其永樂大典原闕者」。四庫全書編纂当時の『永楽大典』の欠落部分という意味だと思われるが、『永楽大典』原本そのものに未引用の高閌の学説という意味にも取れる。いずれにせよ『永楽大典』は四庫全書編纂当時には僖公と襄公の後半が欠落していたので、その部分は他書(主として『欽定春秋伝説彙纂』)によって増補されている。
(*12)書前提要は「陳振孫『書録解題』、馬端臨『文獻通考』倶稱是書十四卷」とする。
(*13)原文「不盡如漢世專門之學也」。書前提要に「蓋唐宋諸儒解經、大都兼采三家、固未可以漢世專門之學律之也」とあるのに従う。

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