戴溪『春秋講義』四巻

○永楽大典本

宋の戴溪の撰。溪には『続呂氏家塾読詩記』があり、既に『四庫全書』に収録している(*1)。〔南宋の〕開禧年間、溪は資善堂説書から太子詹事になった。当時、景献太子(*2)は〔自己の学問のため、溪に命じて〕易・詩・書・春秋・論語・孟子・通鑑の論説を献上させた(*3)。本書はその中の春秋についての論説である。

本書には以下のような論説がある。例えば、斉の襄公が紀侯を脅迫して〔紀侯が〕国を去ったことについては(*4)、〔斉の襄公は〕復讐に託けて諸侯を欺いたと講釈する。秦と楚とが庸国を滅ぼしたことについては(*5)、〔秦と楚は遠く離れているのに、共同で庸国を討伐できたのは、〕巴国や蜀国が道を通したからであると講釈する。〔春秋の経文に〕しばしば「公、晉に如き、河に至りて乃ち復る」とあるのについては(*6)、晉人は季氏の君主追放の心を助長させたと講釈する。定公が〔正月朔日ではなく〕戊申の日に即位したことについては(*7)、季氏には定公の即位を阻もうとする心があったと講釈する。これらの解釈は、当時韓侘冑が北伐を起こして失敗し、再び〔金朝と〕和議を結んだことに触発されて言ったものである。だから内を固めて外に当たることや隣国と友好関係を築きつつも防備を怠らないことについて、最も心を砕いて講釈している。

また〔本書は君主の〕死亡記事について一切解釈を施していない。宋代は喪礼について特に忌避するところがあった。例えば「何居(何ぞや)」の「居」の字は『礼記』檀弓に見えるが(*8)、『礼部韻略』は〔典拠として檀弓を〕載せていない。他のことは推して測るべきであろう。溪が〔君主の死亡記事を〕講釈しないのは、当時の経筵のやり方を反映したものであろう。

本書は嘉定癸未の五月に溪の長子の桷が金陵学舎で印刷に付し、沈光が序文を書いた。宝慶丙戌に牛大年がまた泰州で印刷に付したが、その序文には「本書は君主に訴えるべく作られたもので、世の学者は見ることができなかった」とある。経学者や訓詁家の学説でなかったため、世間にあまり広がらなかったのだろう。陳氏の『書録解題』に本書を収録していないはきっとこのためである。

『宋史』芸文志は十巻とし、王瓚の『温州志』は三巻とし、朱彝尊の『経義考』は散佚したとする。現在本書は世上に全く流通していない。ただ『永楽大典』は本書を収め、なおも経文各条の下に佚文が散見される。このたび謹んでそれらを集めて校正を加えた。僖公十四年秋から三十三年までと襄公十六年三月から三十一年までは『永楽大典』に欠落があるので、『黄震日抄』の引用によって増補した。かくして『宋史』の記述に従って四巻にまとめなおし、さらに各巻を上下に分けた。溪の経文は左氏伝に従うことが多い。しかし敢えて公羊・穀梁に依る場合は、いずれも下方に案語を附した。

『四庫全書総目提要』巻二十七



(*1)『続呂氏家塾読詩記』の提要から戴溪の経歴を挙げておく。「溪、永嘉人。淳熙五年為別頭省試第一。歴官工部尚書・文華閣學士、卒贈端明殿學士、理宗紹定間賜諡文端。事蹟具『宋史』儒林傳。」
(*2)寧宗の皇太子。嘉定13年に29歳で薨じた。
(*3)『宋史』戴溪伝には「凡六轉為太子詹事、兼祕書監。景獻太子命溪講中庸、大學、溪辭以講讀非詹事職、懼侵官。太子曰:講退便服説書、非公禮毋嫌也。復命類易、詩、書、春秋、論語、孟子、資治通鑑、各為説以進。」とある。また『南宋館閣続録』巻9(同修国史)には「〔開禧〕元年五月以兵部侍郎兼、三年正月除太子詹事、四年四月為權工部尚書並兼」とある。ここからすると、戴溪が『春秋講義』を提出したのは、開禧三年正月以後ということになる。いずれにせよ開禧用兵の最中のことである。
(*4)荘4年の紀侯大去其国条。
(*5)文16年の楚人秦人巴人滅庸条。
(*6)昭公に頻発する条文。
(*7)定1年の条文。
(*8)檀弓の「何居」は喪礼の記事中に見える。

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