張洽『春秋集注』十一巻『綱領』一巻

○江西巡撫採進本

宋の張洽の撰。洽、字は元徳、〔臨江軍〕清江の人。嘉定年間に進士となり、著作佐郞になった。端平元年、洽が家で著作に励んでいることを知った朝廷は、臨江軍の守臣に命じて礼遇の意を示し、紙札を与えて書き写させ、著書を献上させた(*1)。かくして本書が上呈されると、洽に知宝章閣(*2)を授けた。たまたま洽が死んだので、文憲なる諡を授け、その書を秘閣に蔵した。

本書の冒頭には洽の進書状があり、みずから「漢唐以来の学者のあらゆる議論を調査研究し、それらの中で聖人の意を明らかにするに足るものは毎条の左に附し、これを『春秋集伝』と名付けた。既にほぼ『集伝』が完成したのにちなみ、先師文公の『論語』『孟子』の書にまね(*3)、諸学者の確論を集め、それらをまとめて『集注』を作った云々」と言っている。

朱子の『語録』によると、胡安国の「夏時を周月に冠した」なる学説(*4)を厳しく批判している。〔朱子の弟子である〕洽の本書も〔春秋に見える春王正月の〕春を建子の月(*5)としている。これは『左氏伝』の王周正月の所説と一致しており、〔胡安国らの〕支離滅裂な学説を破るに充分である。車若水の『脚気集』は、洽が〔胡安国の学説を〕改めて〔旧来のまま〕周正に従ったのは間違いだと厳しく批判するが(*6)、これは門戸の見であり、全く依拠するに足りない。しかし若水の発言(*7)――「春秋については当時のことが分からない。孔子が甦ることでもなければ、当時の事柄と褒貶や取捨の意味など分かりはしないのだ。〔張氏は〕『集注』を作り、そこで当時のことをあれこれ判断しているが、これに『論語』『孟子』のやり方をまねるのは無理である。『論語』『孟子』は道理を説いたものだが、春秋は事柄を記したものだからだ。例えば〔春秋の〕冒頭部分にも分からないところがある。〔隠公元年の経文に〕「恵公仲子」とあるが、これは「恵公の仲子」だろうか、それとも「恵公と仲子」だろうか(*8)。「尹氏卒」とあるが、これは一説に婦人だと言い、一説に天子の世卿だと言う(*9)。学者らは〔これを世卿だとみなし、〕世卿を譏ったのだと指摘する。それは確かに立派な意見である。しかし恐らくは郢書燕説の類で、道理としては正しくても、事柄としては間違いである云々」は、洽の欠点を適切に論評したものである。要するに本書の優れところを学べばよいのである。

明の洪武年間、本書は胡安国の『春秋伝』とともに学官に立てられた。しかし永楽年間に胡広らは汪克寛の『纂疏』を剽窃して『春秋大全』を作った。それは胡安国の『春秋伝』を中心としたもので、科挙の参考書に採用された。このため洽の本書は用いられなくなった。今は本書の遺本がわずかに伝わるのみで、その所謂『集伝』はなくなってしまった(*10)。

『四庫全書総目提要』巻二十七



(*1)この文句は張洽の状を参照して綴ったもの。
(*2)『宋史』本伝(道学伝)には「卒後一日、有旨除直寶章閣」とある。そもそも宋代に知宝章閣などという館職は存在しない。
(*3)朱熹の『論語集註』『孟子集註』を指す。朱熹は『論語精義』『孟子精義』を作って程門諸家の学説を集め、その確論を集めて論述を加え、『論語集註』『孟子集註』を作った。張洽はこれにまねて、諸家の学説を集めて『春秋集伝』を作り、それを圧縮して『春秋集注』を作ったのである。
(*4)夏時を以て周月に冠するの説とは、一般に夏時説と呼ばれるもの。夏時は旧暦の四時(四季)を指し、正月・二月・三月を春、四月・五月・六月を夏、七月・八月・九月を秋、十月・十一月・十二月を冬とする。周月は周代の暦の月のことで、夏代の暦の十二ヶ月から二ヶ月づれた十二ヶ月を指す。つまり夏暦の正月の二ヶ月前の十一月が周暦の正月となり、夏暦の二月は周暦の十二月、三月は一月......となる。胡安国の「夏時を以て周月に冠する」説は、四庫官によると、春秋は周暦の月に夏時をかぶせたものである、との説を意味する。ただし胡安国自身は必ずも四庫官の通りに考えていないところがある。夏時説は南宋から元朝にかけて春秋学界を二分した大問題であった。
(*5)春を建子の月云々は、春秋に書される春王正月の「春」は建子の月=周暦の正月(夏暦の正月の二ヶ月前)の上に冠したものという意味で、普通の春秋学説を採ったことを意味する。
(*6)『脚気集』程子春秋伝春王正月正月条を指すと思われる。四庫提要は『脚気集』提要でも「其論詩攻小序、論春秋主夏正、論禮記掊撃漢儒、皆堅持門戸之見」と指摘する。
(*7)『脚気集』張主一有春秋集註集伝条に見える。
(*8)恵公仲子は隠公元年の経文。左氏伝と公羊伝は「恵公と仲子」と訓むが、穀梁伝は「恵公の仲子」と訓む。宋代では穀梁伝の訓み方が主流になる。
(*9)尹氏卒は隠公元年の経文。公羊伝と穀梁伝は尹氏を天子の大夫とする。公羊伝には「尹氏とは何ぞや。天子の大夫なり。其の尹氏と称うは何ぞや。貶するなり。曷為れぞ貶す。世卿を譏るなり。世卿は禮に非ざればなり」とある。穀梁伝もほぼ同じである。左氏伝の経文は「尹氏卒」ではなく「君氏卒」で、左氏伝はこれに対して「声子なり」とする。声子は隠公の夫人で、隠公が正君の位に即かなかったため、夫人も正君の夫人として葬らなかったことにちなみ、経文は「君氏」と書したとする。
(*10)『春秋集伝』は一部現存しており、阮元の『四庫未収書提要』に提要がある。

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