洪咨夔『春秋説』三十巻

○永楽大典本

宋の洪咨夔の撰。咨夔、字は舜兪、於潜の人。端明殿学士になった。その生涯は『宋史』本伝に見える。本書には咨夔の自序があり、そこで「考功を罷めて家に帰り、門を閉ざして深く内省し、『春秋説』を作った」と言っている。本伝には「理宗の初め、咨夔は考功員外郞であったが、史彌遠に逆らったうえ、李全は必ずや国の禍になると批判し、李知孝と梁成大に弾劾された。そのため俸禄を削られ、家に引きこもること七年に及んだ」とある。本書はこの時に作られたものだろう。また本伝は「咨夔の著書に『両漢詔令擥抄』『春秋説』などがあった」というだけで巻数の記述がない。朱彝尊の『経義考』は、呉任臣の発言を引き、本書を三巻としている。しかし『永楽大典』には呉潜の書いた咨夔の行状が残っており(*1)、そこには『春秋説』は三十巻だったとある。本書は紙幅も多く、決して三巻にまとめられるものではない。潜は咨夔と同官で親しい間柄だったのだから、咨夔の草稿を見たのだろう。任臣の発言は後世の誤伝にすぎない。

本書は議論明白、事態の推移を見極め、事件の表裏を推論したもので、前人未踏の発言が多い。例えば「公子友、陳に如く」に対しては、季氏が魯で専権を握った発端を記したのだと言い(*2)、「晉侯、曹伯負芻を執う」に対しては、曹のために君を立てなかったのは、後日に負芻を帰国させようとの思惑からであると言い(*3)、「昌間に大蒐す」に対しては、季氏がその権威を民衆に見せつけ、魯国の民を脅かしたのだと言う(*4)。これらはどれも筆削の微意を得たものである。しかし慶父の出奔に対して、季友が故意に放免したのだと言い(*5)、「劉子・単子、王猛を以て王城に入る」に対して、主君を蔑ろにしたものだとする(*6)のは、大変な間違いである。しかし短所を棄てて長所を取ればよく、その優れた部分を没してはならない。

既に『両漢詔令』などは散佚し、本書も世上に流伝がない。ただ『永楽大典』にのみまだ佚文が残っている。そこで謹んでこれを集め、誤植を訂正し、三十巻に分けて原本の形にもどした。春秋の経文は三伝間に異同がある。既に咨夔の原本の経文は明らかにし得ないが、その所説から推測するならば、概ね左氏の経文を利用し、まま公羊と穀梁の経文を用いていたことが分かる。そこでこの度の編集では、経文の下に「案」の字を記して識語を附すことにした。また僖公十四年秋から三十三年、襄公十六年夏から三十一年までは、『永楽大典』の原本が失われている。また他者の経解にも全く本書の引用がなく、佚文を集めるすべがない。そこでしばらくこれを欠いたままにしておく。

『四庫全書総目提要』巻二十七



(*1)四庫官の見た洪咨夔の行状は現存しないようである。
(*2)荘25年冬公子友如陳条。
(*3)成15年晉侯執曹伯歸于京師条。
(*4)昭22年大蒐于昌間条。
(*5)閔2年公子慶父出奔莒条。
(*6)昭22年劉子單子以王猛居于皇秋劉子單子以王猛入于王城冬十月王子猛卒条。

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