陳則通『春秋提綱』十巻

○両江総督採進本

伝本には「鉄山先生陳則通の撰」とある。身分や郷里を記さず、その時代も書かれていない。則通なる人物の詳細は不明であるが、朱彝尊の『経義考』は劉荘孫の後ろ、王申子の前に配置している(*1)。ならば元の人ということになる。

本書は春秋の重大項目を概論したもので、征伐・朝聘・盟会・雑例の四項目に分けている。各項目の中、さらに事柄ごとに区別を加え、関係する事柄をあつめて例と名付けている。しかしそれは事柄の〔関係経文を〕時系列に順次配列し、その結末や正否の理由を考究したものである。例と名付けられてはいるが、実際には他の春秋学者の如く書法を例とみなしたものではない。そのため好き勝手な講説をしており、まったく史論の体裁に等しいものとなっている。経学家の中でも別の一派とみなすべきものである。

則通は本書の雑例門で、春秋は夏正を用いたと述べているが、これは胡安国の学説を墨守したものである。しかし安国は文公十四年の「星、孛して北斗に入る有り(星が北斗にかかった)」と昭公十七年の「星、大辰に孛する有り(星が大辰にかかった)」を解釈したとき、全く董仲舒と劉向の学説を襲ったのに対し、則通は災異例の中で漢代の学者の事応説(*2)の誤謬を批判している。ならば則通の見識は明らかに安国よりも上にある。

『四庫全書総目提要』巻二十八



(*1)『経義考』巻194の配列について言ったもの。
(*2)事応とは、人事が一対一の関係で自然界に影響を及ぼすという学説。つまり、ある人間が悪事を働くと、それに対応して天が災害を下す(悪い自然現象が起こる)という考えである。随って、天の下した災害には、必ずそれに対応する人事があることになる。

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