胡広等奉勅撰『春秋大全』七十巻

○内府蔵本

明の永楽年間に胡広らが勅を奉じて撰定した。そもそも宋の胡安国の『春秋伝』は高宗の時代に経筵で進講されたものだが、当時の科挙の出題は三伝を用いていた。これは『礼部韻略』の後ろに附された貢挙条例を見れば明らかである(*1)。『元史』選挙志によると、延祐年間に科挙の新制度が発布され、ようやく春秋に胡安国『春秋伝』を用いるよう定まった。汪克寛が『春秋胡伝附録纂疏』を作ったとき、安国を解釈の主軸に据えたのは、当時のやり方に従っただけである。

かくして広らは本書を編纂したが、実は克寛の『纂疏』に少し手を加えただけであった。朱彝尊の『経義考』には次の呉任臣の発言が引用されている。――「永楽の時代、勅を奉じて『春秋大全』を編纂したが、そのとき纂修官は四十二人いた。その凡例には『紀年は汪氏の『纂疏』に依拠し、地名は李氏の『会通』に依拠し、経文は胡氏のものを用い、その他の注釈の作法などは林氏に依拠した』とある。しかし実際には『纂疏』をそのまま剽窃しただけであった。勅を奉じて編纂したといいながら、実際には編纂などしていなかったのである。朝廷を欺くことはできよう、給与をかすめ取ることはできよう、賜物を奪うことはできよう。しかし天下後世を欺くことなどできはしないのだ。云云。」この発言は広らの不徳義を暴いたものと言えるだろう。

本書に採用された学説について見ても、胡氏を基準にその取捨を決めただけで、発言の是非については検討を加えていない。明朝二百余年の間、経文によって出題したとはいえ、実際は胡氏の『春秋伝』を経文解釈の基準としていたのである。元代の合題の制度(*2)は、まだしも経文の異同によって出題していた。しかし明代は胡氏『春秋伝』中の一字一句を轄裂し、これを引き合わせたものを合題としていた。春秋の大義が荒廃したのは、広らがその波を導いたのである。我が聖祖仁皇帝は『欽定春秋伝説彙纂』を著され、胡氏『春秋伝』の空論・非道・迂濶・失当の発言に対し、始めて一つ一つ駁正され、これを学宮に頒布された。また我が皇上は科挙に於いて合題を用いることを廃止され、学者らが妄りに偏った解釈を行うことを防がれた(*3)。かくして春秋の筆削や微旨はふたたび燦然と天下に輝くに至ったのである。

この広らの『大全』は本来捨て置くべき書物だが、王朝一代の科挙制度に関わることであるから、参考のため『四庫全書』に残さぬわけにもいかない。また人は荒れ果てた状態を目にすればこそ、害悪なき状態のありがたさが分かるものであり、迷路に足を踏み入れたればこそ、正しき道を歩むありがたさが分かるのである。本書を残し、学者に相互参照させることで、前代の学術のみすぼらしさ、それに対する聖朝の経学の輝かしさを知らせることにもなるであろう。

『四庫全書総目提要』巻二十八



(*1)貢挙条例は春秋の出題について三伝に説き及ぶのみで、胡伝に論及せぬことを指したものと解される。
(*2)合題は南宋後半から行われたようである。合題は「題を合す」の謂で、いくつかの経文を集め、その場合の意味を問う科挙の問題形式を指す。例えば、明の宣徳5年の春秋科第一道には「盟柯(荘十三)、同盟幽(荘十七)、盟長樗(襄三)、会蕭魚(襄十一)」が出題された(張朝瑞『皇明貢挙考』巻3)。これは「盟柯」「同盟幽」「盟長樗」「会蕭魚」の四つの題を合わせて一つの問題としたことを意味する。
(*3)合題は往々にして勝手な解釈を許すことになる。例えば上の(*2)の場合であれば、四つの題(経文)にはそれぞれ胡安国『春秋伝』に解釈がある。しかしこの四つが合わさった場合の意味は書かれていない。そのため受験生は四つを織り交ぜた解釈を自分で考えることになるが、ここに憶測や推論が横行し、自分勝手な解釈を綴る可能性をもたらすのである。

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