張洽『春秋集伝』十九巻

○『宛委別蔵』所収

宋の張洽の撰。洽には『春秋集注』および「綱領」(*1)があり、既に『四庫全書』に収録されている。洽は朱子の門人で、『宋史』道学伝に立伝された。

『四庫全書総目提要』を拝読すると、「『集注』の遺本がわずかに伝わるのみで、その所謂『集伝』はなくなってしまった」とある。本書は原二十六巻。元の延祐年間に李教授万敵が臨江路学で刊行し、洽の曾孫庭堅が校正したものである。巻首に宋の端平二年の繳省投進状が付されている。『経義考』には庭堅の後序があり、「副使の臧公は本路総府に通達し、『集伝』『沿革』(*2)の二書を学校で刊行させた。しかし『集伝』は完成したものの、乱丁が激しく、文字の誤植もあった。癸丑の歳、江南諸道の行御史台は各路に通達し、春秋の解釈に張主一の伝(*3)を用いさせた。延祐庚寅の歳、科挙復活の詔が下ったため、遠方の士大夫からも洽の書を求めるものが多く出てきた。そこで李広文が〔原刊本を〕補正して出版し、ようやく『集伝』は完全なものとなった」とある。惜しむべきは、この本は巻十八から巻二十までと巻二十三から巻二十六までの全七巻が欠落していることである。しかし全書の梗概を窺い知ることはまだ可能である。

例えば、魯公は王室に朝聘の礼を行わなかったと指摘し(*4)、衆仲が楽について論じたことの失当については、劉氏の説に依拠しなければならず(*5)、聖人が「初」を書したことについては、公羊伝と程氏の説を正当としなければならぬと指摘し(*6)、また文公はずから伯主に会礼を行わなかったために、晉の怒りを買ったと言い(*7)、諸侯は国境を越えて親迎(*8)してはならぬと言って、穀梁が親迎を常事とすることの間違いを正している(*9)。ここからもよく諸家の長所を集めて研究し、至当の解釈に落ち着けていることが分かる。もとより春秋を学ぶものが廃してはならぬものである。

『揅経室外集』巻二(四庫未収書提要)



(*1)『四庫全書』は二書とみなしたようだが、「綱領」は『集注』(通志堂本)冒頭に付されている。
(*2)『沿革』は『歴代群県地理沿革表』のことで張洽の研究書の一つ。散佚した。
(*3)張主一は張洽のこと。「伝」は経典の注釈書を指す一般的な言葉で、その意味であれば『集注』か『集伝』のどちらかを指すことになり、後々の趨勢からみて恐らく『集注』だと推測される。しかし『集伝』の「伝」という意味にとれないこともないので、その意味だと『集伝』を指すことになる。
(*4)隠公3年武氏子来求賻条の張洽の論述。
(*5)隠公5年考仲子之宮初献六羽条の張洽の論述。劉氏は劉敞のこと。
(*6)同上。程氏は程頤のこと。
(*7)文公16年季孫行父会斉于陽穀斉侯弗及盟条の張洽の論述。
(*8)親迎とは、諸侯みずから妃を迎えに他国へ出かけることを指す。宋代の学説では、妃を迎えるため、自分の国を大臣に任せ、国君みずから他国へ出かけるとは考えられず、随って親迎はあり得ない、とされる場合が多い。異説の多い部分である。
(*9)荘公24年公如斉逆女条の張洽の論述。『集伝』によると、穀梁伝と胡氏伝ともに親迎を認めているが、張洽はこの両者ともに批判を加えて親迎の非を主張している。

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