許翰『襄陵春秋集伝』

許翰は南北両宋の際に生きた政治家・学者で、主戦派の李綱とともに対金強硬路線をとった人物として知られている。南宋の主戦派、随って在野の学者には高い評価を受けた人物である。

許翰の春秋学説を別個論ずるものは少ないが、南宋から元朝にかけて、許氏の学説は頻繁にその引用を見る。管見の限り、許翰の学説はその原著から引かれたというよりは、呂祖謙の『集解』から抄されたようであるが、少なくとも師協の学説とは比べものにならないほど、許翰の学説に影響を受けたものはいたのである。しかし残念なことに許翰の『春秋集伝』は散佚し、既にそれがどのような書物であったのか、原著について知る術はない。

そこで次善の方法として許翰の学説を知る人物から原著の情報を得るとともに、佚文を蒐集してその経解の主旨を尋ねる必要が生まれる。幸いなことに許翰の著書はその友人・李綱が後序を遺しており、またその学説は比較的体系性があるので、少なくとも許翰の春秋学説の一端は説明できるだろう。

まず李綱の書襄陵春秋集伝後にはこうある。

...... 襄陵の許崧老は『春秋集伝』を作ったが、それは三家の説の中で聖人に悖らぬものを集めて春秋の各篇に付し、聖人の旨と思われぬ部分を削除し、さらに自得の意見――それは三伝の未だ発明し得なかったものだが――を付したものだった。私は本書を読み、廓然たること雲霧を払いのけて天日の清明を見るが如く、燦然たること沙石を淘汰して金玉の精粹を見るが如くであった。かくして後、三伝は確かに春秋に功績のあったこと、そして『集伝』もまた三伝に功績のあることを知った。まして許氏自得の意見に至っては、かの三家と同等の価値あるものである。本書が学者に与える功は決して小さいものではない。......(李綱『梁谿集』巻百六十三。日付は建炎己酉(1129)歲正月五日)

李綱によると、許翰の『集伝』は南北両宋に一般的であった研究方法、つまり三伝を批判的に読解し、まま自己の見解を付すというものだったようである。随って『集伝』の「伝」は三伝を指すことになる。ただ残念なことに、李綱の文章に許翰の具体的意見は記されていない。そこで次に許翰の佚文を集め、その傾向的なものを探る必要が生まれる。

許翰の春秋学説は南宋から元朝にかけて頻繁に目にするが、実際は呂祖謙の『春秋集解』所引許氏曰とほぼ重複する。随って、現在許翰の学説を集める場合、まずもって呂祖謙の『集解』から許氏学説を蒐集することから始めなければならない。ちなみに呂祖謙は南宋初期から中期にかけて生きた学者であり、対する許翰は南北両宋の境目に生きた政治家なので、呂祖謙の引用は原著からのものか、もしくは原著に相当近い書物からのものと推測され、信用を置いてよいであろう。

さて呂氏『集解』所引許氏曰を調べると一つの顕著な傾向を見つけることができる。例えば最初の引用文にはこうある。

春秋の書法。〔春秋の初期、〕外国の卿が軍を率いた場合は、経文に「人」と書く。外国の卿が軍を率いたにも関わらず、経文に〔「人」ではなく〕卿を書くようになるのは、晉の襄公からである。このことから、中世以降、外国の軍について、軍を率いたものが卿であるのに、経文に「人」と書いてある場合、それは聖人に貶されたと判断できるのである。(隠公二年夏五月莒人入向条)

天子に爵命を受けていない大夫は、経文に氏を書かない。春秋の初期はなおこのやり方に忠実であった。無駭・翬・俠・柔・溺そして宛〔という氏を書かれぬ大夫〕が隠桓荘の篇に見えるのがこれである。斉の桓公以後、列国は勝手に大夫の任命を行い、夷狄でもなければ族を書かぬものはなくなった。蓋しもはや周に命令を仰がなくなったのであろう。(同無駭帥師入極条)

隠桓の時代、全部で六たび経文に「遇」を書いている。まだ古代に近い時代だったからである。閔公以後、経文に「会」が書かれることはあっても、「遇」が書かれることはなくなった。誠実さがだんだん不足し、逆に上っ面だけが華美になっていったからである。(隠公四年夏公及宋公遇于清条)

南宋期の春秋学説を学んだものはすぐ気づくだろうが、これは後に陳傅良によって世変説として集約されるものである。陳傅良の『後伝』に許翰への言及がなく、『後伝』の序文を書いた樓鑰も世変の発見を陳傅良の独創の如く記す以上、あるいは許翰の学説はそれほど整備されたものではなく、まま後の世変説を思わせる発言があっただけで、それらを呂祖謙が拾い出して自己の『集解』に収めたとも考えられる。

許翰がどれほど周到に自己の学説を準備していたかは、既にその原著の失われた現在知る術もないが、しかし少なくとも世変説に類似する学説を提唱していたことは評価されてよいだろう。その意味で王褘の次の発言――恐らく王褘その人は呂氏『集解』から判断したのだろうが――は、許翰の学説を正しく理解しているといって差し支えない。

泰山孫氏(復)・□□□氏は専ら書法から褒貶を論じ、襄陵許氏(翰)と永嘉陳氏(傅良)は専ら書法から世変を論じた。(『青巌叢録』春秋正経条)

つまり許翰の春秋学説は、北宋以来の正統的研究方法である三伝折衷/三伝批判の上に成り立ち、そこに自己の新解釈=世変説を導入したものと言い得る。少なくとも、許翰の著書『襄陵春秋集解』はそのような学説を含むものであったとは言い得るだろう。

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