劉絢の春秋著作

程頤は易学と春秋学の完成に熱意を持っていたとされる。しかしその学的成果がまとめられたのは易学のみで、春秋学についてはごくわずか解釈を遺してこの世を去った。この未完の春秋学体系を完成させるべく、程頤の没後、さまざまな書物が現れる。その代表的なものが胡安国『春秋伝』、高閌『春秋集註』、李明復『春秋集義』である。しかしこれらはいずれも程頤から直に学的薫陶を受けた人々ではない。そこで改めて注目されるのが、早くから程頤の弟子として名を馳せていた劉絢の春秋学であり、何らかの形で程頤と接触を持っていた謝湜の春秋学である。

両者の中、謝湜の春秋学説は、原著こそ散佚したとはいえ、現在でも李明復『集義』にほぼ全文が収録されており、これを研究することは容易である。しかしもう一方の劉絢の春秋学説は、著書がはっきりしないこともあり、必ずしも容易にその全貌を窺い知ることができない。そこで以下には劉絢春秋学の著作にまつわる問題を考察し、劉絢春秋学に対する初歩的考察を行いたい。

まずは劉絢の春秋著作にどのようなものがあるかを知っておく必要がある。劉絢の春秋著作は通常以下の2つをあげる場合が多い。

『読書志』巻3

『劉質夫春秋』五巻

皇朝の劉絢質夫の撰。絢は二程の門に学んだ。伯淳はかつてこう言った。――「門人の中には機敏なものはいるが、それを持続できるものはなかなかいない。この人だけは全く心配するところがない。」正叔もこう言った。――「わが門に学ぶものは多いが、信じること篤く、得ること多く、行うこと果断で、守ること堅固なもので、質夫君のようなものはまれだ。」李参の序文が附されている。

『書録解題』巻3

『春秋伝』十二巻

劉絢質夫の撰。二程の門人。その師(二程)はしばしば褒め称えた。本書の解釈は簡明適切である。

ここに一つ不明の刊本が存在する。それは浙江にあるとされる『劉質夫先生春秋通義』十二巻(存巻三至巻十二)である。未見につきこの本の詳細は不明だが、目録にこの書物は確かに存在する。これは書名こそ『春秋通義』であるが、同名の『四庫全書』所収『春秋通義』1巻は明らかにこれと異なるものである(四庫提要を参照)。

本来はこの現存『春秋通義』を中心に論を進めるべきものだが、遺憾なことに同本は筆者未見のため、ここでは以下の手順をとって劉絢の著作の解明を進める。まず『春秋通義』を実見できないことから、手元にある史料から劉絢の著書と学説を可能な限り再現する必要がある。そのため(1)劉絢の春秋著作の種類、(2)佚文の蒐集、それによる(3)著作の動機・内容・性格の3段階を経る必要がある。

ちなみにこの作業は『春秋通義』の真贋を見定める試金石にもなり得る。仮に首尾よく『春秋通義』を実見できたとしても、そのまま『通義』を劉絢の著作と認めてよいか否かは別である。突如出現した書物には常に偽作の可能性がつきまとう。随ってまずは可能な限り劉絢の春秋著作の特徴と佚文を蒐集を行い、それを以て現存文献と比較する必要が生じるからである。

劉絢春秋著作の種類

管見の限り、劉絢の春秋著作を探索するに有益な史料は下の7種である。

Ⅰ)『読書志』の『劉質夫春秋』五巻
Ⅱ)『書録解題』の『春秋伝』十二巻
Ⅲ)『程氏外書』引用書目の『程氏学』十巻(うち五巻)
Ⅳ)劉絢墓誌銘の「平時有遺藁未就」(未完成)
Ⅴ)『外書』第12の「伊川没後方見之今世『伝』解至閔公者」(閔公まで)
Ⅵ)李明復『集義』諸家姓氏事略の「惟〔謝〕湜有全書、〔劉〕絢之書則『程氏雜説』及李參所録『程氏學』載焉、間亦有頤語也。(謝湜は程頤の弟子。『程氏雑説』『程氏学』)
Ⅶ)同上の『十三家春秋集解』

この中、Ⅳの墓誌銘(『伊洛淵源録』所収)は李籲(端伯)の手になる。李籲は劉絢と同じく程頤の門人で、また劉絢とも交友が深いばかりでなく、外兄弟であった。そして李籲の弟が『読書志』に見えた李参である。随って、李籲の手になる墓誌銘の記述は極めて信憑性が高い。

その墓誌銘にはこうある。

君自幼治春秋、其学祖于程氏、専以孔孟之言断経。将没之時、尚以類例質于大夫君。平時有遺藁未就。

ここから判断して、劉絢の春秋著作は未完成であるが、遺稿は残っていたと断じて間違いない。これはまたⅤの指摘とも合致する。

昔劉質夫作春秋伝、未成。毎有人問伊川、必対曰:「已令劉絢作之。自不須某費工夫也。」劉伝既成、来呈伊川、門人請観。伊川曰:「却須著某親作。」竟不以劉伝示人。伊川没後、方見之今世『伝』解至閔公者。(『外書』第十二。『全書』39-18a。祁寛所記尹和靖語)

尹和靖は尹焞のことで、程頤晩年の弟子である。劉絢は程頤初期の弟子であり、その死亡時に尹焞は程頤の門に入ったか否かの時期である。その意味から言って、上の尹焞の発言を盲信することはできない。特に劉絢の解釈を否定的に捉えたところは、同じく程頤の同門であり、また程門四先生の号を得た謝良佐の「其門人惟劉絢得先生旨意爲多」にも矛盾する。概して尹焞は程頤を美化し過ぎる傾向にあるため、劉絢の春秋学説の得失について少しく割り引いて考えておく必要があるだろう。

しかし劉絢の遺著についてはまた別である。著書はモノであって評価とはことなる。随って尹焞が劉絢の遺著を見たというのは嘘ではあるまい。その指摘によると、劉絢の春秋学説は「閔公」に止まっていたということになる。だいたい春秋の三分の一前後の分量である。

以上が劉絢没後の状況なのだが、ⅠとⅡの間を埋める史料はないだろうか。ここに最も参考になるのがⅢの『程氏学』である。そもそも『読書志』の「劉質夫『春秋』」という書名はかなり珍奇である。あるいは『読書志』の錯誤とも臆断しかねないものである。しかし恐らく『春秋』なる書名で正しいと推測される資料がある。

程頤の語録に『程氏外書』というものがある。これは程子の言葉の中、少しく疑問の残るものを朱熹が集めたものであるが、その際朱熹は自分の蒐集した史料の性格を目録に書き付けている。その蒐集書目の一つに『程氏学拾遺』なるものがあり、そこにこう指摘がある。

程氏學拾遺

李參録。參、端伯之弟、學於伊川先生。此書十巻、其巻五乃劉質夫『春秋解』、其五巻雜有端伯・質夫・入關諸篇。

朱熹の指摘によると、『程氏学』は李参の編集になり、全十巻。しかし半分の五巻は劉絢の春秋解が占め、残りの五巻が程氏の言葉(程子の語録の中、端伯・質夫・入関などの篇と類似のもの)だったという。『読書志』の『春秋』は全五巻、そして李参の序文付きであった。ならばそれは『程氏学』の五巻分を独立させたものか、半分を分離させたものと見なし得る。随って『読書志』の『春秋』とは、『程氏学』の「春秋」という意味だと推測される。さらに言えばⅠ とⅢは同一系統の板本ということにもなる。

既に触れたように、李参は李籲の弟であり、劉絢と極めて近い関係にある。広い意味での一族であり、また同門の兄弟子でもある。その李参が序文を付して刊行したものが『程氏学』就中『劉質夫春秋(解)』であったならば、この五巻本は劉絢春秋学説の最初期のものの1つであり、また最も信頼し得るものである。

しかし気になるのは『読書志』に『劉質夫春秋』の未完成について言及のないところである。書物の完備すると否とは一見して明らかなので、ここに何等発言が見られないのは疑問を遺す。そこで次にⅥとⅦの史料が頼りとなる。

Ⅵには程頤の説明して次のようにいう。

〔程〕頤、顥之弟。終西京國子監教授。諡正。頤傳春秋、雖無全書、然論春秋大法、則一序盡之矣。其他見於門人記録、有果為頤之言者、有得其意而非其言者。其徒謝湜、劉絢、最得其意、亦各為傳。惟湜有全書、絢之書則『程氏雜説』及李參所録『程氏學』載焉、間亦有頤語也。頤於春秋、發明大有功。至胡安國、遂廣其説、而春秋之義明矣。(『集義』巻首、諸家姓氏事略)

Ⅶも劉絢についてこう指摘する。

〔劉〕絢、字質夫、河南人。以通春秋召、為太學博士。有人問程頤春秋學、曰:「已令劉絢作傳。」絢傳成來呈頤曰:「却看頤親作據。」尹焞謂:「程傳竟不成書、劉傳亦不出。」然今世傳『程氏雜説』首卷所載皆絢傳、而李參所編『程氏學』自言:「併程子語録之。」今『十三家春秋集解』、皆目為程解誤矣。臣今亦不能別其孰為程、孰為劉。各按其書為標題、亦疑以傳疑焉。若其師友淵源之學、則昭若日星、無可疑也。若夫朱熹所定『程氏經説』、自有『春秋傳』二卷。胡安國毎援以為據、與今劉傳不同、是則為程傳。又何疑焉。(同上)

これによれば『程氏雑説』冒頭に劉絢の春秋伝が掲載され、さらに『程氏学』(劉質夫春秋)には程子の発言を併存させていたことが知られる。また『十三家春秋集解』所収劉絢学説は『程氏学』系統であろう。『十三家春秋集解』は何を指すのか不明であるが、呂祖謙『春秋集解』である可能性もある(*1)。

試みに李明復の『集義』から『程氏雑説』と『程氏学』を蒐集すると、『程氏学』は濃淡あるものの全書に散見するが、一方の『程氏雑説』は閔公で引用が止まっている。閔公というのは、既に見たⅤ尹焞の指摘に合致する。ならば『程氏雑説』所引の劉絢春秋学説は、尹焞の見た「閔公まで」の本と同系統のものと推測される。以上から次のことが明らかになる。

劉絢の春秋著作の系統には以下のものがある。

○程氏学系統‐『読書志』の『劉質夫春秋』五巻(Ⅰ)、『程氏学』五巻(全十巻)(Ⅲ・Ⅶ)、未完成遺稿(Ⅳ)、『十三家春秋集解』所収劉絢学説(Ⅶ)
○閔公系統‐閔公以前の未完成著作(Ⅴ)、『集義』所引『程氏雑説』(Ⅶ)
○十二巻本‐『書録解題』の『春秋伝』十二巻(Ⅱ)
○現行本‐『春秋通義』十二巻(存十巻)

この中、程氏学系統と閔公系統の関係は定かでないが、いずれも程門関係者から出たものである。しかし十二巻本は不明と言わざるを得ない。春秋学に於いて十二巻というのは意味があり、通常は十二公一巻の全巻完備の書物を指す。随って普通の意味からすれば、十二巻本は全巻完備の劉絢の学説とも推測できるのだが、果たしてその内実はどうであろうか。後述のごとく『程氏学』の佚文も一応は十二公満遍なく存在する。佚文にして然りとすれば、あるいはそこに程頤の学説を付加して分量を増やし、十二公一巻に編集しなおせば、『程氏学』系統のものも十二巻本にならないではない。しかしいずれにせよ推測の域を超えない。

佚文の蒐集

劉絢春秋著作の残存径路があるていど分かったところで、それを視野に収めつつ次に劉絢春秋学説の佚文を蒐集したい。劉絢の佚文は南宋から元朝にかけて広く散見するが、その中心となるのは既にみた李明復『春秋集義』(程氏学および程氏雑説)と呂祖謙『春秋集解』であり、他に胡安国『春秋伝』、張洽『集注』、家鉉翁『詳説』、戴溪『講義』、程端學『本義』、陳深『読春秋編』、兪皐『釋義大成』、呉澄『纂言』、李廉『會通』、鄭玉『闕疑』、汪克寛『纂疏』(『春秋大全』)がある。

この中、李明復『集義』は確実に『程氏学』を参照しており、最も信頼に足る書物である。また呂祖謙『集解』もその謹厳な引用形態から推測して、原本あるいはそれに近いものから引用したことは確実であり、『集義』に次いで信頼し得るものである。随って劉絢春秋学説の輯佚はこの二書を主とし、その他の佚文を従とし、つねに前者を判断の基準として用いる必要がある。


(☆本来はここに佚文一覧を掲げるべきなのだが、分量が多く、使う人もいないだろうから省略する)


佚文に含まれる学説の性格はしばらく置き、外形的な特徴をいくつか挙げておく。まず劉絢春秋学説の佚文には明らかに程頤の学説が混ざっている。これはもともと程頤と劉絢の学説は類似している上に、さらに両者の学説が混ざって出版されたために起こったことであろう。李明復の指摘からすれば、南宋以後の学界にあっても簡単に程頤と劉絢の学説を区分するのが難しかったのである。

次に引用間に多数の重複が見られることである。これは後行の書物が先行の書物から孫引きした可能性も充分考えらるが、同時に劉絢の学説として引用に足る部分は概ね諸学者の間で一致していたということでもある。しかし最も信頼し得る『春秋集義』『呂氏集解』に引用を見ず、かえって張洽『集注』や程端学『本義』にのみ見える学説があり、しかもそれは短文である場合が多い。これは劉絢の著作が何らかの形で南宋後半から元代まで現存しており、そのため張洽や程端学が他学者未引用の学説を引いたとも考えられるが、同時に引用姓氏の誤認も考えられ、利用には細心の注を払う必要がある。

次に『程氏雑説』と『程氏学』との関係であるが、両者ともに信頼し得る資料であるにも関わらず、重複部分があまりない。もともと『程氏雑説』は佚文が少なく、判断もそれだけ難しいが、『程氏学』との重複が少ないばかりか、他の文献との重複も少ない。それに対して『程氏学』は比較的多く佚文が残っており、また他の文献との重複も多い。このような状況から判断すると、『程氏学』は劉絢の春秋学説として一般に広く利用されたものであったのに対し、『程氏雑説』はかなり特殊な資料であった可能性もある。

以上が外形的な特徴である。本来はここに現行本との比較を行う必要が生じるが、遺憾なことに現行本未見につきそれは断念せざるを得ない。

著作の動機・内容・性格

最後に劉絢の研究動機、学説の一般的内容や性格を調べておきたい。劉絢がなにゆえに春秋を研究したのかは不明だが、その重要な要因の1つに師の程頤が関わることは否定できない。そもそも程頤は五経の注釈を志していたとされ、『周易』は自分が、他の経書は門人に各々注釈を任せていたとされる(尹焞『師説』)。劉絢はその中の一人として『春秋』を担当したらしい。既に引用したが、改めてもういちど確認しておくと、例えば次のような伝承が残っている。

昔劉質夫作春秋伝、未成。毎有人問伊川、必対曰:「已令劉絢作之。自不須某費工夫也。」劉伝既成、来呈伊川、門人請観。伊川曰:「却須著某親作。」竟不以劉伝示人。伊川没後、方見之今世『伝』解至閔公者。(『外書』第12。『全書』39-18a。祁寛所記尹和靖語)

実際どのようなことが師弟の間であったのかは分からない。尹焞は劉絢の著作が完成したと言うが、劉絢の遺著は決して完成したものではなかった。それに劉絢の死(1087)から程頤が死ぬとき(1107)まで、二十年の時間が流れている。ましてや死ぬまで学問に倦むことなく、研鑽を続けて自得すること多かった程頤のことである。劉絢没後の学問的進歩によって、結果的に程頤は劉絢の学説に不満を持ったとも考えられる。

しかし程頤が劉絢に春秋の注釈を任せていたのはほぼ確実であり、また劉絢も程頤の意を受けて研究を続けたのであろう。劉絢の学説が全く取るに足りないものであったとは考えられないことは、謝良佐の言葉について見た通りであり、また楊時にあっても劉絢の学説を程門の重要著作の一つに数えている(*2)。あるいはそれなりの共通性があったからこそ、李参は劉絢の学説に程頤の学説を混ぜて著書を刊行したのである。ならば一字一句に至るまでとは言わずとも、劉絢の春秋学説はある段階までの程頤の学説と接近したものであったことは認められる。

これは劉絢が程頤の弟子、しかも経書の注釈を任されるほどの弟子であったことを考えれば当然であるが、両者の類似は単にこのような形式的な部分のみならず、学説そのものにも現れている。一例に劉絢の学説として最も著名な部分を引いておきたい。荘公4年の紀侯大去其国についてである。

曰:「紀侯大去其國」、大名、責在紀也。非齊之罪也。齊侯陳侯鄭伯遇於垂、方謀伐之、紀侯遂去其國。齊師未加而已去。故非齊之罪也。(『遺書』巻17、179。張洽『集注』にも程氏曰として引かれる)

紀侯大去其國、自去也。大者、紀侯名也。生名之、著失也。按:元年齊師遷紀郱鄑郚、逼遷其邑、志固在於滅矣。然兵未始加乎其國、而紀遂不能守。故三年秋紀季以酅入於齊、至是而紀侯大去其國也。夫守天子之土、承先祖之祀、義莫重焉。雖天下無王、諸侯不道、借使齊以兵臨我、猶當率厲臣民、申固備禦、而爲之守、不幸而力不足者、則亦死之可也。惡有使弟以邑入齊、而已委國去之哉。先儒或擬以太王之事過矣。苟有太王之徳、民從之如歸市、則爲之可也。彼尚未能效死而勿去、何太王之足議哉。故曰紀侯大去其國、自去也。梁亡、自亡也。鄭棄其師、自棄也。齊人殱於遂、自殱也。四者皆自爲之也。(『程氏学』。呂祖謙『集解』も冒頭部分のみ引用する)

通常これは「紀侯、其の国を大去す」と訓む経文である。然るに程頤はこれを敢えて「紀侯大、其の国を去る」と訓んだ。「紀侯大去其国」の「大」を紀侯の名と解釈したのである。これは程頤にしてみれば合理的な解釈なのだが、春秋学上、極めて特殊な解釈に属する。もちろん劉絢もこの学説を踏襲し、「大」を「紀侯の名」としている。

念のため「大」がなぜ人名と見なし得るのかを説明しておくと、滅国の君主は生きながら名を書されるというのが春秋の書法だからである。通常、春秋経文は国君の名を書かない。あくまでも某侯、某伯、某子と爵を書き、死亡時のみ国公某と名を書くのである。しかるに生きながら名を書かれる場合がある。蔡侯献舞(蔡哀公。荘10年)がそれで、いわゆる滅国の君主である。国が滅ぼされたとき、君主はまだ死んでいないのに名が書かれるのである(*3)。

ならば紀侯は斉に国を滅ぼされたのだから、名を書かれるべきである。従来の学説では紀侯は賢君だったが、斉侯の暴虐の前にやむを得ず国を去った(紀は滅びた)ため、聖人はそれを惜しんで名を伏せ(経文に書かなかった)、「大去」の二字を加えたとされる。しかし程頤は一貫した書法を追求してか、「大去」を「大いに去る」ではなく、「大、去る」と訓んだのである。

書法の一貫性を求めすぎると自己矛盾に陥るというのが董仲舒以来の春秋学の不文律だが、北宋には書法(義例)の極端な一貫性を求める学者が登場する。程頤もその仲間の1人だったと言えるだろうし、逆にそう言えるのであれば、程頤の春秋学説、随って劉絢の春秋学説は極めて北宋的な学説であったとも言えるであろう。

もう一つ劉絢と程頤の関係で特徴的なものは、尊王思想を重視したことである。尊王説は孫復以来、宋代で最も一般的な思潮であるが、そのとらえ方には様々な態度があり得る。随って両者の尊王説の書き方を見ておくことは、両者の共通性を知る上でも重要である。そこで尊王説が最も端的に著われる始隠条に於ける程頤と劉絢の解釈を引いておきたい。

元年、隠公之始年。春、天時。正月、王正。書春王正月、示人君當上奉天時、下承王正。明此義、則知王與天同大、人道立矣。周正月、非春也。假天時以立義爾。平王之時、王道絶矣、春秋假周以正王法。隠不書即位、明大法於始也。諸侯之立、必由王命、隠公自立、故不書即位、不與其爲君也。……(程頤『春秋伝』)

元年者、始年也。春者、天時也。月者、王之所建也。書春王正月者、若曰上奉天時、下正王朔云爾。董仲舒所謂「道之大原出于天、求端于天」是也。堯之大政、所先者欽若昊天、茲可見已。王者所行、必本於天、以正天下、而下之奉王政、乃所以事天也。春秋、天子之事。故先書曰春王正月、然後是非褒貶。二百四十二年之事、皆天理也。(『集義』所引程氏学)

いくつかの相違はあるが、基本的に同系統の解釈の上にあることは明白であり、程頤と劉絢が学説のすりあわせをしていたことはほぼ間違いあるまい。仮に程頤が劉絢の学説に満足できなかったにせよ、尹焞の発言の如く、さも劉絢の解釈が程頤と相当乖離していたように捉えるのは間違いである。むしろ逆に、程頤が『春秋』の伝を任せるほどに、劉絢の春秋学説とその師程頤とは相当接近した学説を有していたと考えるべきであり、極めて細かい部分、随って自己の注釈の一字一句に至るまで責任を持てるほどの摺り合わせがまだ出来ていなかったものと理解される。もとより完全な納得を求めるならば、程頤本人が注釈を執筆するより外なかったであろうし、事実劉絢が死んだ後は程頤みずから執筆に乗り出すのである。


以上、長々と劉絢春秋学の著作にまつわる問題を見てきた。改めてそれをまとめると次のようになる。

劉絢の春秋著作は程頤の経学構想の一翼を担うもので、少なくとも劉絢生存時には両者の意見の交換はかなり進んでいたはずである。しかし劉絢が早世したためか、その著作は完成せず、またその遺稿も晩年の程頤を完全に納得せしめるものではなかった。しかし程頤の『春秋伝』が結局は未完に終わったため、劉絢の遺著は、程頤の弟子をはじめ、南宋以後の程頤の学説を求める学徒に利用されることになった。

その劉絢の遺著は大きく3つの系統に分かれて流伝した。第1は劉絢に極めて近い関係にあった李参の手になる『程氏学』所載のもの、第2は同じく程門周辺から出たと思われる『程氏雑説』所載の学説、第3は出所不明の12巻本系統のものである。この中、第1と第2は程頤の学説を混ぜたもの、即ち程頤と劉絢の合作のような形態として存在したものだった。この3系統の著作がどのような径路で流通したのか、正確に把握することは不可能であるが、少なくとも現在劉絢の学説として知られるものの大半は、第1の『程氏学』所収の学説である。現在第1と第2の佚文は李明復『春秋集義』および呂祖謙『春秋集解』に散見されるが、第3の12巻本系統については不明である。またこれ以外に『春秋通義』なる劉絢の著作が現存するとされるが、現存未確認につき詳細不明である。

如上の意味からすれば、劉絢の春秋学説には一定の歴史的価値があり、その佚文による学説研究も程頤の春秋学の解明の点からある程度貢献し得る存在である。ただし劉絢の存在を大きく捉えすぎるべきではない。そもそも劉絢の春秋学説がそれほどにみなを首肯せしめるものであったなら、胡安国や高閌が独断的に注釈を作るはずもなく、また劉絢の学説が早々に消息不明に陥ることもなかっただろう。そして南宋末期から元朝にかけて、胡安国の『春秋伝』が独断的力を得ることもなかったであろう。ならば劉絢の春秋学説は、程頤の春秋学説を補う一面を持ち、それ故に程頤の経学説を研究する一助となり得るものではあるが、広く春秋学全体の中で見るならば、さほど研究意義のないものである。有り体に言えば、あってもなくても差し支えないものである。



(*1)呂祖謙『春秋集解』所引姓氏を、三伝、陸淳、孫復、劉敞、孫覺、蘇轍、程頤、劉絢、許翰、胡安國、呂本中と数えるならば十三家になるが、陸淳を啖助・趙匡・陸淳、三伝を三伝注疏に解体するなら、十五家~二十一家となる。呂祖謙の『集解』である可能性もあるが、推測の域を超えない。
(*2)劉質夫受經於明道伊川之門、積有年矣。其論元年之義詳甚、某故未敢輕議。(『亀山集』巻20、答胡康侯書六)
(*3)衛侯燬滅邢(僖公25年)を貶文とみなす場合もあるが、これは後段の衛侯燬卒が上に誤写されたと解釈する場合もあり春秋学上の難解の1つになっている。これと同様の例は穀伯綏・鄧侯吾離(桓公7年)にも当てはまる。

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