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平蜀


(01)太祖の乾徳二年(964)十一月、王全斌に蜀を伐たせた。

蜀主の孟昶は、王になってからというもの、日夜奢侈に耽り、王昭遠・伊審微・韓保正・趙崇韜に政務を分担させ、軍政を統率させていた。昶の母の太后李氏は、もとは唐の荘宗の嬪御(妃の一人)であり、知祥に与えられたものだった。〔李氏は〕いつも昶に言いきかせていた。――「荘宗とお前の父が梁を滅ぼし、蜀を統一されたときは、功績あるものにしか兵権を与えられなかった。だから兵卒は従ったのだ。今、昭遠はおまえの世話係の保正は譜代の子、もともと軍事など知らぬ。一旦、危急のことがあれば、彼等に何ができるというのだ。」蜀主はいうことを聞かなかった。

宋が荊・湖を下すと、蜀の宰相の李昊は、蜀主に献言して言うには、「私の見るところ、宋氏の運気は漢や周と異なっております。天下を統一するのは、おそらく彼等でしょう。貢ぎ物を送っておくのが、蜀の地を守る良策と心得ます。」蜀の君主は遣いを出そうとしたが、昭遠は強く反対し、兵を率いて峡路の防備に充て、水軍を増設した。帝はこれを聞きつけ、遂に蜀伐の計画を練り、張暉を鳳州団練使とした。暉は蜀の虚実や難易を調べ尽して報告したので、帝は大満足だった。

このころ蜀の山南節度判官の張廷偉は、知枢密院事の王昭遠に、「公には功績があるわけでなく、故なくして枢密の要職に就かれた。自身で大功を立て、世の批判を防いではいかがです。并州(北漢のこと)と手を結び、兵を南に出させるのがよろしい。私は黄花・子午谷から兵を出して呼応しましょう。中原の表と裏から挟み撃ちにすれば、関右の地は保たれましょう」と言った。昭遠はその通りだと思い、蜀の君主に勧めた。かくして趙彦韜らを遣わし、間道から〔北漢に〕密書を持たせ、「北漢も江河を渡ってともに挙兵するように」、と〔伝えさせたのである〕。彦韜は汴都に到着すると、こっそり密書を〔帝に〕献上した。帝は「蜀討伐の口実ができたというものだ」と言って笑った。

帝は王全斌を西川行営都部署に命じ、劉光義と崔彦進を副官とし、王仁瞻・曹彬を都監とし、歩兵と騎兵六万を率い、二隊に分けて蜀伐に向かわせた。また〔将来降伏するであろう〕蜀主のために、邸宅を汴水のほとりに造らせたが、それは広さ五百余間もあり、そこに酒の肴や日用品を十分に用意させていた。帝は全斌に言いつけるには、「城や砦を落としたら、兵器と食糧だけを没収し、他の財物はすべて将兵に与えよ。私が欲しいのは土地だけだ。」全斌と彦進らは鳳州から進軍し、光義と彬らは帰州から進軍した。

蜀主は宋軍の出撃を聞くと、王昭遠を都統に、趙崇韜を都監に、韓保正を招討使に、李進をその副官に命じ、兵を出して防がせた。左僕射李昊は城外で餞別の酒宴を開いが、昭遠は酒に酔っぱらい、腕まくりをして、「今回のことは、ただ敵を打ち破るだけじゃすまないぞ。中原を取ることなど、掌を返すようなものだ」と言って、鉄の如意(平たい棒状のもの)を手に、軍事について指し示し、自分を諸葛亮になぞらえて見せた。


(02)十二月、王全斌らは万仞と燕子の砦を落とし、ついに興州を取った。つづけて石図など二十余りの砦を破り、食料四十万を獲得した。全斌軍の先鋒の史延徳は、保正や李進と三泉砦で戦うとこれを破り、保正と進を捕虜にし、食料三十万を獲得した。

宋軍は羅川に到着すると、蜀軍は川にそって陣を組んで待ち構えていた。崔彦進は張万友に橋を奪わせると、蜀軍は大漫天砦まで撤退した。彦進と万友と康延沢は、三方から攻撃したところ、蜀軍は精鋭を繰り出して応戦したが、大敗して全滅した。王昭遠らは再び兵を率いて宋軍を迎え撃ったが、三度戦い、三度とも敗退した。昭遠は桔柏江を渡ると、橋を焼き捨て、剣門まで退却した。


(03)劉光義と曹彬は蜀の夔州を破った。蜀の寧江節制使の高彦儔はここで死んだ。

これ以前、夔州では鎖を繋いで浮橋をつくり、上に三重の棚を設け、江水を夾んで石弓を配置していた。光義らが向かうにあたり、帝は地図を開いて鎖の要塞を指差すと、「我が軍はここまで進めば、船戦の勝利を求めず、まず歩兵と騎兵で陸上で戦かえ。敵勢がくじけたところを戦舟と共同で挟み撃ちすれば必ず取れる」と言っていた。宋軍は夔州――鎖の要害を隔てること三十里の地に到達すると、舟を捨てて歩兵を進め、まず浮橋を奪い、それから舟で上流に進んだ。

〔蜀の〕彦儔は監軍の武守謙に、「北軍(宋軍のこと)は遠方から舟で来ておれば、〔彼等の〕利とする戦いは速戦にあります。〔我らは〕城壁を堅固にして防ぐのが一番よいでしょう」と進言したが、守謙はこれに従わず、単独で麾下の軍を率い、光義の騎将の張廷翰と戦って敗走した。廷翰は勝利に乗じ、城壁を登った。彦儔も力戦したがかなわず、自身も十余の傷を負い、周りのものはみな逃げてしまった。彦儔は急ぎ官邸に戻ると、衣冠を整え、西北の方角を向いて再拝してから、火を投じて焼け死んだ。数日後、光義は彦儔の遺骨を灰の中から拾い、手厚く葬った。


(04)三年(965)春正月、王全斌は益光まで進撃し、降伏した兵卒を捕らえると、捕虜らはこう言った。――「益光江の東側の大山をいくつか越えたところに、来蘇と呼ばれる狭道があります。蜀では川の西側に柵を設け、対岸に渡れるようになっています。ここから剣門の南方二十里に抜け、青強まで進めば、官道と合流します。この道を行けば、剣門も恃むにたりません」と。そこで〔全斌は〕兵を分けて来蘇に向かわせ、浮橋を設けて川を渡らせた。蜀軍はこれを知ると、砦を捨てて逃げたため、遂に〔宋軍は〕青強まで進軍した。

王昭遠はこれを知ると、偏将に剣門を任せ、自分はみなと一緒に漢源坡に駐屯し、全斌を待ち受けることにした。ところがまだ漢源に到着しないうちに剣門が突破され、昭遠は恐怖の余り陣を乱してしまった。趙崇韜は陣を布いて出陣したが、昭遠は腰掛けに凭れたまま起きあがることができなかった。全斌は進撃して崇韜らを大いに破り、万余の首を斬った。昭遠は東川に走り逃げ、倉庫附近に隠れていたが、悲しみのあまり涙を流し、目が腫れ上がってしまった。不意に追討の騎兵がやって来て、崇韜と一緒に捕らえられた。


(05)劉光義と曹彬は蜀の万・施・開・忠の四州を攻略し、峡中の郡県を平定した。遂州知事の陳愈は城とともに降伏した。蜀伐の折り、諸将が軍を進めたところは、どこもかしこも殺戮が行われたが、曹彬だけはこれを禁止しており、〔彬の指揮した〕峡路方面の軍だけは少しの違犯者もいなかった。


(06)蜀の君主は、昭遠の敗北を聞いて懼れおののき、金品を出して兵を募り、太子の玄喆に率いさせ、李廷珪や張恵安らを副官とし、剣門に遣わして宋軍を防がせた。

玄喆はもとより軍事のことなど知らず、廷珪や恵安も臆病もので見識もなかった。玄喆は成都を離れるとき、姫妾や楽器・楽官など数十人を引き連れていき、日夜歓楽に耽り、軍務を顧みなかった。緜州に到着すると、すでに剣門を失ったことを聞き、東川まで逃げ帰ったが、通りすがりの住居や倉庫を焼き捨てていった。

蜀の君主は驚愕し、側近に方策を問うたところ、老将の石斌なるものが言うには、「宋の軍は遠征軍ですから、長く持ちこたえることはできません。兵を集めて守りを堅め、疲弊させるのがよろしいでしょう。」蜀主、「我等父子は、四十年もの間、美しい衣服や旨い食べ物で士卒を養ってきたのに、敵と戦って私のために東に向かって一矢も発することができない。今、防備を固めたとしても、誰が私のために命を投げ出すのだ。」

ほどなく全斌は魏城まで到達した。乙酉、蜀の君主は李昊に制書を書かせ、降伏を求めた。全斌はこれを承諾し、遂に〔成都〕城に入った。劉光義らも兵を率いて合流した。前蜀が亡んだときも、降伏文書は昊が書いた。そこで蜀人は、夜中に昊の門に書して曰く、「代々降表を書く李家」と。

宋軍が汴都を出発して降伏を受けるまで、全六十六日。四十五州百九十八県を手に入れた。帝は呂餘慶に成都府を治めさせた。

これ以前、全斌が蜀伐に出かけたとき、汴京は大雪だった。帝は羊毛を講武殿に敷き、紫貂裘帽(いずれも毛皮の帽子や衣服)を着て政務を執っていたが、不意に左右のものに言った。――「私はこんな姿でいてもまだ寒いのだ。西征の将兵は霜雪を冒して進んでいる。こんなことをしてはおれぬ。」すぐに裘帽を脱ぎ捨て、中使を遣わして全斌らに与え、諸将には「全員には与えきれなかった」と伝えさせた。全斌は拝して受け取ると、感激のあまり涙した。そのため進むところ功績を上げた。


(07)王全斌・崔彦進・王仁瞻らは、蜀にあって日夜酒宴を開き、軍務に励まず、麾下の兵卒が子女を暴行したり、財物を掠奪することを許していた。このため蜀の人々は苦しんだ。曹彬は軍を引き上げるよう何度も要請したが、全斌は聞き入れなかった。ほどなく蜀の兵を汴都に送るよう帝から命令があり、〔蜀の兵に〕衣服や金品を与えられたが、全斌らは勝手に賜予の数を減らし、将校による掠奪も許していた。蜀の兵は憤って叛乱を企てた。

三月、蜀の兵は〔成都を〕出発し、緜州まで到着すると、ついに叛乱を起こした。近辺の村々を掠奪し、十余万の人々を動員し、みずから興国軍と称した。蜀の文州刺史の全史雄を捕まえて将軍とした。全斌は朱光緒に交渉させたが、光緒は師雄の一族を皆殺しにし、その愛娘を掠奪した。師雄は怒り、帰順の心を棄て、叛乱軍とともに彭州を攻め、これを占拠すると、興蜀大王を自称した。かくして〔師雄は〕幕府を開き、州軍二十余人を択んで要害の地に配置した。蜀の人々は争ってこれに呼応した。

崔彦進と高彦暉は兵を分けて攻撃したが、師雄に敗れ、彦暉は戦死した。全斌はさらに張廷翰に攻撃させたが、劣勢に陥り、成都まで退いた。師雄の勢力は膨れあがり、兵を出して緜州と漢州の桟道を遮断し、川ぞいに砦を築き、成都を攻めるぞと声を挙げた。かくして卭・蜀・眉・雅・果・遂・渝・合・資・簡・昌・普・嘉・戎・栄・陵の十六州と成都の諸県はこぞって師雄に呼応し、全斌らは恐怖に陥った。

当時、成都城内には、まだ〔汴都に〕送られていない兵が二万七千もいた。全斌は彼らが〔師雄らの〕賊軍に内応するのを恐れ、将軍らと協議の末、両脇の囲まれた通路に誘い込んで皆殺しにした。


(08)六月、蜀の君主の昶は、一族と高官を引き連れて汴都に到着した。子弟とともに死に装束を身にまとい、帝に罪を請うた。帝は崇元殿に臨むと、礼を尽くして引見し、手厚く賜物を与えた。昶に検校大師兼中書令を授け、秦国公に封じた。子の玄喆を秦寧軍節度使とし、高官や一族には各々ふさわしい官を授けた。昶がしばらくして死ぬと、帝はそのために五日のあいだ政務を罷め、楚王に追封した。

昶の母の李氏は、もとは唐の荘宗の妾であった。汴都に到着すると、帝は輿に載せて宮中に運ばせた。

帝、「国母は御慈愛なされよ。くよくよ郷土を懐かしまれるな。後日、あなたを郷里にお返しいたしましょう。」

李氏、「私はもともと太原の人間です。并州の地で命を終えること、それが私の願いです。」

当時、帝は北征を考えていたので、李氏の言葉を聞いて痛く喜んだ。

昶が死んだとき、李氏は声を挙げて泣こうとせず、酒を地に播くと、「お前は社稷に死ぬことができず、今日まで生を貪ってきた。私が死ぬのを忍んでいたのは、お前が生きていたからだ。今もうお前は死んでしまった。私が生きている理由はない。」こう言うと、数日間、食を断って死んでしまった。帝はこれを知って哀しんだ。

あるとき、帝は昶が装身具や宝石を溺愛しているのを見て、それを叩き潰させ、こう言った。――「七宝で飾り立てて、どうやって食い物を蓄えられるのだ。こんなことで亡びないはずがなかろう。」


(09)十二月、帝は両川の兵が叛乱を起こしたのを聞き、客省使の丁徳裕に兵を与え、討伐に向かわせた。また康延沢を東川七州招安巡検使とした。

当時、全師雄は新繁の守りを固めていたが、劉光義と曹彬は進撃してこれを破った。師雄は郫県まで撤退したが、王全斌と王仁瞻が再びこれを攻め、師雄は灌口まで逃げた。

水陸転運使の曹翰は、仁瞻らと合流し、賊の呂翰を嘉州城で包囲した。翰は城を棄てて逃げた。この日の夕刻、賊は〔城近辺に〕もどってくると、賊徒を集めて州城を囲み、〔城の方で〕三回鼓が打たれたら攻撃を始めようと約束した。曹翰は間者を用いてこれを知ると、時計係に二回だけ鼓を打つよう言い聞かせた。このため賊徒は多く集まらず、明け方になると逃げ出した。〔翰は〕これを追撃して大いに破った。

全斌はまた師雄を灌口で破った。師雄は金堂に逃げ、そこで病死した。一味は銅山を占拠し、謝行本を主将としたが、延沢がこれを破った。徳裕らは各々兵を率いて帰順を促したので、賊徒は完全に平定された。西南の蛮族も多くが帰順を求めた。


(10)五年(967)春正月甲寅(二十五日)、王全斌らを譴責のため帰還させた。

帝は蜀の兵が叛乱を起こしたのを聞き、使者が戻ってくるごとに王全斌らの不法行為を報告させ、罪状を調べあげ、譴責のため帰還させた。しかし当初は〔蜀討伐の〕功績を上げたことでもあり、獄に下すのを免じ、中書省に罪状を問責させるだけに止めた。全斌らは金品を隠匿し投降者を殺戮した罪に伏した。かくして全斌を崇義節度使留後に、崔彦進を昭化節度留後に、王仁瞻を右衛大将軍に責授(降格処分の一つ)した。劉光義らは勤勉廉直であったので爵録を進めた。また呂餘慶を呼び戻して参知政事とした。

仁瞻らは他の将軍を批判し、自分の罪を免れようとして、「清廉厳禁、陛下の命に背かなかったのは、曹彬だけだ」と言った。彬は帰還したが、その袋の中には書籍と衣服しかなかった。加えて、よく兵卒を束ねたこともあり、彬には特別に褒美を与えた。彬は謝辞して、「他の将軍たちがみな罪を得ておりますのに、私だけがお褒めいただくわけにはまいりません。」帝、「君には優れた功績があるのに、それを誇ったりしない。懲罰と報償は国の常典、卑下せずともよい。」


(11)二月、沈義倫を枢密副使とした。

〔蜀伐が始まったとき、〕義倫は四川転運使となり、軍に従って蜀に入ったが、ひとり寺院に住みこみ、粗食ですませ、珍宝を献上するものがおれば追い返した。都に帰還しても、箱の中に書籍数巻があるだけだった。帝は曹彬に官吏の善否を問うてみたところ、彬は「私は軍旅を取り締るだけです。官吏の調査は私の職務ではありません」と応えたが、それでもと問いつめると、「義倫ならばよろしいでしょう」と言った。帝はこれを聞いて喜び、この任命があった。



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