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交州之変


(01)太祖の開宝六年(973)五月、交州の丁璉が入貢した。

梁の時代、交州の土豪の曲承美は中国の混乱に乗じて十二州を占拠した。南漢は兵を派遣して承美を捕らえ、交州節度使を置いた。乾徳のはじめ、節度使の呉昌文が死んだ。麾下の呉処玶は跡目を争ったが、讙州刺史の丁部領が処玶を打ち破って交州に君臨し、大勝王と名乗った。子の璉を節度使にすると、すぐに璉に位を譲った。南漢が亡びると、璉が入貢してきたので、璉に静海軍節度使を授けて交阯郡王に封じた。


(02)太宗の太平興国五年(980)秋七月、交州の丁璉とその父の部領が続けざまに死んだので、璉の弟の璿が権行軍府事になった。璿はまだ幼く、大将の黎桓は璿を別館に幽閉し、代理として人々を治めた。

当時、邕州知事は侯仁宝だったが、〔仁宝は〕趙普の妹の夫であった。盧多遜は普と仲が悪かったので、仁宝を邕州に追い出し、九年間も交替させなかった。仁宝はこのまま嶺外の地(広東周辺の土地)で死ぬのではと恐れ、「交州は乱れております。軍を出せば取れます。駅伝をついで京師に詣で、直接事態を説明しとうございます」と朝廷に訴えた。帝は喜び、駅伝にて仁宝を呼ぼうとした。多遜はすぐに、「交州の内乱は実に天が〔かの地の者どもを〕滅ぼそうとなされたものです。とはいえ、先に仁宝を呼び出せば、謀事は必ず洩れましょうし、敵方に備えを許すことになり、簡単にはまいりますまい。ひそかに仁宝に事態を調査させ、兵を長駆させた方がよろしい。さすれば事は万全に運びましょう。」帝は納得し、仁宝を交州水陸転運使とし、孫全興・張濬・崔亮・劉澄・賈湜・王僎を部署とし、兵を授けて討伐させた。全興・濬・亮は邕州から、澄・湜・僎は廉州から進軍した。〔黎〕桓はこれを知ると、すぐに使者を遣わして丁璿のために表書を奉り、位を嗣ぐべく許しを求めた。帝は許さなかった。


(03)六年(981)三月、交州進駐軍は賊軍を白藤江口で破り、戦艦二百を捕獲した。邕州知事の侯仁宝は兵を率いて前進したが、孫全興らは兵を花歩で留めた。黎桓は偽って降伏を申し出ると、仁宝を誘い出して殺した。折しも熱病がはやり、多くの軍卒が死んだため、転運使の許仲宣が〔撤退を〕進言した。軍を帰還させた。劉澄と賈湜を軍中に斬らせた。全興は獄に下した後、すぐに処刑した。


(04)八年(983)春、黎桓は権交州三使留後を自称し、使者を遣わして入貢し、丁璿の譲位の書簡を送り届けた。帝は桓に詔書を与えた。――「私は璿が統帥となり、汝が副官となることを望んでいた。しかし璿に将の才能がなく、愚かであった場合、それでも代々連綿と世襲してきたものだ。簡単に節度の権を除き、軍卒に降すというのは、道理として好からぬし、また安正なことでもない。〔その場合は、この詔書が届き次第〕璿の母子〔と一族を〕をすべて我が朝に送り届けよ。そうすれば制書を降し、汝に節度の権を授けよう。この二つの中から、汝は慎重に一つを選ぶがよい。」しかし桓は従わなかった。


(05)雍煕三年(986)、黎桓を静海軍節度使とした。

桓はまた表書を奉り、正式な節度使を求めた。朝廷は孫全興の敗北に懲りて派兵に気乗りがせず、許すことにした。丁氏はこれによって亡びた。


(06)四年(987)、桓を交阯郡王とした。


(07)真宗の景徳三年(1006)五月、交州の黎桓が死に、子の龍廷が兄の龍鉞を殺して独立した。広州知事の淩策らが「桓の子供らは跡目を争い、人心は離反しております。本国から兵を出して討伐されますように」と訴えた。しかし帝は「桓は日頃から朝貢を欠かさなかった」と言って、喪中の討伐を望まず、近辺の安撫使に訓戒させた。龍廷が入貢してきたので、至忠と名を授けた。


(08)大中祥符三年(1010)春、交州の大校(次位の将軍)の李公蘊は主君の至忠を殺し、みずから留後を名乗ると、使者を遣わして入貢した。帝は「黎桓は不義によって位を得、公蘊は信任を受けながら同じことを繰り返した。もっとも悪むべき連中だ。とはいえ蛮族のこと、責めるに当たるまい」といって、桓の故事を用い、公蘊を交阯郡王にした。


(09)交州は公蘊以後、代々入貢を絶やさなかった。しかしたびたび国境を侵していた。乾徳が王になったとき、ついに大挙して侵入してきた。神宗の煕寧八年(1075)のことである。

当時、朝廷では辺境の開拓を問題視していた。桂州知事の沈起は官僚を遣わして土着の地に入り、土民を組織した。また融州に強引に城塞を設け、数千の人を殺した。交阯の人々が訴え出たので、起を罷免し、知事の劉彝に交替させた。彝は任地に到着すると、広南駐屯の本国の兵を帰還させ、槍杖手(郷兵の一つ)を組織して当地を守らせた。あた将軍らの「安南は奪取できる」との言葉を間に受け、戈船(戈を取り付けた軍船)を作り、交阯の人々との交易をすべて差し止め、訴状も帝に届かないようにした。かくして交阯の人は三隊に分かれて〔宋を〕侵略することになったのである。一隊は広府から、一隊は欽州から、一隊は崑崙関から入り、つづけざまに欽州・廉州の二州を落とし、土民八千人を殺した。事変が報告されると、起を郢州安置に罰し、彝を除名処分とした。


(10)神宗の煕寧九年(1076)春正月、交阯の人々が邕州を包囲した。州知事の蘇緘は力を尽くして防いだが、援軍も到着せず、ついに城は陥落した。緘は賊の手にかかって死ぬのは人間として許されぬと言って、一族三十六人を殺して屍を墓穴に埋めた。そして自身も火をかけて死んだ。城中の人は緘の道義に感じ入り、賊に従うものは一人もなかった。そのため交阯の人々は城中の民をすべて殺した。全五万八千余人であった。事態が報告されると、緘に奉国節度使を贈り、忠勇と諡を与えた。


(11)二月、郭逵を安南招討使とした。

この時、〔宋が〕交阯軍の書簡を入手したところ、そこには「中国では青苗法や助役法を作っており、人民が苦しんでいる。今、兵を出すのは両国ともに救うためだ」と書いてあった。時の宰相は怒り、天章閣待制の趙离を招討使とし、兵を率いて討伐させようとした。离の方から、「逵は辺境に詳しい。逵を招討使とし、私を副官にして頂きたい」と言ってきたので、この命令が下ったのである。


(12)冬十二月、郭逵は交阯の兵を富良江で破った。

これ以前、逵は長沙に到達すると、すぐに兵を遣わして邕州と廉州を回復した。そしてみずから兵を指揮して西進し、富良江まで進んだ。蛮族が精兵を船に乗せて迎え撃ったので、官軍は河を渡れなかった。趙离は将兵らに木を切って攻城用の武器を作らせると、雨のように石を降らせた。かくして交阯の軍船は壊滅した。さらに伏兵を設けて攻撃し、数千の首を斬り、偽太子の洪真を殺した。李乾徳は懼れをなし、使者を遣わして表書を送り届け、軍門に赴いて帰順した。

当時、官軍八万人は熱気を冒して瘴気(熱病を発する毒気)の大地を進み、半数が死んだ。富良江から〔交阯の〕本国まで遠くはなかったが、逵は敢えて河を渉らず、広源州・門州・思浪州・蘇茂州・桄榔県を奪うと帰還した。

〔勝利の報告に、朝廷では〕群臣が慶賀を表した。詔書を下し、広源州を順州とし、乾徳の罪を赦した。沈起と劉彝については、紛争を招いた罪に問い、隋州と秀州に安置処分とした。



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