HOME目次王安石変法(3)

王安石変法(2)


(24)三年(1070)二月己酉(1)、河北安撫使の韓琦は意見書を提出した。

私は青苗銭を散布せよとの詔書を承りましたが、そこには「この度のことは、哀れなる民に恵みを垂れるためであり、兼併家が民の困窮に乗じて暴利を貪ることを止めさせよ。朝廷に利益を求める心はない」とあります。ところが今日施行された法令によりますと、郷戸の第一等以下には貸付額が決められており、三等以上にはさらに増額が許されております。また郷戸の上等戸や都市の資産家は従来の兼併家です。また現在銭一千を貸し出して一千三百を納入させておりますが、これでは官が銭を出して利息を取るのと同じで、はじめの詔書と食い違っております。また法令は〔青苗銭の〕強制貸付を禁止しております。しかし貸付を強要しなければ〔富裕層の〕上戸は決して貸出を求めないでしょう。〔貧困層の〕下戸には願い出る者もいるでしょうが、安易な気持ちで借入れ、納入時に難儀に陥ることになりましょう。将来必ずや連帯保証人に督促せねばならぬことになるでしょう。陛下がみずから節約に務められ、それを天下に推し及ぼせば、おのずと国用に不足はありません。なにも営利の官僚を紛々と四方に遣わし、遠近の疑惑を生む必要などありません。願わくは、諸路の提挙官を罷め、ただ提点刑獄にもとの常平法を施行して頂きたい。

帝は琦の上奏文を袖から出して執政に示すと、「琦はまことの忠臣だ。地方にいても王室のことを忘れない。私ははじめ民によかれと思っていたが、これほど民に害を与えていようとは考えもしなかった。それに都市に住む者になぜ青苗銭が必要なのだ。官吏が無理強いしておるのであろう。」

王安石は勃然と進み出ると、「もし欲しいというなら、都市民に与えても何の問題もありません」と言い放った。そして琦の意見書を非難し、「桑弘羊は天下の財物を掻き集め、それを君主の私用に供したのだから、興利の臣と言〔うことはできましょう。しかし陛下が平常法を修正されたのは、民を助けるためです。利息を納めさせるのも、周公の遺法です。兼併を抑えて貧弱を助けることと、君主の私欲を助けることとは意味が違います。これを興利の臣と言〕(2)えるでしょうか。」しかし琦のこの発言によって、帝は青苗法を疑うようになった。すると安石は病気だといって朝廷に出て来なくなった。

帝は執政に青苗法を罷めるよう打診した。趙抃は安石が朝廷に出て来てからの方がよいと言った。安石が辞任の意向を示したので、帝は司馬光に答詔を書かせたが、そこには「士大夫は沸き立ち、人民は騒然となった」と書かれてあった。安石が弁解文を提出して抗議したので、帝は遜って謝り、また呂恵卿に自身の気持ちを伝えさせた。韓絳も安石を朝廷に留めるよう帝に働きかけた。

安石は朝廷に戻って謝罪すると、「朝廷内外の大臣・侍従官・台諫は結託し、先王の正道を踏みにじり、陛下を駄目にしようとしております。これこそ〔世論が〕紛々としている原因です。」帝はこれに賛同した。安石はまた国政を執るようになると、ますます新法を堅持するようになった。

詔を下し、琦の意見書を制置三司条例司に下し、曾布の反対論文(3)を石に刻ませ、天下に頒布した。琦はさらに厳しく反論を展開し、「安石は妄りに『周礼』を引き、陛下の聡明を惑わしている」と論じたが、すべて聞き入れられなかった。

この時、文彦博も青苗法の害悪を論じた。

帝、「私は二人の宦官を遣わし、民間の状態を調査させたが、二人ともすばらしい成果だと答えたのだが。」

彦博、「韓琦は三朝に仕えた宰相です。これを信じることなく、かえって二人の宦官をを信じるのですか。」

これ以前、安石は入内副都知の張若水および押班の藍元震と手を結んでいた。帝は開封府内の青苗銭散布の状態を調査させるため、こっそり使者を派遣したが、たまたまこの二人に命令が下りた。二人は宮殿にもどると、民は心から青苗銭の貸出を願っており、強制などありませんでしたと断言した。だから帝は〔安石の発言を〕信じて疑わなかったのである。


(25)壬申(十一日)、司馬光を枢密副使とした。しかし光は固辞して受けなかった。

これ以前、光はもともと王安石と仲が善かった。新法が行われると、書簡を送って再三意見を述べ、さらに呂恵卿とも経筵で言い争ったので、安石は不満に思っていた。

帝は光に重責を任せようと思い、安石に意見を求めた。

安石、「光は外面こそ君上を諫めるような振りをしておりますが、実は人を手懐けようとしているだけです。その発言はすべて政治に害あることばかり、彼に付き従う連中はだれもかれも政治を害するものばかり。これを陛下の左右に置き、国論に関わせるのは、まさに国家盛衰の機転と申せましょう。光の才能では政治を害することはできますまい。ただ彼が高官となれば、異論あるものが彼を恃みとしましょう。韓信は漢の赤幟を立てたので、趙の軍隊は気を奪われました。もし光を用いれば、異論ある者のため、赤幟を立ててやるようなものです。」

安石が病気だといって朝廷に出て来なくなると、帝は光を枢密副使とした。光は辞退してこう訴えた。

陛下が臣を用いられるのは、私の狂直を察し、国家に補益あることを願われてのことと思います。もしただ俸禄や官位を栄誉として与え、私の発言を受け付けぬとおおせであれば、これは公のものであるはずの官職を、私情によって不適当な人間に授けたことになります。もし私がただ俸禄や官位をみずからの名誉と考え、生ける民の苦しみを救うことができないのであれば、これまた公の官職を盗み、我が物としたことになります。陛下がほんとうに制置三司条例司をお罷めになり、提挙官を引き返させ、青苗法や助役法を施行なされないと仰せなら、私を用いられずとも、私は既に多くの恩恵を受たことになりましょう。

青苗銭の散布につきましては、責任者は青苗銭の未納を恐れ、きっと貧富を混ぜて保証を取らせようとするでしょう。貧しき者は償却できないとなれば四方に散り逃げるでしょうが、富める者は逃げることもできず、きっと代償を払わねばならなくなるでしょう。十年もたてば、貧しき者はすべていなくなり、富める者は貧しくなるでしょう。常平法が廃され、さらに軍の負担を増やし、これに飢饉でも重なれば、民の弱気者は死体となってどぶに打ち捨てられ、強き者は必ずや集まって盗賊になるでしょう。これは世の通りとして避けられないことです。

献言すること九回に及んだ。帝は光に「枢密は兵事をつかさどるところだ。官には各々職責がある。他の事でもって辞退してはならぬ」と伝えさせた。光は「私はまだ辞令を受けておりません。ならばまだ侍従です。発言してならぬものはなに一つもありません」と答えた。

たまたま安石が国政に復帰したので、詔を下し、光の辞退を許し、勅書を返還させた。

知通進銀台司の范鎮は二度までも〔光の辞退許可の〕詔書をはねつけたので、帝は詔書を光に直接送付し、門下省を経由させなかった。鎮は「私の不才のため、陛下に法を無みさせました。この職を解任していただきたい」と申し出た。これを許した。


(26)乙酉(二十四日)、韓琦は青苗法の意見が通らないことを理由に、河北安撫使を解任し、ただの大名府路〔安撫使〕にして欲しいと願い出た。王安石は琦の意見を阻止するべく、直ちに要請に従った。


(27)三月、知審官院の孫覚を広徳軍知事に降格した。

帝が即位したとき、覚は右正言だったが、帝と意見が合わず、罷免された。王安石はもともと覚と仲が善かったので、引き入れて自分の助けにしようと考え、通州知事から召還し、知審官院にまで引き上げた。

当時、呂恵卿が政治を切り盛りしていた。帝はこれについて覚に意見を求めた。

覚、「恵卿は弁が立つだけでなく、人よりも数段頭が切れます。ただ利益になるとの考えから、安石の風下にいるだけです。安石はこれが分っておりません。私は窃かに心配しております。」

帝、「私もそれを疑っているのだ。」

青苗法が実施されると、担当者は「『周官』の泉府は、民に銭を貸出し、二割五分の利息を取り、国家の財用をまかなっていた」と発言した。覚はその間違いを指摘してこう言った。

西周の時代、銭を貸出したのは、民の危急に備えるためであり、安易に与えてはならないものでした。ですから国事に服する税として、利息を取ったのです(4)。しかしその利息の取り方は、経文の解釈として正しくありません。鄭康成は経文を解釈して、「王莽の時代、利潤を計って利息を取ったが、年に一割を越えなかった」を根拠として〔泉府を解釈して〕おります。周公が利息を取るのに、王莽の時代より重いはずがありません。(5)ましてや国用を泉府だけから調達するというのでは、冢宰の九賦(一般国費)は何に用いるのでしょうか。陛下におかれましては、先王の法をよく研究し、疑わしい学説を用いて政治を行わぬようになされませ。

安石はこれを見て怒り、覚の追放を考えるようになった。たまたま曾公亮が「畿内各県に青苗銭を貸出しているが、強制貸付があると言われている」と言ったので、安石は覚を実地検分のために派遣した。覚は「民は官との交易を望んでおりません。廃止していただきたい」と訴えた。このため覚は命令違反に問われ、広徳軍知事に左遷された。


(28)程顥は意見書を提出した。

先日私は幾たびかこのように訴えました。――青苗銭の利息を罷め、提挙官を引き戻していただきたい、と。そこで朝夕〔朝廷の動向を〕見守っておりましたが、まだ施行を見ておりません。

私が考える所によりますと、事物に明らかなものは、まだ形として現れる以前にそれを察知し、智慧のあるものは、まだ乱れぬ以前にこれを防ぎます。ましてや現在なすべきことは分り易く明白です。もし機に乗じてすぐに決断せず、頑なに押し通すようなことがあれば、必ずや後悔することになりましょう。後悔してから改めるのでは、多くの害をもたらすことになります。

思うに、安危の根本は人の心にあり、治乱の機転は物事の最初にあります。人の心が背いてしまえば、言葉は信用を失います。天下が協和しておれば、どのようなことでも成功します。力に任せて強制したり、強弁で勝利を得ることはできないのです。ところが近日聞くところによりますと、朝廷はことさら不適切なことをしております。

伏して考えますに、制置三司条例司は、大臣の意見書を反駁し、新法の執行を妨げる官僚を弾劾し、いたずらに世の物情を騒然ならしめています。これは偏見に囚われて正しき世論を全て阻み、小事のために先ず人の心を失うもので、事の軽重から申しましても、よいこととは申せません。

私がひそかに考えるところによりますと、陛下はもとより事態をよく理解され、是非を知悉しておいでのことと思われます。陛下の御心にあって、強く変革をお望みなのは、権臣が変革に固執しているからだと思われます。このため人々は大いに不満を抱き、世論は騒然となっております。もし〔新法をこのまま〕遂行しても、きっと成功し難いものとなるでしょう。

陛下におかれましては、神明の威断を奮い、成敗の先機を明らかにしていただきたい。一失を遂げ、残りの全て失うよりは、大恩を漲らせ、人々の心を革新させる方が優れております。

各地の使者の惹起せし騒擾を止めさせ、すぐに利息免除の仁政を実施していただきたい。ましてやこれに加えて糶糴の法(6)を行えば、貯蓄の物資はおのずと広くなり、朝廷の挙措に失敗さえなければ、物議など起こる余地がありません。

伏して請い願いますには、臣の申し上げたことを調査し、速やかに施行していただければ、これこそ天下の幸甚です。


(29)夏四月戊辰(八日)、御史中丞の呂公著を左遷した。

青苗法が行われると、公著は意見書を提出した。

古来、政務に励む君主の中、人心を失いながら治績を挙げたものはおらず、威嚇や強弁によって人心を収め得たものはおりません。昔日、賢臣と言われた者達が、現在では新法を間違いだと言っております。しかるに新法を支持する人々は、それら一切を流俗の浮論だといって非難しております。昔日みな賢者でありながら、今日だれもかれもが不肖者になるようなことがあるでしょうか。

安石はあまりに赤裸々な批判に怒った。たまたま帝は公著に呂恵卿を推薦させ、御史に抜擢しようとした。

公著、「恵卿はたしかに頭がいい男です。しかし邪悪な人間ですから、用いてはなりません。」

帝がこれを安石に語ると、安石はますます怒り、ついに「公著はこんなことを言っておりました。――韓琦は人心を頼りに、かつて趙鞅が晉陽の兵を起こして君側の悪臣を放逐した故事に倣おうとしている」(7)と讒言した。

このため公著を穎州知事に左遷し、さらに知制誥の宋敏求に命じて制書を書かせ、公著の罪状を明記するよう言いつけた。ところが敏求は従わず、ただ「発言が事実に反した」とだけ書いた。安石は怒って、陳升之に文字を改めさせてから、制書を下した。


(30)己卯(十九日)、趙抃が罷めた。

安石がより一層新法を堅持すようになると、抃は大いに後悔し、意見書を提出した。

制置三司条例司は四十余人の使者を設け、天下を騒然とさせております。安石は強弁して横暴な振る舞いをし、公論を批判してはこれを流俗だと決めつけ、民衆を欺瞞し、非を飾っております。最近では、多くの台諫(御史台と諫官)・侍従が、発言が聞き入れられぬといって朝廷を去り、司馬光は枢密に命じられながら、あえて受けようとしませんでした。そもそも事には軽重があり、体には大小があります。財利は事に於いて軽微ですが、民心を得ると否とは〔事に於いて〕重大です。青苗法の使者は体に於いて小ですが、陛下の近臣(侍従)や耳目の官(台諫)が用いられるか否かは〔体に於いて〕重大です。ところが今や重きを去って軽きを取り、大を失って小さきを得ております。宗廟社稷の福とならぬのを懼れる次第です。

意見書が提出されると、抃は強く辞任を求めた。こうして杭州知事として地方に出てしまった。(8)


(31)韓絳を参知政事とした。

侍御史の陳襄は批判した。

王安石は大政に参与し、第一に営利を策しました。まず知枢密院事の陳升之とともに条例司を取り仕切ると、すぐに升之は宰相になりました。すると絳が条例司を受け継ぎましたが、まだ数ヶ月にもならぬのに、〔絳は参知政事として〕政務に参画するようになりました。これでは中書の大臣はみな営利によって成り上がったことになります。絳に下った新任の命令を取り罷め、道徳経術の賢臣を任用していただきたい。願わくは、聖王の政治を傷つけることなく、大臣として守るべき道義を保全していただきたい。

聞き入れられなかった。


(32)癸未(二十三日)、李定を監察御史裏行とした。知制誥の宋敏求・蘇頌・李大臨を罷免した。

定は若いころ王安石に学問を受けた。進士に合格すると、秀州判官となった。孫覚が朝廷に推薦し、京師に召還された。

李常は定に会うと、「君は南方からやって来たらしいが、民は青苗法をなんと言っているかね。」

定、「民は便利だと言っております。喜ばぬものはおりませんでした。」

常、「朝廷では論争の真っ最中なんだ。君は今の発言を控えたまえ。」

定はすぐに王安石のもとに出向くとこれを伝え、「発言とは事実に基づいてするものとばかり思っておりましたが、京師では許されぬのですね」と言った。安石は大喜びで、すぐに帝に謁見を薦めた。帝は青苗法についてたずねると、定は「民はとても便利だと言っております」と答えた。このため、新法は不便だという発言は、帝に聞き入れられなかった。

定に知諫院を命じたが、宰相から選人(官僚見習い)を諫官に任じた前例がないからと言ってきたので、監察御史裏行を授けた。

知制誥の宋敏求・蘇頌・李大臨は「定は銓考に由らず朝列に抜擢され(9)、御史の推薦もなく憲台(御史台)に配されました。たとえ朝廷が必死に才能ある者を任用し、ために常例を無みすることがあるとはいえ、法制を乱すとあっては、益あること少なく、損あること大きいでしょう」と批判し、制書を突っぱねた。

詔を下し、四度も制書の執筆を依頼したが、頌らは批判して止まなかった。そのため三人とも命令違反の罪に問われ、知制誥を落とされた(10)。世の人々は彼らを「煕寧の三舎人」とあだ名したという。


(33)壬午(二十二日)(11)、監察御史裏行の程顥・張戩、右正言の李常を罷免した。

これ以前、顥は次のように訴えていた。

私はこのように聞いております。――天下の道理は、簡易に基づき、道理に従うならば、成功しないものはない、と。ですから、智慧あるものは禹が洪水を導いた如く、安全なところに導くものです。これを捨てて険難なところに導くようでは、智慧あるものとは申せません。

私の考えによりますと、古来政治には、ただ一人に任せきり、物事を独断させ、それでいて成果の上がったことはありました。しかし輔弼の大臣に各々含むところがあり、みながみな違うことを考え、国政は錯綜し、名分は乱れ、天下の人々が無理だと言うにもかかわらず、それでいて成果の上がった試しはありません。ましてや政治のやり方は拙く、公論を用いず、一二人のつまらぬ人間が国政に参画し、賤しき者が貴き者を凌ぎ、邪な者が正しき者を妨げていると現状であっては、一体どうでしょうか。

これらのことは天下の道理から見ても成就し難いものであり、智慧ある者の踏み行わないものです。もしこのようなやり方で不測の利益や僅少の成功があり、かくして営利の臣が日々出世し、徳を貴ぶ風潮が日々衰亡することがあれば、これは朝廷にとって最も不幸なことと申さざるを得ないでしょう。まして天の運行はいまだ回復せず、地震は連年続き、天下の人々は日夜不安に駆られております。このことは陛下みずからが天意のある所を知り、人々の心を察さねばならぬところです。

私はこの職を奉じながらその責を果たせず、議論をしても欠失を補うに足るものはありませんでした。なにとぞ速やかに降格していただきたいと存じます。

帝は顥に命じ、中書に出向いて議論させた。

王安石は人々の非難に腹を立て、怒気を帯びた状態で顥を待っていた。顥はゆったりとした口調でこう言った。――「天下の事は一家の私議ではありません。どうか気を和らげて聴いていただきたい。」安石はこのため気が折れてしまった。

戩は台諫の王子韶とともに新法の不便を論じ、孫覚と呂公著を朝廷に呼び戻すよう訴えた。また「王安石は法を乱している。曾公亮と陳升之はどっちつかずで、〔新法から朝廷を〕救えていない。韓絳は〔安石の〕意見に迎合するだけ。李定は奸計でもって台諫の地位を盗んだ男。呂恵卿は酷薄な口達者、経術に名を借りて姦言を飾り立てているだけだ。君主の側に置いて、講義を任せてはならぬ」と訴えた。また中書に出向いて論争した。

安石は扇で顔を隠して笑った。

戩、「あなたは私の狂直を笑っているが、天下の人々あなたを笑っているのだ。」

陳升之が横から制止すると、戩は「あなたも無罪ではないのですよ。」

升之は恥じ入った。

常は「均輸法と青苗法は、銭を集散して利息を取るものだが、それは経書の解釈に附会しただけだ。王莽が『周官』の片言を取って天下に毒を流したのと、どこが違うというのだ」と批判した。安石は親しい者を遣わしてなだめさせたが、常は止めなかった。また「州県は常平銭を貸出しているが、実際には銭を出していない。民に強要して利息を出させているのだ」と訴えた。帝が安石に問いつめると、安石は常に官吏の名簿を提出させようとした。しかし常は諫官の作法でないといって、命令を拒否した。

顥は自分の意見が実施されないことを理由に、何度も地方官を希望した。戩と常も自身の免官を希望した。そこで常を罷免して滑州通判とし、戩を公安県知事とし、子韶を上元県知事とした。安石は平素から顥と仲が善かった。だから意見は割れたが、その誠実な態度に感服し、京西路提点刑獄として地方に出そうとした。顥が辞退したので、簽書鎮寧軍節度判官とした。

数日の間に台諫は空っぽになった。安石は朝廷での議論が騒がしいことを理由に、安石の姻戚の謝景温(12)を侍御史知雑事にして欲しいと訴えた。帝はこれに従った。


(34)五月癸巳(四日)、〔雄州などの〕国境周辺の州軍では青苗銭の供給を禁止した。


(35)甲辰(十五日)、制置三司条例司を廃止し、〔その職務を〕中書に帰属させた。呂恵卿を兼判司農寺とした。

これ以前、人々は条例司の廃止を訴えていた。帝は安石に「中書に合併してはどうか」とたずねた。

安石、「条例の編修がまだ終わっていません。それに私は韓絳と二人で条例司を管理し、いつも交互に意見書を提出しておりましたが、いま絳は枢密院におります。まだ合併すべきではありません。もう少し待っていただきたい。」

ここに至り、絳が中書に入ったので、詔を降し、条例司の職務を中書に帰属させた。また手詔を安石に下し、条例司関係の官吏には官を授けさせた。また青苗法、免役法、農田水利法などは司農寺に委託し、呂恵卿に管理させることにした。


(36)九月、曾布を崇政殿説書・司農寺判事とした。

安石はいつも配下の一人二人を経筵に置き、帝に意見する人を防いでいた。呂恵卿が父の喪で〔経筵の〕職を去ったので、安石は恵卿の代わりに布を推薦した。布は経歴が浅く、人々の不満を買ったので、すぐ取りやめになった。

山陰の陸佃は、むかし安石に経学を学んでいた。ここに至り、科挙に応ずるため、京師に上った。安石は新法について意見を求めた。

佃、「法がよくないわけではありません。ただ法の実施に際して、当初の思惑通りに進まず、かえって民を混乱させております。」

安石は驚いて、「何をいうんだ。恵卿と議論の上のことだ。」

佃、「あなたが人の善言を楽しむこと、古来希有のことです。しかし世間のものは『人の意見を聞かない』といって騒いでおります。」

安石は笑って、「私がなんで諫言を拒むものか。邪説が横行しているだけのこと、聞くに足らぬ。」

佃、「そのようだから、人の謗りを受けるのです。」

次の日、佃を呼んで、「恵卿は『民間の債務も一鶏半豚になるはずだ』と言っている。すでに李承之を淮南に派遣し、実態を調査させている」と言った。承之は帰還すると、民はみな便利に思っていると虚偽の報告をした。このため佃の献言は顧みられなかった。


(37)劉庠を開封府知事とした。

庠は王安石に近づこうとせず、安石は会見を持ちたがっていた。庠にこれを告げるものがいた。しかし庠は「安石が政務を執ってからというもの、一つとして人情に一致したものがない。行って何を話せというのだ」と言い、ついに出向かなかった。そして意見書を提出し、新法の誤謬を極言した。

帝、「なぜ大臣と心を同じく政治に勤しもうとしないのだ。」

庠、「私は陛下にお仕えしているのであって、大臣に迎合しようとは思いません。」


(38)庚子(十三日)、曾公亮が罷めた。

公亮は、はじめ韓琦への妬みから安石を推薦し、〔帝と琦を〕引き離した。同じく政務を執るようになると、帝が安石に信頼を寄せていることを察知し、〔安石の主張する〕諸々の改正事業を陰から助けていたが、外面では〔安石に〕異論があるかの如く振る舞った。いつも息子の孝寛を〔安石の〕謀議に参加させ、御前での意見はほとんど〔安石と〕異なるところがなかった。このため帝はますます安石を信任するようになり、安石も深く〔公亮に〕感謝していた。公亮は老齢を理由に辞任を求めたので、司空・侍中・集禧観使を授けた。

あるとき、蘇軾がそれとなく新法を止められなかった責任を咎めた。

公亮、「上(神宗)と介甫(安石)は一心同体。これは天のなせるものだな。」

しかし安石は公亮の迎合降りを不充分だと感じており、公亮の申し出を受けると、宰相の辞任を受諾した。


(39)乙巳(十八日)、賢良方正科の試験を行った。

太原判官の呂陶の対策。

陛下は即位されたばかりです。願わくは、財務の説に惑わされず、老成の発言に耳を傾け、戦場のことに関わらないようにしていただきたい。陛下は新法に心を砕かれ、みずから堯・舜たらんことを望んでおられます。しかし陛下の御心はこのようであるのに、天下の議論はあのよう〔に正反対〕です。その理由をお考えいただきたいと存じます。

合格者の発表に及び、帝は安石に巻を取って読ませた。ところが半分も読まぬうちに、安石の顔色は真っ青になった。帝は事態を悟り、馮京に読了を命じ、陶の発言には道理があると称賛した。

たまたま范鎮の推薦した台州司戸参軍の孔文仲も試験に応じた。およそ九千言の答案で、安石の推進する理財・兵事の新法は間違いであると力説していた。宋敏求は異等(13)の合格に処した。しかし安石はこれに怒り、帝に御批(皇帝の命令書の一種)を出させると、文仲の合格を取り止めさせ、もとの官職のまま地方に追い返した。斉恢と孫固は御批を突っぱね、韓維・陳薦・孫永らも文仲を落第させてはならぬと力説したが、帝は聞き入れなかった。

范鎮は「文仲は僻地に生まれたため、忌憚することを知らぬのです。ましてや直言の士を求めながら、かえって罪を加えるとあっては、恐らくは陛下の聖明を傷つけることになりましょう」と訴えたが、聞き入れられなかった。呂陶も蜀州通判を授けられただけだった。


(40)癸丑(二十六日)、司馬光を罷免し、永興軍知事とした。


(41)冬十月、翰林学士の范鎮が致仕を願い出たので、これを許した。

鎮は「私の意見が聞き入れられぬのなら、これ以上朝廷におるわけに参りません。致仕(官僚を引退すること)をお許しください」と願い出た。また青苗法の害を極論し、さらに「陛下には諫言を受ける御心があるのに、大臣が諫言を拒むよう仕向けております。陛下には民を愛する御心があるのに、大臣が民を苦しめようとしております」と意見した。意見書が提出されると、安石は激怒し、みずから制書を執筆して激しく鎮を罵り、ついには戸部侍郎として致仕させた。

鎮の謝辞には大略こうあった。――「乞い願いますには、陛下におかれましては、多くの人間の議論をご自身の目耳とすることで、人々の口を閉ざそうとする邪悪な謀略を排除し、また老成の人を腹心とすることで、中和の福を養っていただきたい」とあった。世の人々はこれを聞き、鎭の勇気を褒め称えた。

蘇軾は鎭のもとに出向くと、「引退されたとはいえ、あなたの名声はますます高まりましょう」と褒め称えた。しかし鎮は浮かぬ顔で、「君子というものは、その発言は君上に容れられ、その計略は従われ、天下は知らずしてその福を受け、智者の名誉もなく、勇者の功績もないものだ。わたしはそれができなかった。天下の人々に害悪を与えながら、それでいて名誉だけは頂いてしまった。どうすればよいのだ。」


(42)十二月、諸路更戌の法を改めた。

これ以前、太祖は五代の弊害に懲り、趙普の策を採用し、四方の精鋭を集めて京畿の防備に充てる一方、辺境への派遣を交代制にし、該当地を防衛させた。当時、将帥の臣は奉朝請となり、暴徒は軍律に拘束され、たとえ凶悪な人間がいても、暴れようがなかった。什長の法と階級の弁を設け、内外上下で牽制させ、規律違反の可能性を奪い去った。その後、兵制を制定した。天子の衛兵として京師を警護し、また交代で辺境を警護するもの、これを禁軍といった。諸州の鎮兵として労役に使役されるもの、これを廂軍といった。戸籍あるいは応募から招集し、これに訓練を施し、その在地を警備させるもの、これを郷軍といった。国境周辺にあって朝廷の守り手となるもの、これを藩軍といった。――この四種の兵が存在した。

ここに至り、「更戌の法は、〔兵卒の〕制禦こそ容易だが、将官と兵卒は疎遠になり、危急の対応に信頼がおけない」という議論があった。そこで諸路の将兵を禁軍に統括させた。これによって、兵卒に対しては将官の存在を認知させ、将官に対しては兵卒を訓練させ、平生から訓練と威令を保持させると同時に、〔中央と地方の〕移動の労を省かせたのである。かくして京畿・河北・京東・京西の路に三十七将を置き、陝西の五路(鄜延・環慶・涇原・秦鳳・煕河)に四十二将を置いた。

しかし禁軍が将官に帰属するようになると、飲食や享楽に溺れ、驕慢となり、堕落した。また将官も各地の長吏と諍いを起こすようになった。一将ごとに部隊将・訓練官など数十人が配下に付いたが、諸州にはもともと総管・鈐轄・都監・監押が設置されていたので、職掌の重複する官が並列し、むだに俸禄を与えることになった。兵制に詳しい人々はこの制度の失敗に気づいていたが、変えさせることはできなかった。


(43)乙丑(九日)、保甲法を実施した。

当時、王安石は「古代の王たちは農民を兵としていた。現今、公私の財産を損耗することなく、祖宗長久の計を実施するなら、募兵を罷め、民兵を用いなければならない」と発言し、保甲法を実施した。

保甲法――十家を保とし、〔保ごとに〕保長を置く。五十家を大保とし、〔大保ごとに〕大保長を置く。十大保を都保とし、〔都保ごとに〕都保正と副を置く。主戸と客戸の両丁以上の家から一人を択び、保丁とし、これを保に配属する。両丁以上いる家で、他にも勇壮な丁がいる場合も保に配属する。保の中、家産が最も裕福で、優れた武勇のあるものも保丁に充てる。保丁に弓弩を授け、戦陣を教える。一大保ごとに、毎夜交互に五人で盗賊を警戒させる。盗賊を捕獲したものは、報償規定に従って褒美を与える。保のなかに強盗、殺人、強姦、窃盗、妖教の布教、蠱毒の法(邪法の一つ)を行った者がいた場合、事情を知りながら密告しなかったものは、伍保法によって処分する。その他、自分に関係のないこと、また敕律に関与しないものついては、報告の義務はなく、実情を知っていても罪に問われない。もし隣保に罪人がおれば、罪に問われる。強盗三人を停留し、三日経過した場合、保隣は実情を知らなくとも、失覚の罪に問われる。逃亡・死絶などがあり、保の五家に不足が生じた場合は、他の保に合併する。外から保に入った者があれば、保の中に加える。戸数が充足すればこれに付加し、十家に達すれば新たに保をつくる。牌(公文書)を設け、その戸数と姓名を記させる。

提点刑獄の趙子幾は、安石に迎合し、まず畿内で実施するよう訴えた。詔を下し、この要請に従った。ついに永興・秦鳳・河北東西〔・河東〕(14)の五路に実施し、ここから天下に推し及ぼした。こうして諸州は保甲を作り、民を集め、これに訓練を施した。禁令は厳しく、逃亡して盗賊になるものも多かったが、地方官は報告しようとしなかった。

大名府判事の王拱辰は保甲法の害悪を批判した。――「財力を逼迫せしめるのみならず、農業の時間まで奪っております。これでは法によって民を罪悪に駆り立てるようなものです。〔逃亡した民は〕寄り集まって大盗賊になるでしょう。その徴候は既に現れております。法を全廃できないなら、せめて下戸〔の保甲〕を止めるなどして、法の運用を緩めていただきたい。」

保甲の主導者は「拱辰は法の施行を阻んでいる」と批判した。しかし拱辰は「この度のことは、老臣として国の恩に報いたものだ」と言い、保甲を批判して止まなかった。帝は事態を悟り、これ以後、下戸は〔保甲を〕免除された。


(44)丁卯(十一日)、韓絳と王安石を同平章事とした。


(45)戊寅(二十二日)、募役法を実施した。

これ以前、条例司に役法を議論させていた。条例司は「民に銭を出させ、それで人を雇って労役に充てます。これこそ古代の王たちの『民の財によって庶人在官者に俸禄を授ける』やり方と言えましょう」と報告した。呂恵卿と曾布に命じ、引き続き法規を作らせた。年を越え、ようやく完成した。

〔募役法――〕民の貧富を計算し、五等に分けて銭を納入させる。これを免役銭と名づける。官戸・女戸・寺観・単丁・未成丁は、等級に従って銭を納入させる。これを助役銭と名づける。銭を納入する場合、まず州もしくは県に必要雇用費を計算させ、戸の等級に従って雇役の銭を徴収する。このとき二割増しで銭を徴収し、水害や旱害による財政の缺乏に備えさせる。これを免役寛剰銭という。この銭で人を雇い、労役を代用させる。

試験的に開封府で免役法を実施した後、諸路に施行した。〔法が施行されると、〕すぐに東明県の民数百人が開封府に押しかけた。帝はこれを知って、安石に問い質した。

安石、「役法を煽動するものが、『納入した銭にはきっと余剰分があるはずだ。みななで訴え出れば、きっと銭が免除されるはずだ』と唆したのです。彼らは僥倖を民に与えようというのです。もし民の訴えを聞き入れ、銭の納入を免除するのでしたら、もとのまま民を労役に充てなければなりません。」

帝は安石の発言に従った。

ついで台諫の批判が多いことを理由に、少し緩めてはどうかと安石にたずねた。

安石、「朝廷が法を制す場合、義を判断の基準としなければなりません。浅慮の人々の意見に心を痛めるようなことがあってはなりません。」

司馬光、「今まで上等戸は交互に役に充てられておりました。ですから時々に休息がありました。ところがこのたび毎年銭を納入させることになりました。これでは休息の時期がないのと同じです。今まで下等戸や単丁・女戸に役はありませんでした。ところがこのたび彼らのすべてに銭を出させることになりました。これでは寡夫や身寄なき者の役をも免除しないことになります。そもそも力は民が生まれながらにして有するもの、穀帛は民が耕作や養蚕によって手に入れるものです。しかし銭は県官が鋳るもので、民が自分で作ることのできないものです。現在、有司は法を設け、ただ銭のみを求めております。豊作の歳であれば、民はその穀物を安く売り出すことになりましょう。凶作の歳であれば、桑棗を伐り、牛を殺し、田を売り、こうして銭を手に入れ、それを納めることになりましょう。これでどうやって民に生きよと仰るのですか。この法が施行されたなら、富める者は少しく助かるでしょうが、貧しき者の困窮は日々甚しくなりましょう。」

帝は聴き入れなかった。


(46)庚辰(二十四日)、王安石を提挙編修三司令式とした。

当時、世の中は新法のため騒然となっていた。邵雍は洛陽に隠居していた。その門人や知己は「新法を弾劾し、故郷に帰るつもりだ」と書簡を送り、雍の意見を求めた。

雍、「今こそ賢者が力を尽くさねばならぬときではないか。新法は確かに厳しい。それを僅かでも緩めることができれば、民はそれだけ恵みを受けることになる。弾劾などして何の利益になるというのだ。」


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(1)二月に己酉は存在しない。『紀事本末』巻63(王安石毀去正臣)は壬戌朔に繋ける。
(2)以上、〔 〕内は中華書局本の校勘記(薛鑑)により増補した。
(3)韓琦の青苗法反対意見書に対して、その間違いを列挙したもの。
(4)以上は『周礼』泉府を根拠として述べたもの。
(5)『歴代名臣奏議』巻112によると、「利潤から利息を取り、元本から利息を取らない」となる。
(6)物価が騰貴したときに穀物を買入れ、下落したときに穀物を放出する政策。
(7)趙鞅云々は定公十三年、晉の趙鞅が晉陽に拠って謀叛を起こし、君側の奸を放逐した故事を指す。
(8)この一段、本来は「青苗法が韓琦の反対で頓挫しかけ、安石が朝廷に出て来なくなったとき、趙抃は安石を朝廷に出て来て新法を罷めさせるよう帝に勧めた。ところが安石はもどってくるとますます新法を堅持した」云々の後に来る。
(9)選人からしかるべき功績を挙げて正式な官僚にならなかったという意味。
(10)知制誥から外されたという意味。
(11)この前後、各々の罷免時期が異なるため、日付が錯綜している。これは原本の編集者の手腕によるものなので、翻訳に於いては原本のままとした。
(12)謝景温の妹が王安石の弟の安礼に嫁いでいる。
(13)蘇頌の墓誌銘によると「第三等」に入等したようである。
(14)『宋史』により補う。



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