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二帝北狩


(01)欽宗の靖康元年(1126)〔閏〕十一月辛酉(三十日)、帝は青城の粘没喝(ネメガ)の陣営に趣いた。

これ以前、京城が陥落したとき、何㮚は都民を率いて城内戦を企図していた。しかし金から「和議が成れば軍を退けるく」と宣告してきたので、止めた。金人が和議を成して兵を退けるつもりだと知った帝は、何㮚と済王の栩を金軍に派遣し、和議を求めさせた。粘没喝と斡離不(オリブ)は「むかしから南があれば北がある。両者ともに必要なものだ。我らの要求はただ領地の割譲だけだ。」

戊午(二十七日)、何㮚は帰還すると、「金人は上皇の出郊(金軍に出向くこと)を望んでいる」と報告した。帝は「上皇は驚きのあまり病に伏せっておられる。どうしても上皇を出せと言うなら、私みずから赴こう」と言った。乙卯(二十四日)から雪が止まなかったが、この日は晴れた。夜中、白気が太微にかかり、彗星が現れた。

庚申(二十九日)、帝は青城に出向いた。何㮚・陳過庭・孫傅らが付き従い、降伏の書状を出した。金の二人の指揮官(粘没喝と斡離不)が「我が君主は賢君を立てよとの思し召しだ。一族から別の一人を宋の君主に立て、さらには帝号を除けとのこと」と言ったので、帝は黙ってしまった。


(02)十二月壬戌朔、帝は青城に留まった。

粘没喝は蕭慶を開封城に派遣し、尚書省に居らせると、〔宋の〕朝廷の財産を調査させた。また朝廷の政務は、必ず先に報告させた。


(03)癸亥(二日)、帝は金の陣営から帰還した。

士大夫や庶民、大学生といった人々は帝の帰還を迎え入れた。帝は顔を覆って涙し、「宰相は我れら父子に誤りを犯させた」と言った。涙を流さぬものはなかった。

帝は延福宮で太上皇に見えると、「金人は別に賢君を立てると言っております。しばらく弟の康王を君主とし、祖宗の社稷を延命すべきです」と言った。当時、康王の母の韋妃が側におり、こう言った。――「ただ賢君を立てるだけでは済みますまい。口を憚るべきことがありましょう。」

この時、金は使者を派遣し、金一千万錠、銀二千万錠、帛一千万匹を要求してきた。このため〔都下の〕金銀を大々的に徴収した。京師の米価を定め、米を民に放出し、紫筠館の花木を薪にすることを許した。


(04)丙寅(五日)、金人は京城の騾馬を要求した。御馬以下、七千匹を全て送った。また少女一千五百人を要求し、後宮の雑用に充てようとした。宮廷の女官らは後宮を出ようとせず、多くの者が池に入って命を絶った。


(05)劉韐・陳過庭・節彦質らを割地使として河東・河北に派遣し、土地を金に割譲させた。また欧陽珣ら二十人に詔書を持たせ、各地に派遣した。

珣は深州城下に到着すると、慟哭して城内の人に言った。――「奸臣のせいで、こんなことになってしまった。私は既に死を覚悟している。君らも忠義報国に励んで欲しい。」金人は怒り、珣を捕らえて燕に連行し、焼き殺した。


(06)この時、范致虚は陝西の兵十万を率いて援軍に向かっていた。穎昌に到着したところで、汴京の陥落および西道総管王襄の南方逃走を知った。しかし致虚は西道副総管の孫昭遠、環慶の帥臣の王似、煕河の帥臣の王倚とともに、歩騎兵(歩兵と騎兵)二十万を率いて汴京に向かった。武関を越え、鄧州の千秋鎮に到着した。金の将軍の婁室が精鋭の騎兵で突撃したため、〔致虚らの軍は〕戦わずして壊滅した。王似と王倚と孫昭遠は陝府に留まり、致虚は残兵をまとめて潼関に入った。


(07)二年(1127)春正月辛卯朔、帝は延福宮で太上皇に見えた。粘没喝は息子の真珠以下の八人を派遣し、新年を慶賀させた。帝は済王の栩に命じ、金の陣営に向かわせ、感謝の意を報告させた。


(08)壬辰(二日)、聶昌と耿南仲を派遣し、金に両河の地を割譲した。民は堅く城を守り、命令を聞かなかった。


(09)庚子(十日)、金人は金帛の要求を急かし、帝に再度の来営を求めた。

帝は難色を示したが、何㮚と李若水が「危険はない」と出御を勧めたので、孫傅と謝克家に太子の監国(帝に代わり政務を執ること)を補佐させ、㮚と若水とともにまた青城に向かった。

閤門宣賛舎人の呉革は㮚に向かって、「天文の帝座がひどく傾いている。陛下の御車が出るようなことでもあれば、必ず敵の計略に陥ることになろう」と言ったが、㮚は聞かなかった。

帝が宮城に出ると、数万の民が御車にすがりつき、「行ってはなりませぬ」と号泣して引き止めた。帝もまた涙した。范瓊が「陛下は今朝お出になられ、暮には帰って来られる」と言うと、人々は瓦礫を投げつけた。瓊はこのため刀を抜き、すがる人々の手を斬った。

御車が郊外に出ると、張叔夜はなおも馬を引き止め、〔帝の出御を〕諫めた。帝、「民草のため、私が出向かねばならぬのだ。」叔夜は慟哭して再拝し、人々もまた涙した。帝は振り向くと、〔叔夜を〕字で呼んで、「嵆仲、努力せよ。」


(10)丙午(十六日)、割地使の劉韐は金の陣営に到着した。金人は僕射の韓正(1)を派遣し、〔韐を〕僧舎に住まわせた。

〔正が〕韐に言うには、「国相は君のことをご存じだ。今度、君を抜擢するおつもりだ。」

韐、「生きんがために二姓に仕えるなど、死してもできぬこと。」

正、「金軍の中には、〔宋に代えて〕異姓を立てよとの議論がある。君を私の代役にするつもりだ(2)。無駄死にするより、北に行き、富貴を手に入れた方がよかろう。」

韐は天を仰ぎ、「このようなことが許されようか」と叫び、紙切れにこんな書き置きをした。――「忠臣は二君に仕えず。死あるのみ。」信頼できる者に手紙を持ち帰らせ、息子の子羽に送らせた。そして沐浴して衣を代え、酒を杯に汲んで飲むと、首を括って死んだ。燕の人は韐の忠義に感じ、遺体を寺の西岡に埋葬した。


(11)帝が青城に出向いてからというもの、都民は毎日のように御車の帰還を待っていた。しかし粘没喝と斡離不(オリブ)は〔帝を青城に〕留め、帰還を許さなかった。

太学正の徐揆は南薫門に詣でると、二人の指揮官(粘没喝と斡離不)に意見書を提出し、御車を宮城に戻すよう訴えた。その概略はこうである。――

むかし楚の荘王は陳に侵入し、そこを直轄地にしようとしました。しかし申叔寺がこれを諫めたため、また〔陳の国を〕復興させました。後世の君子は叔時の諫言、そして楚子がその諫言に従ったことを褒め称え、千百年の後に至るまで、なおもその風采を慕っております。

本朝は大国に信を失し、盟約に背き、討伐を招きましたいたが、これは元帥の職務とするところです。都城の陥落、社稷の滅亡に際会し、これを救うのは、元帥の徳です。兵の刃は血ぬられず、商賈は変わらず、人々が死を覚悟する時にこれを救うのは、元帥の仁です。楚子が陳を存続させた功績と雖も、これ以上のものではありません。

我が皇帝は、みずから万乗の身を屈し、二度も軍営に赴き、遠く草莽の地におられます。国中の人々は〔帝の帰還を〕待ち焦がれ、踵を上げて御車の帰還を待ち望むことしばしばです。世の噂には、金銀が不足の故、天子は帰還されぬと言います。しかし私は窃かにこれを疑っております。

現今、我が国の宝庫は尽き果て、一民一妾の飾り物、わずか一の器用と雖も、朝廷に献上すべきものはなく、商人は絶えて都に来たらず、京城は区区たる有様です。どうしてご所望の数に達すことがありましょう。社稷を存続させる功績、民草を活かす仁がありながら、金帛の数の故に、君父を拘留する。――これは人の子弟を愛すと言いながら、その父祖を辱めるようなもの。愛さないのと同じことにございます。元帥には必ずやこのようなことはないと存じます。

願わくは惻隠の心を推し、終始の恵みを垂れていただきたい。そして我が君父を帰し、軍旅を解き、我らに〔ご所望の金銀を〕四方に求めるだけの猶予を与え、しかる後、人を遣わし、金銀を献納させていただきたい。さすれば楚が陳を存続させた功績など言うに足りません。

二人の指揮官は意見書に目を通すと、揆を馬で軍営に連行し、怒鳴りつけた。しかし揆は声を荒げて抗弁し、殺された。


(12)金の君主の呉乞買は、帝の降伏書を入手するや、帝および太上皇帝を廃し、庶民とした。知枢密院事の劉彦宗は再び趙氏を〔国君に〕立てるように求めたが、許さなかった。


(13)当時、金人は運搬物資をかき集め、その物資は道路に満ちていた。

帝は京城に人を寄こし、「私が拘留されているのは、金銀の数が足らぬからだ。足れば帰還できる」と言わせた。そこで侍従郎中を二十四員に増やし、再び〔金銀の〕徴収を実施した。また外戚・宗室・内侍・僧侶・道士・技能者の家に使者を派遣した。八日の後、金三十万八千両、銀六百万両、表段百万を入手した。詔を下し、権に貯納させた。根括(根こそぎ徴収すること)が完了した二月、金軍が教坊人および内侍の藍忻らを捕らえたところ、「まだ金銀を隠匿しておる者がおります。探し出されませ」と言ったので、二人の指揮官は激怒した。こうして開封府はまた賞与を設け、大々的に根括を実施した。全十八日間に於いて、城内でまた金七万、銀一百十四万、ならびに表段四万を入手し、金軍に納入した。

二人の指揮官は金銀の不足を理由に、提挙官の梅執礼ら四人を殺し、他は各々数百の杖罰に付した。そこで令を下した。――「根括に於ける刑罰は正した。金銀がなお不足するようなら、兵を出す。」そこでまた徴収を実施した。


(14)丁巳(二十七日)、金人は郊天儀制および図籍を要求した。


(15)戊午(二十八日)、金は大成楽器、太常礼制の器用、および戯玩図画などを要求し、すべて金の軍営に持ち去った。四日の後、ようやく終わった。


(16)二月辛酉朔、帝は青城にいた。


(17)丙寅(六日)、金人は南薫門の通路に穴を掘った。


(18)丁卯(七日)、金人は上皇(徽宗のこと)の出城、および軍営への出御を求めた。

上皇が出向こうとすると、張叔夜は諫めて、「さきに皇帝が出られましたが、帰られませんでした。陛下は出てはなりません。私が精鋭を率い、御車を守り、〔金の〕囲みを突破してみましょう。万に一も幸運があるかもしれません。もし天が宋の社稷を望まれぬとしても、我が国内にて死ぬことができます。夷狄の地で命を長らえるよりはましでしょう。」

上皇は狼狽して決心できず、薬を飲もうとしたが、范瓊に奪われた。瓊は上皇と太后に逼り、犢車に乗せて宮中を出た。鄆王の楷、および妃・公主・駙馬以下、宮中で位号をもつ者は、みな出向むことになった。ただ元祐皇后の孟氏だけは、〔皇后を〕廃されたまま私邸に居たため、免れた。

これ以前、金人は内侍の鄧述に諸王・皇孫・妃・公主の名簿を作らせていた。そこで開封尹の徐秉哲に命じ、〔名簿にある人間を〕すべて連行させた。秉哲は坊巷の五家に連帯責任を負わせ、隠匿を阻止し、これによって凡そ三千余人を見つけた。秉哲は各人の衣をつなぎ合わせ、連れて行った。


(19)金人は帝および上皇に服を変えるよう逼った。

李若水は帝を抱えて泣き、金人を犬めと罵った。金人は若水を連れ出して殴打を加えた。〔若水は〕顔が血まみれになり、息が詰まって地に倒れた。粘没喝は鉄騎十四人に監視させ、「きっと李侍郎を助けよ」と命じた。

若水は食を絶った。ある人が飯を勧めて「なんてことはない。今従っておけば、明日には富貴が手に入る」と言うと、若水は嘆いて、「天に二日なし。ならば私に二君がいようはずはない。」使用人が慰めて「貴方様には年老いた父母がおいでです。少し節を曲げれば、一度は帰省できましょうに」と言うと、若水は「もはや家のことなど構っておれぬ」と叱った。

金人は皇后と太子を呼ぶよう再び上皇に逼った。しかし孫傅は太子を差し出さなかった。統制の呉革は、募兵に平服を着せて太子を守り、金の囲みを突破して逃亡する計画を立てたが、傅は賛成しなかった。そこでこのような計略を案じた。――〔太子を〕民間に匿う。そして太子に似た者を探し出し、宦官二人とともにこれを殺す。さらに十数人の死刑囚を斬り殺し、それらの首を金に送りつける。そして金人を欺むき、「宦官が太子を盗み出そうとしたため、都で刃傷沙汰になり、誤って太子を殺してしまった。そこで兵を出して鎮定し、乱を起こしたものを斬った。その首を献上する」と言う。それでもどうにもならぬなら、私が死のう。――しかし五日待ったが、敢えてその事を引き受けるものはいなかった。

呉幵と莫儔の督促が激しくなったので、范瓊は雄弁を振るって衛士を震え上がらせ、ついに皇后と太子を擁して車で城を出た。傅は「私は太子の傅だ。〔太子と〕生死を共にせねばならぬ」と言い、留守の職務を王時雍に任せ、太子に従って城を出た。百官・軍吏は太子に付き従い慟哭した。太子もまた「みなのもの、我を救え」と叫んだ。嘆きの声は天を振るわした。

南薫門に到着すると、范瓊はきつく傅を止め置いた。金の門番、「欲しいのは太子だ。留守には関係ない。」傅、「私は宋の大臣であり太子の傅だ。死を願うまで。」こう言って門下に寝泊まりし、命令を待つことにした。

若水が金の軍営に止められて十日余り、粘没喝は若水を呼び出し、異姓を〔君主に〕立てることについて諮問した。若水は罵った。粘没喝は連れ出させた。若水は振り向いて、さらに激しく罵った。監軍が若水の唇を殴りつけた。若水は血を吐き出し、またも罵った。そして首と舌を切り落とされて死んだ。金人は言った。――「遼国が滅んだとき、義に殉じたものは十数人いた。しかし南朝はただ李侍郎ただ一人だけだった。」


(20)三月辛卯朔、帝は青城にいた。


(21)夏四月庚申朔、金人は二帝および太妃・太子・宗室の三千人を北に連れ去った。

斡離不は上皇・太后・親王・皇孫・駙馬・公主・妃嬪、および康王の母韋妃・康王の夫人邢氏を滑州から来たに連れて行った。粘没喝は帝・妃・太子・妃嬪・宗室、および何㮚・孫傅・張叔夜・陳過庭・司馬朴・秦檜を鄭州から来たに連れて行った。そして馮澥・曹輔・路允迪・孫覿・張澂・譚世勣・汪藻・康執権・元当可・沈晦・黄夏卿・鄧肅・郭仲荀などを張邦昌に送った。百官は南薫門で二帝に別れを告げた。衆は慟哭し、倒れる者もいた。

およそ法駕・鹵簿・皇后以下の車輅・鹵簿・冠服、礼器・法物・大楽・教坊の楽器・祭器・八宝・九鼎・圭璧・渾天儀・銅人・刻漏・古器、景霊宮の供器、太清樓・秘閣・三館の書籍、天下の府州県の図、および官吏・内人・内侍・伎芸工匠・倡優、府庫の畜積――これらの全てが空になった。


(22)上皇が青城を離れるとき、金人は牛車数百乗に諸王と後宮の女官を乗せた。しかし側の者はみな金人だったので、中国の言葉が通じなかった。〔上皇の車が〕邢州と趙州の近辺に到着したとき、斡離不は郭薬師を迎えに寄こした。上皇、「運命がこうさせたのだ。貴公の罪ではない。」薬師は恥じて退出した。


(23)帝は青城から離れると、青氈笠をかぶり、馬に乗り、この後を監軍が従った。鄭門から北に向かったが、一城を過ぎるごとに顔を覆って涙した。代州に到着すると、工部員外郎の滕茂実が号泣して出迎えた。茂実はむかし路允迪の副官として使者となったものである。粘没喝は茂実に胡服を着るよう命じたが、茂実は拒絶した。茂実は旧主(欽宗のこと)に付いて行きたいと願い出たが、粘没喝は許さなかった。帝は代州から太和嶺を越え、雲中に到着した。


(24)これ以前、張叔夜は、金人が異姓の者を君主にする計画があると知り、孫傅にこう言った。――「事ここに至っては死あるのみ。」書簡を二人の指揮官に送り、太子を立て、民の希望に従うよう求めた。二人の指揮官は怒り、叔夜を軍に呼びつけ、これを捕縛し、北に連行した。叔夜は道すがら水しか飲まなかった。白溝を渉るとき、御者が「界河(国境の河)を渡ります」と言った。叔夜は目をきょろきょろさせて起き上がり、天を仰いで叫んだ。そして黙り込み、喉を抑えて死んだ。何㮚と孫傅も燕山に到着したところで、相継いで死んだ。


(25)金人は太上皇と帝を引き連れ、素服(平素の服)の姿で阿骨打の廟に謁見させ、さらに乾元殿で金の君主に謁見させた。金の君主は太上皇を昏徳公に、帝を重昏侯に封じた。ほどなく二人を韓州に移した。命令が下った後、韓州城を空にした(3)。また晉康郡王の孝騫ら九百余人に韓州で同居するよう命じた。〔二帝に〕十五頃の田を与え、種を蒔き、自給自足の生活をさせた。しかし秦檜だけは連行されず、撻懶の援助を受け、撻懶もまた檜を厚遇した。


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(1)韓政に作る史料もある。
(2)枢密院使の韓正が高齢になったので、正に代え、韐を枢密院使にする予定だとの意。
(3)自給自足の生活をさせるために城を空にしたの意。



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