王時槐関係資料

人物

王時槐(嘉靖1〔1522〕年~万暦33〔1605〕年)、字は子植、号は塘南、吉安府安福県の人。嘉靖26〔1547〕年の進士。享年84。

伝記・研究

  1. 王時槐「塘南居士自撰墓誌銘」(『友慶堂合稿』巻7)
  2. 王時槐『自考録』……民国に出版された排印本があるらしいが未見。書誌的には『自考録』1巻(『千頃堂書目』巻11)が確認できる。
  3. 黄宗羲「太常王塘南先生時槐」(『明儒学案』巻20、江右王門学案5)
  4. 『明史』巻283(儒林傳2)
  5. 「壽奉常塘南王先生八十序」(曾同亨『泉湖山房稿』巻11)
  6. 「祭奉常王塘南先生」(同『泉湖山房稿』巻29)
  7. 「王塘南先生廣仁類編序」(劉日升『慎修堂集』巻8)
  8. 「讀塘南王先生語録」(耿定向『耿天臺先生文集』巻19)
  9. 「王塘南先生語録序」(郭子章『青螺公遺書』巻16)
  10. 「王塘南先生全集序」(鄒元標『願學集』巻四)
  11. 「友慶堂稿序」(同上)
  12. 「王塘南先生語録序」(同上)
  13. 「羅念菴先生文要序」(同上)

これ以外にも、『王塘南年譜』1巻(『千頃堂書目』巻10)があったらしいが、現存しないようである。

王塘南の専論には、

  • 岡田武彦「帰寂派の系統(王塘南) 」(『王陽明と明末の儒学』第5章、『岡田武彦全集』第10巻、2004年。もと明徳出版社、1970年)
  • 荒木龍太郎「王塘南の生涯と思想 」(『町田三郎教授退官記念中国思想史論叢』、中国書店、1995年)

がある。岡田氏のものは、『明儒学案』の史観を踏襲し、帰寂派の重鎮として王塘南を捉えたものである。なお『自考録』以外の文献は、いずれも『明儒学案』に依っているのは、已むを得ないところであろう。荒木氏のものは、王塘南の自撰年譜である『自考録』からその生涯を探ったものである。内容的には『自考録』から重要事項を抜粋意訳したもののようであるが、全文を紹介したわけではないようである。『友慶堂合稿』(浙江の大学所蔵のもの)を利用されたようだが、『四庫全書存目叢書』所収本と異なり、前2巻に欠落があったとのことである。

この外にも江西地方の陽明学者の活動を研究したものに、

  • 呂妙芬『陽明学士人社群:歴史、思想与実踐 』(新星、2006年。もと台湾から出版されていたものの大陸版)

がある。呂氏のものは王塘南の専論ではないが、数少ない陽明後学の研究書の中に於いて参考になる点が多い。

著書・編纂

王塘南の著書は、その自撰墓誌銘に「予、初め未だ著述あらず。年六十三のとき、たまたま『三益軒會語』を出し、七十以後に『仰慈膚見』『瑞華剩語』『靜攝寤言』『朝聞臆説』、および『存稿』『續稿』を出せしとき、誤りて同志び相知る者のために之を梓行す。」とあるように、『三益軒會語』以下の著書があった。この中、『三益軒會語』『仰慈膚見』『瑞華剩語』『靜攝寤言』『朝聞臆説』(全て語録)は、いずれも『友慶堂合稿』に収められている。『存稿』は未見であるが、中国(大陸)に一部が現存するらしい。『續稿』は『千頃堂書目』にその名を出すのみで、詳細は不明である。

上の他、王塘南の著作・編纂物がいくつか存在するようなので、以下には便宜上、著作と編纂とに分けて記述する。

(1)著書

  1. 『廣仁類編 』4巻(佚)
    1. 『廣仁彙編』:『千頃堂書目』巻11。
    2. 『廣仁類編』4巻:時槐字子植、號南塘、安福人。嘉靖進士。官至太僕寺少卿。出為陜西布政司參政、中察典罷歸、後起為太常寺卿、不赴、卒于家。事蹟具『明史』儒林傳。(『欽定續文獻通考』巻178、經籍考、子、雜家下)
    3. 『廣仁類編』4巻:明王時槐撰。時槐字植、號塘南安福人。嘉靖丁未進士、官至太僕寺少卿、出為陜西布政使參政、中察典罷歸、後起為太常寺卿、不赴、卒於家。事蹟具『明史』儒林傳。是書分篤倫、德政、惠濟、活物四類、各摭故實配隸之。時亦及因果報應之説、蓋神道設教、以勸喩顓蒙、故不盡為儒者之言也。(『四庫提要』(子部、雑纂上)江西巡撫採進本)
  2. 『友慶堂合稿 』7巻『補遺』1巻(存)
    1. 『塘南合稿』7巻:「字缺 安福人、太僕寺少卿、左遷光禄寺少卿。」(『千頃堂書目』巻24)
    2. 『友慶堂合稿』7巻:『欽定續文獻通考』巻193(經籍考、集、別集五)
    3. 『友慶堂合稿』7巻:明王時槐撰。時槐有『廣仁類編』、已著録。是集凡書二卷、序記傳墓誌一卷、語録一卷、説跋及石經大學略義一卷、雜著、詩詞一卷。詩詞不多作、亦非所長。文皆講學之語、而兼出入於老莊之間、明季所謂心學者也。其石經大學略義、自云「出於賈逵、而表章於鄭曉」。且稱王守仁『大學古本』一依註疏之舊、味其文字、旨趣亦未甚瑩、似不無錯簡云云。不知鄭曉所傳乃豐坊之偽本、諸儒考證已明、譎妄畢露、時槐更嘘其殘燼、誤之甚矣。(『四庫全書』(集部)江西巡撫採進本)
    4. 『友慶堂合稿』7巻『補遺』1巻:清華大學圖書館藏清光緒33年重刻本。(『四庫全書存目叢書』所収)なお『補遺』1巻というのは、巻末に「世徳堂紀序」が一編のみ附されてあることによる。
  3. 『友慶堂存稿 』14巻(一部存)
    1. 『友慶堂存稿』14巻:『千頃堂書目』巻24。
    2. 『友慶堂存稿』14巻:『明史』巻99、藝文4(別集類)
    3. 『友慶堂存稿』存12巻(1至12):明万暦38年蕭近高刻本。湖北省図書館所蔵。
  4. 『友慶堂續稿 』(佚)
    1. 巻数不明(『千頃堂書目』巻24)

(2)編纂物

  1. 『吉安府志 』(存)
    1. 『吉安府志』26巻:『千頃堂書目』巻7。
    2. 『吉安府志』26巻:『明史』巻97、藝文2。
    3. 『吉安府志』36巻:余之楨修、王時槐纂。萬暦刊本。
  2. 『念菴羅先生文要 』6巻(存)
    1. 羅洪先撰、王時槐編。萬暦31年序。批注。東京大学所蔵。
    2. 「羅念菴先生文要序」(鄒元標『願學集』巻4)

伝記史料(1):王時槐「塘南居士自撰墓誌銘」(『友慶堂合稿』巻7)

予姓王氏、名時槐、字子植。其先出唐吉州刺史諱順之、後世居吉之安福南郷金田下南塘。嘉靖間、始徙吉郡城、然不敢忘所自出也、故自號塘南居士云。父諱一善、邑庠生、初贈南禮部主客郎、加贈光禄少卿。嫡母劉氏、封太安人、贈宜人。生母姜氏、贈宜人。姜為楚湘陰著族、先大夫晩寓湘、姜宜人來歸、生予於湘陰之界市。

自幼先大夫親授句讀、解經義、漸習制擧文字、教以孝弟忠信、端身正行之大節。十歳、始自楚攜歸吉郡、劉宜人鞠之如己出。十六游郡庠、十九為廩生、二十五擧于郷、明年成進士、嘉靖丁未歳也。初除南兵部車駕主事、而先大夫捐世、服闋、例得補北、予以南請、復補前秩。陞本部職方員外郎、南禮部主客郎、任滿得請封、陞福建、漳南兵巡僉事。以勦倭有微勞、陞俸一級。在漳五年、頗殫心力、竟為言者所中歸。丁姜宜人憂、服闋、補蜀之下川南分巡僉事。陞尚寶少卿、留本司卿、太僕少卿、復為言者所中、改光禄少卿。丁劉宜人憂歸、服闋、仍補光禄。穆皇登極、覃恩得請封、陞陝西參政、分守關西、抵任甫三月、遂引疾乞休、奉旨准致仕、隆慶辛未冬十月也、時予年五十矣。萬暦辛卯九月、詔起貴州參政、陞南鴻臚卿、倶未赴任、尋陞南太常卿。具疏懇辭、奉旨有清修恬尚之襃、准以新銜致仕、壬辰春三月也、時年七十一矣。

自弱冠師事兩峰劉先生、請事聖學、已而入仕、雖以其鈍功所及、求質于一時諸先覺、切磋于四方良友、精神所注、未敢荒昧、顧迹渉塵鞅、迄無專力。以是五十而未有聞焉。及退休、大懽齒衰、惕然慚悚、則悉屏絶外紛、反躬密體、瞬息自勵、如是者三年、若有見于空寂之體、又十年漸悟于生幾微密、不渉有無之宗、以為孔門求仁之旨、誠在于此。蓋始者由釋氏以入、浸漬躭嗜、如酲初醒。已乃稍稍疑之、試歸究六經、實證於心、則如備嘗海錯、而後知稻梁之不可以易。以自迷自反、屡疑屡悟、僅僅漸通、非襲人唇吻而得、故卒之眞、若憬然有窺于孔子之道之為大中、遵信而不忍少悖。因嘆世儒膠訓詁、牿形器、雖名尊孔子、實則未知之。乃至尊釋氏者、則叛孔子、亦安得為智也。始者、竊喜釋氏生死之談、至是若有信於晝夜通知之理、無足驚詫者、而後學定而無餘惑。嗟夫、誠資下錮深、而覺之大晩矣。予既老無他營、惟以孔孟正學、與郡邑諸同志、時時聚於西原、青原、復眞、元陽之間、毎自苦意見造作之為障、而居安達順之未易能也。故汲汲求友冀交助、而相成誠、沒齒未少懈焉。

初娶廬陵東門陳氏、早卒、贈宜人。繼娶水西鄒氏、年六十七而卒、封宜人。生子一曰景明、郡庠生、年二十三而夭。遺所生女一、適廬陵邑庠生葉日濚。側室陳氏、生子一曰景憲、年三十二而夭。鄒宜人重慮艱嗣、復為置側室、螺湖黄氏、生子一曰景衡、郡庠生、娶吉水毛氏、少保大司馬東塘公之孫女、上林丞諱楠之女。衡之生也、鄒宜人育之篤愛、不啻己出、人多其賢。衡年二十一、毛氏年二十三倶卒、所生男一曰允方、聘廬陵賀氏、予同年憲副少龍公之孫女、鴻臚序班諱一模之女。

予初未有著述、年六十三、偶出『三益軒會語』、七十以後出『仰慈膚見』『瑞華剩語』『靜攝寤言』『朝聞臆説』、及『存稿』『續稿』、誤為同志相知者梓行之。

生、嘉靖壬午七月二日。卒某年月日。享年若干。墓在某地某山某。向自以徳薄不可以辱大賢名筆、乃手書生平履歴之概、虚其卒葬以俟補填、付孤孫、俾刻石納于壙中。銘曰:

孰成毀乎、孰初終乎、孰抱一以遊無窮乎。渾渾爾、繩繩爾、徧界也。莫知邊畔、歴劫也。莫知底止、惟大化以為徒庶。允契於斯語。


此志銘撰于萬暦十六年戊子季夏九日、時先生年六十有七也。後、乙未迄癸卯、歳有改訂。甲辰以後、不復經筆矣。先生卒萬暦三十三年乙巳十月初八日卯時、享年八十有四。三十八年正月、内中丞衛公、侍御顧公會題、請諡尚、俟部覆焉。門人廬陵賀沚綴補。

伝記史料(2):「太常王塘南先生時槐」(『明儒学案』巻20、江右王門学案5)

王時槐字子植、號塘南、吉之安福人。嘉靖丁未進士。除南京兵部主事、歴員外郎﹑禮部郎中。出僉漳南兵巡道事。改川南道。陞尚寶司少卿、歴太僕﹑光祿。隆慶辛未、出為陝西參政、乞致仕。萬暦辛卯、詔起貴州參政、尋陞南京鴻臚卿﹑太常卿、皆不赴、新銜致仕。乙巳十月八日卒、年八十四。

先生弱冠師事同邑劉兩峯、刻意為學、仕而求質於四方之言學者、未之或怠、終不敢自以為得。五十罷官、屏絶外務、反躬密體、如是三年、有見於空寂之體。又十年、漸悟生生眞機、無有停息、不從念慮起滅、學從收斂而入、方能入微、故以透性為宗、研幾為要。

陽明沒後、致良知一語、學者不深究其旨、多以情識承當、見諸行事、殊不得力。雙江、念菴舉未發以救其弊、中流一壺、王學賴以不墜、然終不免頭上安頭。先生謂:「知者、先天之發竅也。謂之發竅、則已屬後天矣。雖屬後天、而形氣不足以干之。故知之一字、内不倚於空寂、外不墮於形氣、此孔門之所謂中也。」言良知者、未有如此諦當。

先生嘗究心禪學、故於彌近理而亂眞之處、剖判得出。夏樸齋問:「無善無惡心之體、於義云何?」先生曰:「是也。」曰:「與性善之旨同乎?」曰:「無善乃至善、亦無弗同也。」樸齋不以為然、先生亦不然樸齋。後先生看『大乘止觀』、謂「性空如鏡、妍來妍見、媸來媸見」、因省曰:「然則性亦空寂、隨物善惡乎?此説大害道。乃知孟子性善之説、終是穩當。向使性中本無仁義、則惻隱﹑羞惡從何處出來?吾人應事處人、如此則安、不如此則不安。此非善而何?由此推之、不但無善無惡之説、即所謂『性中只有箇善而已、何嘗有仁義來』。此説亦不穩。」又言:「佛家欲直悟未有天地之先、言語道斷、心行處滅、此正邪説淫辭。彼蓋不知盈宇宙間一氣也。即使天地混沌、人物銷盡、只一空虚、亦屬氣耳。此至眞之氣、本無終始、不可以先後天言。故曰:『一陰一陽之謂道』。若謂別有先天在形氣之外、不知此理安頓何處?蓋佛氏以氣為幻、不得不以理為妄、世儒分理氣為二、而求理於氣之先、遂墮佛氏障中。」非先生豈能辨其毫釐耶?高忠憲曰:「塘南之學、八十年磨勘至此。」可為洞徹心境者矣。

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