カール・マルクスの階級觀批判

高畠素之

(一)

私は曩に『階級の概念と其近世的體現』(『解放』三月號)と題する一文を草し、中に階級の概念を決定して次の如く言つた。『階級とは、同一社會内に搾取と被搾取、又は支配と服從との優劣關係を構成して對立せる社會團體を云ふ。』今、此概念に照してマルクスの階級觀をざつと論評して見る。

マルクスの名著『共産黨宣言』は『從來に於ける一切社會の歴史は、階級鬪爭の歴史である』との斷案に筆を起してゐる。然るにマルクスは抑々階級なるものを如何やうに解してゐたか。マルクスの所謂階級とは何かと云ふ問題になると、彼れの頭は遺憾乍ら頗る混亂してゐたやうに見受けられる。

『階級を構成するものは何か』――マルクスの大著『資本論』第三卷は此問を以て中挫してゐる。マルクスは結局、之れが解答を與へなかつたのである。之れに就て我々がマルクスから學ぶ所は、階級の概念は單なる社會團體の概念と混同すべきでないと云ふ事だけである。醫師社會と官吏社會とは夫々異れる社會團體であるが、決して階級と云ふ事は出來ぬ。社會的分業は社會の階級組成とは全く異なるものである。原始社會にも既に職業分化の初徴は現はれてゐる。然し原始社會は決して階級社會とは申されない。將來の社會主義社會に就ても同じ事だ。社會主義社會に於ては、階級は廢止されるであらうが分業を廢するといふことは無いであらう。

要するに我々がマルクスから學ぶ所は、如何なるものが階級ではないかと云ふ事である。反對に、階級とは如何なるものかと云ふ事に就ては、マルクスは『資本論』に於ても其他の著述に於ても、何等明確なる概念を與へて居らぬ。しかのみならずマルクスは階級と云ふ言葉を、種々樣々の、甚だしきは全く矛盾せる如く見ゆる意義に使用してゐる。

(二)

一例を擧ぐれば、マルクスは其著『獨逸に於ける革命及反革命』中で、革命勃發當時の獨逸國民は、封建貴族と、ブルヂオアと、小ブルヂオアと、大中地持農民と、小自由農民と、封建的小作農民と、農業勞働者と、工業勞働者との諸階級から成つてゐたと言つてゐる(一)。即ち當時獨逸には、八種の階級があつた譯である。二月革命中及び其後に於ける佛蘭西に就ても同樣に、マルクスは多數の階級を區別し、就中小ブルヂオアと小地持農民との兩階級が演じた社會的役目に對して特別の注意を拂つてゐる。極小地持農民(パルツエレンバウエル)に就ても、マルクスは之れを特殊の一階級と認め、帝政成立の上に決定的役目を演じたものとしてゐる。彼れは曰く、『ボナパルトは一階級を、而も佛蘭西の社會に於ける最も成員多き階級たる極小地持農民を、代表せるものである』と(二)

(一)『獨逸に於ける革命及反革命』一八九六年獨逸版、第七―一一頁
(二)『ルイ・ボナパルトのクーデター』一八八五年版

然るにマルクスは同じ著書の中で、極小地持農民なるものは或意味に於て階級とは認められぬと言つてゐる。彼れは曰く『幾百萬の家族は、其の生活樣式、其の利害及び其の教育をば他階級の夫れと分離對抗せしむる經濟的生存條件の下に生活する限りに於て、一階級を構成するものである。極小地持農民達の間に存するものが單なる地方的聯絡のみであつて、利害の共通に依り彼等の間に何等の共同關係、何等の國民的結合、何等の政治的組織生ぜざる限り、彼等は何等の階級を構成するものでない』と(三)

(三)前掲書、第九八頁。

斯くの如く、マルクスの見る所に依れば、極小地持農民なるものは或意味に於ては階級たらず、或意味に於ては階級たるものである。要するに、彼等は階級であるのか無いのか分らぬと云ふことになる。

だが、『利害の共通が彼等の間に何等の共同關係、何等の國民的結合、何等の政治的組織をも生ぜしめざる』が故に、極小地持農民は階級でないとすれば、小ブルヂオアの階級的資格も亦怪しくなつて來る。三月革命當時に於ける獨逸の小ブルヂオアは獨立の政黨を組織する力がなかつた。彼等は此點に於て、佛蘭西に於けるルイ・ナポレオン當時の極小地持農民と、少しも違はなかつたのである。即ち小ブルヂオアも亦、『或意味に於ては』階級でないと云ふ事になる。斯くてマルクスが近世社會の裡に發見せる幾多の階級中、滿足に階級の資格を備へてゐるものは幾許も殘らぬ事になつてしまひ、我々は結局アダム・スミスの分類に從つて、地主と資本家と勞働者との三階級以外の階級を近世のブルヂオア的社會内に認めることが出來なくなるやうに見える。否、之れでもまだ充分でない。勞働者の階級的資格が抑も問題だ。

マルクスは幾度びか勞働者を、プロレタリアを、特殊の一階級として取扱つた。然しながら右にいふ如く、農民や小ブルヂオアが或意味に於て階級でないとすれば、それと同じ理由でプロレタリアも亦其發達の一定段階以前に於ては階級でないと云ひ得るのである。現に『共産黨宣言』その者が、當時プロレタリアはまだ階級でなかつた事を認めてゐるではないか。即ち此宣言に曰く。――『共産黨の直接の目的は、他の總てのプロレタリア黨の目的と同じく、プロレタリアを階級たらしむるに在る』と。又曰く、『プロレタリアを階級隨つて政黨に組織せんとの企圖は、勞働者自身の間に行はるゝ競爭に依つて、絶えず又破碎される』と(四)。果して斯くの如くんば、プロレタリアを階級たらしむることは、尚いまだ達成せられざる目的と見るの外はない。即ちプロレタリアなるものは、少なくとも當時に在つては未だ階級を構成して居らなかつたと云ふ事になる。

(四)『共産黨宣言』一八九一年刊、第一六及一八頁。

(三)

マルクスの階級觀は斯樣に驚くべき自己矛盾に陷つてゐるのであるが、マルクス自身の腦裡には斯る矛盾を矛盾たらしめざる論據が無意識的になりとも存してゐたものと解されぬでもない。例へば彼れは其著『哲學の窮乏』中に斯う言つてゐる。『多數の人民を最初勞働者化せしめたるものは經濟事情である。資本に依る支配は、之等の人民の上に共同の位置、共同の利害を造り出した。斯くて彼等は資本に對しては、既に一階級たりしものであるが、彼等自身としては未だ階級でなかつた。我々が既に其二三の段階のみに就き特徴を示した爭鬪に於て、彼等は互に結合し、彼等自身としても階級を構成するに至るのである。彼等が擁護せる利害は、階級的利害となる。されど階級に對する階級の鬪爭は、一の政治的鬪爭である』(五)。之れはブルヂオアに就ても同樣である。マルクスはブルヂオアの發達を二箇の段階に區別してゐる。即ち『一は、ブルヂオアが封建制と專制君主制との支配下に階級を成すに至つた段階、他は既に階級を構成し、社會をブルヂオア的一社會たらしむべく封建的支配と君主制とを顛覆せる段階これである。右の中第一段階は其期間より長く、且より大なる努力を要したものである』(六)

(五)『哲學の窮乏』一八八五年獨逸版、一八〇頁。
(六)前掲書第一八〇頁。

斯くの如く、社會階級なるものは、其發達中二箇の段階を通過する。即ち最初は、それ自體としては階級たらず、たゞ他階級に對してのみ階級となり、次にはそれ自體としても階級を構成するに至り、斯くて一社會團體の階級成立は完成されるのである。依是觀之、曩に知れる如くマルクスが極小地持農民に對して階級的資格を否認せるは、彼等がそれ自體としては階級でないと云ふ事を言はんとしたものに違ひない。又場合に依つて彼等を階級扱ひしたのは、他階級に對しては既に階級であつたと云ふ意味であつたに違ひない。同樣に、プロレタリアも『共産黨宣言』起草の當時、ブルヂオアに對しては既に階級を成してゐたが、それ自體としては未だ階級でなかつたのである。

斯くの如く、階級形成段階を對他的と自立的とに兩分する見解は、思ふにヘーゲルの純粹實在論に立脚せるものであらう。蓋しヘーゲルに依れば、純粹實在なるものは、自己を否定するに依つて他の爲の實在となり、更らに此否定を否定するに依つて自己の爲の實在となるのである。マルクスが同一の社會團體を目して、或場合には之れを階級なりと云ひ、或場合には又之れを階級ならずと云つたのは、畢竟するに、此團體の通過せる異れる發達段階の立場から之れを批判せる結果である。

(四)

斯く解する時、マルクスの階級觀の矛盾として現はれた所は實は論理上の矛盾ではなく、寧ろ言ひ現し方の不用意に基けるものであることが分る。マルクスに依れば、社會階級なるものは宇宙間に於ける一切の事象と同じく發達上の法則に從ふもので一階級の各發達段階は他の段階の有せざる決定的特徴を保有するものである。階級鬪爭は常に政治的鬪爭なりとは、マルクスの強調せる所であるが、之れは未だ構成せられざる階級と階級との代表者間に生ずる衝突に就ては當て嵌らない。二月革命以前に在つては、プロレタリアは政治部面に何等の大なる役目を演じて居らなかつた。而も資本家と勞働者との衝突は、資本制生産方法と等しく古いものである。個々の勞働團體が同盟罷工を行つても、それはまだ階級鬪爭とは申されぬ。隨つて、それは政治的鬪爭ではない。階級が構成せられざる限り、其代表者達が他階級の利害とは對立せる共同の利害に立つ所の固く結合した一團であるとの自覺を有するに至らざる限り、斯る衝突には尚未だ階級鬪爭の特徴が缺けてゐるのである。さればこそ、マルクスは『共産黨宣言』の中で、『勞働者の幾多の局部的鬪爭を集中して一箇の階級鬪爭たらしめ』、或は――畢竟同じ事に歸するが――純經濟的衝突をば政治的鬪爭に轉化し、プロレタリアを『階級隨つて政黨』に組織するは、共産黨の最も重大なる任務なりと言つてゐるのである。

階級と單なる社會團體との區別は先づ、種々異れる社會團體の經濟的利害は互に一致するを得るが、一階級の經濟的利害は他階級の夫れと必然的に對立すると云ふ點に存してゐる(七)。然らば階級的社會の決定的特徴たる、斯くの如き必然不可避なる利害對立の基礎を成すものは何であるか?之れに對するマルクスの解答は簡單明瞭である。曰く、一切の階級的對立は、若干の社會團體が他の社會團體の剩餘勞働を占有すると云ふ點に存ずる所の、近世社會の基礎的對立を言ひ現はしたものに外ならぬ。されば、社會の階級組成なるものは、各時代に專ら行はるゝ對抗的生産方法の社會的一表現であつて、不拂剩餘勞働の存ずる限り、社會は其の階級的性質を失はないのである。

(七)カウツキー稿『階級的利害――個別的利害――共同的利害』ノイエ・ツアイト誌、第一一卷、第二册、第二四一頁。

原始社會には剩餘勞働なるものが無かつた。隨つて、原始社會には階級的性質が缺けてゐた。勞働者から剩餘勞働を汲み取る事は、何等かの種類の強制に依つて始めて可能となるのである。而して斯る強制こそ、搾取者と被搾取者との間に行はるゝ避け難き利害衝突を指示するものである。斯くして階級的社會は成立する。

以上説く所を基礎としてマルクスの階級概念を綜合して見るに、マルクスは階級なるものを結局次の如く解してゐたやうに見える。曰く、階級とは、若干の社會團體が他の若干の社會團體の剩餘勞働を占有する過程に於て互に類似の一地位を占め、其の結果、共同の經濟的利害と共同の對敵とを有するに至る人々より成る一の社會團體を云ふ。要するにマルクスの階級概念の根柢に成すものは、搾取被搾取と云ふ一點に盡きてゐる。マルクスに依れば、此搾取被搾取の對立に依つて制限された社會團體が則ち階級なのである。

(五)

そこで此の階級觀をば、冒頭に掲げた私の階級觀と比較する時如何なる異同が見出されるか?先づ階級なるものを單なる社會團體にあらずして、特殊の性質を帶びた社會團體と見る點は兩者に共通してゐる。次に斯る特殊の性質として搾取被搾取の對立を持出した點も共通してゐる。たゞマルクスは搾取被搾取の對立のみに注目せるに反し、私は其の外に尚支配被支配を持出してゐる。之れは兩者の歴史哲學觀の相違に基くものであつて、マルクスの唯物史觀から云へば支配被支配なる概念は搾取被搾取なる概念中に包含せらるべきものである。私は此點に於ても唯物史觀の立場を取らない。之れに就ては何づれ稿を改めて詳述するつもりであるが、此際一應私の立場を明かにして置く必要があるので前掲拙稿中から左の一齣を引抄する。

『政治的階級と經濟的階級との構成者が同一の社會團體なる事即ち搾取階級は同時に支配階級であり、被搾取階級は同時に支配階級であり、被搾取階級は同時に服從階級である場合は、屡々見られる所である。

『けれどもかゝる結果は或條件の下にのみ實現さるゝものであつて、右二對の階級が直ちに本質上同一物であるとの斷定は成り立ち得ない。蓋しかゝる斷定は、兩階級對立の發生過程と各階級成員の心理上の反映とに就て考ふる時、容易に顛覆せらるゝ事となる。元來、支配階級の原始的發生は、社會的分業の形態として端を開いたものである。原始人の一群中に特殊の能力を抱ける者が現はれ、其の能力の發揮が此の群全體の欲求に一致した場合、彼は從來の一般的なる生活を更めて、特殊の動作に出づる事となる。是れ即ち社會的分業で、其の原始的なる種類は魔術師、祈祷師、武將等であつた。彼れの此の地位は全群をして彼れの命に聽從せしむる事となる。こゝに政治的階級の端は開かれたのである。此の支配者が若し自ら經濟的欲望を旺盛にし自己の特權を利用して、搾取の行爲に出たとするか、或は他に搾取階級が出現して此の支配者の地位を奪ふなり此の支配と抱合するなりするとすれば、搾取と支配とが一體となり、二種の階級對立は同一の構成者に依つて存在する事となるが、それは斯くなるべき條件の下に於ける一變化の結果たるに過ぎぬのである。

『更に之を心理的に觀察すれば、政治的階級の獨立なる存在が一層明かとなる。蓋し、人類の欲望は、之を順次單純なる形態に約元して行く時、食慾、性慾、優勝慾の三欲望のみの時代に到達することゝなる。而して支配の欲望は優勝的欲望の手段として、かゝる原始的形態の欲望より直接派生し來つたものである。

『他方、現在に於ける資本家の心理に就て考へても、搾取は經濟的欲望の充足に基くものではなく、搾取に依つて得らるべき蓄積を他に誇示せんとする優勝の欲望に基くものである。搾取が若し單に經濟的欲望に因るものとすれば、有限なるべき經濟欲の爲めに無限の蓄積は必要でない。他を凌駕する事を條件とする優勝の心理に出づればこそ、蓄積の願望は必然無限に進む事となるのである。

『若し、支配に對する欲望が、搾取に對する欲望より派生したものであるとすれば、支配は搾取より派生する所であり、隨つて政治的階級は經濟的階級の反映に過ぎずとの見解に一根據を投ずる事となるが、支配と搾取との欲望は、等しく優勝の欲望より對立して派生したものであつて、二個の欲望は各々獨立せるものなる事を考ふれば、支配も亦搾取より獨立して存在し得べく、隨つて政治的階級と經濟的階級とは本質上相互獨立せるものと見られるのである。』

(六)

マルクスの階級概念と私の階級概念との差異は、單に右の如く支配被支配を搾取被搾取と對立させるかさせないかと云ふ點に盡くるものではない。今一つ著しい差異がある。それは、マルクスは搾取被搾取の對立を有する社會團體を直ちに階級と見たるに反し、私は其上に尚『同一社會内』と云ふ制限を與へてゐる。即ち搾取と被搾取(又は支配と被支配)との優劣關係はそれが同一社會内に成立する場合に限り、階級構成の要素となるのである。然るにマルクスは此點を全然無視してゐる。

尤も『同一社會』と云ふ用語は聊か不完全である。之れを更らに嚴密に言ひ換へるならば、『組織ある同一の社會』は又『同一の組織を以て統合せられたる社會』と云ふことになる。然るに組織なるものは權力に依つて表現せらるゝものであるから、右は更に『同一の權力に依つて統一せらるゝ社會』と云ふ事になり、結局『同一の國家』と云ふが最も手取り早い事となる。但し斯く云ふに就ては、前提として國家の意味を『組織ある、又は權力に依つて統合さるゝ社會』と解すべきは勿論である。

思ふに階級の存立は、其背後に之を支持すべき權力の存在することを條件とする。なぜならば、支配階級と搾取階級とは、被支配階級と被搾取階級とに比べて成員の數少なく、隨つて其物理力は遙かに微弱である。それにも拘らず、彼等が尚且つ物理力の行使を要すべき支配及搾取を繼續し得るは、要するに權力の支持を背景とするからである。換言すれば、權力なるものが一方の社會團體に支配及搾取を許容し、他方の團體に服從及被搾取を強要するのである。

然らば權力の實體は抑も何ぞ。之れは別個の問題に屬するがついでながら簡單に一言して置く。曰く、權力の實體は組織された社會意識である。或は組織された社會規範と言つても宜い。要するに、社會成員が、全成員の欲求なりとして意識せる對象である。換言すれば、各個の成員が、自己以外の一切成員の欲求なりとの意識を以て抱く觀念これである。此觀念上の對象に當面する時、人は何づれも羊の如く從順となるの外はない。蓋し之れに反抗するは、自己一人を以て全成員に反抗する事になると思惟するからである。

右の觀念は、其内容が錯誤に出づる場合と雖も、換言すれば社會の全成員が事實に於ては斯樣な欲求を抱いて居らぬ場合と雖も、實際抱いてゐるやうに各人の主觀に意識さるゝ時は、斯る欲求が事實に於て存する場合と同一の壓力を以て各人を屈從せしめるのである。之れは丁度、お伽噺に出て來る馬鹿王樣の家來達に於けると同一の心理である。王樣は裸體にて坐し我衣は不忠の臣の目には見えないと云ふ。群臣一人として王の衣を見ないが、誰れも彼れも見えるやうな顏付をしてゐるので、みな自分ばかりが見えないものと思込み謹んで王の衣の美しきを讃美したと云ふ。社會意識も亦斯種の嘘から出た眞たる場合が多い。我々は之れを、社會意識の魔術性と呼ぶ。

社會意識が全成員の組織ある批判力に投影せらるゝ時、茲に始めて權力となるのである。而して曩に説ける如く、階級成立の基礎たる支配及び搾取の存續し得る所以は、優勝團體が此權力に支持さるゝ物理力を行使する結果に外ならぬ。

されば、支配團體と被支配團體、搾取團體と被搾取團體とが斯る權力に依つて統一された同一社會内に於て對立するに非ざる限り、それらの團體は決して階級的に對立するものとは云へない。英吉利の支配者は日本の被支配者に對しては階級たらず、日本の資本家は佛蘭西の勞働者に對しては階級を構成しないのである。

總ての階級鬪爭は其根底に於て政治的鬪爭であると解したマルクスが、階級概念の決定に於て斯る重大の一要素を見逃がした事は驚くべき錯誤と云はねばならぬ。なぜならば、彼等が階級鬪爭を政治的鬪爭と解したのは、國家は階級支配の一器官であり、而して被搾取階級はたゞ政治的革命に依つてのみ自己を解放し得ると信じたればこそである。階級支配の存立上かくも重要なる國家を、彼れは何故階級概念の決定に算入しなかつたのであらう乎。


(マルクスの見解を叙述せる部分はすべてツガンバラノウスキー著『マルクス主義の理論的基礎』に依る)


底本:『改造』第三卷第六號(大正十年六月)

改訂履歴:

公開:2006/01/21
最終更新日:2010/09/12

inserted by FC2 system