丸を握つて

高畠素之


私にとつて最も切實な問題は、私の心に發動する諸欲望の中で最も切實に力強く擡頭したものを充足せしめることである。然らば如何なる欲望が私にとつて最も痛切に發動するか、といつたところで、そんなことは時と場合に依ることだから一概には斷定できない。毎日にも變はれば、一日の中にも走馬燈の如く千變萬化する。いま此雜文を書ゐてゐる一刹那についていへば、早く結論まで書きなぐつてしまふことだけが、私にとつては唯一の切實な問題だ。

いま少し大きな期間を標準としていへば、現在やりかけてゐる仕事を一刻も早く片づけて、せいせいした氣分になり、ゆうゆうと次の仕事の段取りに入りたいといふことだ。然しそれ迄の間には、また色々な欲望が發動して來て、瞬間的には屡々このヨリ永續的な欲望を壓伏してしまふ。腹がすけば、食ひたいといふ欲望が最も切實で、その瞬間には仕事もへちまもない。國家もマルクスも陰が薄くなつてしまふ。性慾の發動についても同樣だ。

然しそんなことを考へてゐる時に、たまたま癪に障つた野郎でも現はれて來ると、空腹や性慾にも發動の餘地を與へないほど緊張して、何はさて措きその野郎をやツつけてといふ欲望が最も切實に發動して來るといふやうなこともある。これは鬪爭慾とでもいふか、優越慾とでもいふか。思惟に熱中した瞬間や、芝居、キネマ、雜談、酒(これは餘りない)、犬の仕合などに沒頭した瞬間も、略々同じ。これは知識慾、藝術慾、趣味慾とでもいふか。

斯くの如く、それぞれの瞬間に最も強く發動した欲望を充足することが、私にとつて最も切實な問題だとする意味に於いて、私も一個の刹那主義者だらうが、然し私にも何か斷續的ながら最も長期的に本質的に一貫した欲望があるらしくも思はれる。これは私の有つてゐる主義主張を實現させたいといふ欲望だともいひ得るであらうが、これも欲望としては一種の優越慾に屬せしむべきであらう。

餘談はさて措き、前號中村還一君の文章を見ると、死んだ村木源次郎君が賣文社の樓上で僕にピストルをつきつけたとか書いてあるが、これはとんでもない誤報で、こんな事をいはれたんでは第一、死んだ村木君の靈魂も浮ばれまい。

村木君が片手に蓮根をぶらさげ、片手に數個の實彈を握つて賣文社に僕を訪れたことはある。ピストルをつきつけたなんでいへば、發射を豫想することになるが、丸を丸藥のやうに握つてゐたのでは、つきつけやうもあるまい。思ふに、村木君の素振りでは、何しろ實彈もこれ此通りあることだから、これをいくらかに買つて貰ひたいといふにあるらしかつた。然し蓮根では話のしようもなく、いい加減にお茶を濁された次第だが、その後このピストルは何處へやらの警察でお買ひ上げになつたといふ噂が傳へられた。


底本:『改造』第七卷第九號(大正十四年九月。「私の切實な問題」中の一つ)

改訂履歴:

公開:2006/04/16
最終更新日:2010/09/12

inserted by FC2 system