ストライキの新戰術―特に交通勞働の諸君に―

高畠素之


正月初め阪本孝三郎君その他數氏が來られて、こんど機械勞働聯合會日本勞働組合聯合等が結合して日本勞働組合總聯合といふものを造ることになつたから、その顧問のやうなものになれとの事であつた。阪本君とは古くからの知り合ひであり、且つ同行數氏もみな感じの良ささうな人々のみであつたから、別に立ち入つたこともお訊ねせず、それは可いでせうと答へて置いた。

ところが例の山崎今朝彌君から、解放二月號に此總聯合のことについて何か書けと言つて來た。書けといつたつて、別に何も知らないのだから書ける筈がない。何も知らない會の顧問を承諾するなんて、隨分無責任な野郎だと言はれれば、アアさうでしたかと引つ込むの外はないが、何か書けと言はれても他の雜誌なら目下お籠り中で事が濟むが、解放だけはそれでは胡魔化し切れない義理合ひがある。それで仕方がないから規則書のやうなものでもあつたら送つてくれと言つてやつたら、綱領や宣言の草案を送つてくれた。

この草案には、別に目新らしい文句も見當らぬ。大體に於いて書くべきものを書いたといふに過ぎないやうである。『他國の事實に對する盲目的贊美迎合』『理想的色盲的急進論』より來る現實否定を戒めた點や、階級鬪爭を認めつつ、而も其行程の極めて『複雜』なるべきことを主張した點などが、ちよつと目新らしいかなと首をひねらせただけである。

然し勞働運動は帽子や猿股とは違ふのだから、古からうと新しからうと、そんなことには一向頓着せず、ひたすら實力本位で進んで呉れればそれで充分結構な譯である。

ただ一言、これは問題の總聯合に限らず總べての勞働運動について申上げたいことだが、勞働者の要求に『勞働條件の改善』が含まれることは當然でもあり、已むを得ないことでもあるが、理想的主張は兎もかく單に實際政策の上だけから言つても、一方に勞働條件の改善を要求するからには、他方に物價調節に關する主張を確立しないでは、『大衆の抱擁』を期するやうな勞働運動の達成は到底望まれないと思ふ。

賃金の増加にしろ、勞働時間の短縮にしろ、工場設備の完成にしろ、これらの事は總べて結構であるが、然し斯種の改善に伴ふ一切の負擔は決して資本家の利潤の中から補償されるものではない。資本家は之を生産費に組入れてしまふものである。而して生産品の價格といふものは、この生産費(平均利潤)を規準として決定されるものであるから、勞働條件が改善されれば、他の條件に變化なき限り、それだけ物價は昂騰することを免れない譯である。

物價は昂騰しても、贅澤品の場合にはそれが直接プロレタリアの生活を脅威することはないが、米とか味噌とか、木綿とか、電車とか、圓太郎とかいふやうな生活必需品になるとさうでない。電車從業員の賃金が増加すれば、それが電車賃値上げの口實に利用される。電車を利用するのは、多くプロレタリアである。ブルヂォアには自動車もあれば、馬車もある。プロレタリアが朝夕芋のやうに押しつ揉まれつして、電車に苦しめられることを道樂だと思つてはいけない。プロレタリアにとつては、精々割引電車以外には利用し得べき交通機關がないのだ。その運賃が一錢上げられても、それは彼等にとつては非常なる生活脅威である。

勞働運動の先覺者は、其處のところをよく考へないといけない。勞働條件の改善は、勞働者の要求としてはまことに無理からぬことではあるが、その反面に一般プロレタリアの生活脅威を伴ひ得る可能があることを忘れてはならない。自分たちの賃銀が増え、勞働時間が短縮されさへすれば、それで可いのだといふやうな、狹い意味の階級利己心が鼻につくやうでは、『大衆の抱擁』なんか到底望まれる譯のものではない。

そこで一方に、勞働條件の改善を主張する以上は、他方に必らず生活必需品の價格調節といふことを政策の中に含めなければならない。生活必需品の價格調節は、物價公定制まで行かなければ嘘だとは思ふが、そのことは暫く別として、兎に角物價調節の政策を伴はない勞働條件の改善は、底のない釣瓶で井の水を汲み出さうとするやうなもので、如何に大きく立派に出來てゐる釣瓶でも底ぬけでは役に立たない。

この考へ方は、勞働運動の作戰上にも非常に影響して來る。勞働組合がたゞ自己の勞働條件の改善のみを以つて爭議に沒頭する限り、勞働組合は決して無産大衆の支持同情を背後に有つことは出來ない。電車從業員が勞働條件の要求を持ち出して容れられず、罷工を斷行したとする。電車が動かない。然るに電車を利用するものは、前に述べた通り多くプロレタリアである。南千住から品川の果てまで、朝夕割引で揉まれて通はなければ貧弱な玄米めしですら食ふことの出來ないといふプロレタリアにとつては、電車の運轉休止は如何ばかりの生活脅威であらう。そこで電車が止まれば、彼等の憤懣は必らず從業員の『不埒』に向つて集中する。ブルヂォアは又、此心理を利用して『市民の迷惑』を強調する。此場合、市民の迷惑が、單にブルヂォアの利用口實のみだと思つてはいけない。實際、市民が――少くともプロレタリア市民が迷惑するのである。

電車の場合には、これが最も端的に現はれるが、他の生活必需品にあつても、結局は同じことである。そこで斯ういふ心理の必然を最初から念頭に置いて、爭議の起りさうな場合には、必らず先づ市民なり一般民衆なりに向つて組合の要求の已むを得ざる所以を訴へ、若し此要求が容れられたとき、資本家側がそれに依つて生ずる負擔の増加を物價に轉嫁するやうな傾向が見えた場合には、一般民衆に卒先して組合がこれに反對するといふ誠意を示さなければならない。電車從業員の要求が容れられた曉に、市當局がそれを口實にして電車賃を値上げするやうな擧に出でた場合には、其時こそ從業員が卒先して反對の火蓋を切るといふ斷言を以て、先づ市民に訴へることが重要である。

勞働者は生産者だからといつて、生産者本位の政策にのみ終止する間は、組合運動が大衆の抱擁をなすなどといふ事は絶對に不可能である。大衆の直接共通的な特徴は無産者たることにある。無産者とは貧乏人といふことである。貧乏とは錢がないといふことだ。錢がない奴に一錢でも多く錢を取らせることも一方法だが、この方法の效果は直接全大衆には行き渡り得ない。錢は無いから無いなりに、消費品を安くするといふ方法なら、如何なる消費品の場合にしろ、直接全大衆に影響して來る。隨つて、此方法のみ、全大衆の共鳴と後援とを確保し得るのである。

私は生産者本位の組合運動を決して敵視したり、他人扱ひしたりするものではないが、この運動には必ず一面に於いて、消費者本位の考慮を伴はせなければならないと信ずる點に於いて、多くの勞働者の主張には飽き足らなく思ふ所がある。私としてはこの行き方を例の國家社會主義の原則に結びつかせてゐるつもりだが、原則を持ち出すと厭がる人があるから、原則から引き離しても、私の言ふことに成るほど一理あると思つたら、世の組合運動者よ!これは高畠が言ふのではない、天が言ふのだと思つて熟考して呉れ、尚、『文化生活』三月號にも、類似の題目について取扱つてゐるから、參考に見たい人は見て貰ひたい。

(見出しは山崎が勝手に變造したもの)

附言。この雜文はマルクスの『價値、價格、利潤』に反對するつもりで書いたものではない。マルクスは賃銀が上つて物價が上つても、結局は資本の移動で舊態に復することを論じたので、それは其通りだが、賃銀が上る結果、一時的にしろ物價が上ることは、マルクスも認めてゐる。僕のこの雜文は『其一時的』を限界にしてのヨリ現實切迫な議論であることを斷つて置きたい。其日暮しのプロレタリアにとつては、一時の苦痛も永遠の煉獄に値するから。


底本:第二次『解放』第五卷第三號(大正十五年三月)

改訂履歴:

公開:2008/05/07
最終更新日:2010/09/12

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