勞働價値説の崩壞―マルクス價値説批判文獻(一)―

高畠素之


マルクス價値説の論討は、最近における我國學界の注目すべき一現象であつた。私は此問題について提出された諸家の論究に對しては、充分の尊敬と注意とを以つて一々これを精讀することに努めてゐるが、精讀の都度いつも深く感ずることは、何づれの論者の提説にも、必らず大なり小なりの眞理が含まれてゐるやうに考へられることである。私は何づれの論者に依つても、積極的に教へられる所が少なくなかつた。そして斯樣に教へられることが一つでも多ければ多き程、それだけ益々私の見解は豐富に培養される譯であるから、此意味に於いて自説の主張に急ぐよりも、先づ一つでも多く他人の提論を吟味し咀嚼することに努めなければならない。斯う云ふ考から、私は最近マルクス價値説に關する外國諸家の論究を新たに渉獵し始めた。其渉獵の結果を、これからポツポツ本誌に連載して行かうと思ふのであるが、本號には先づヴラヂミル・シンコヴイツチの説を紹介する。此説は大して優れた意見とは思はれないが、マルクスを豐富に引抄してゐる點に於いて、之れを最初に紹介して置くことが便利であらうと考へたのである。

マルクスは『資本論』第三卷の刊行に依つて、自己の價値論の無效を裏書することになつた。

そもそもマルクスの勞働價値説とは如何なるものであるか。それは、商品の生産に依つて體化された社會的に必要なる勞働時間が、商品の價値を構成するといふ事である。例へば或アメリカ印度人が一艘の獨木舟を造つて、それを一匹の獵犬と交換するといふやうな場合にも、果してマルクスの價値律は通用し得るかといふに決してさうではない。マルクスの研究の對象となつたものは、商品生産たる資本制生産と、此生産方法を支配する經濟上の法則とである。マルクス經濟説の特徴は既に此點に現はれてゐるのであつて、此點は實に彼れが其の先行正統派學者と軌を一にしなかつた所である。マルクスに依れば、經濟上の普遍律なるものは存在しないのであつて、寧ろ歴史上の各時代は夫れ自身の經濟律を有してゐるのである。(『資本論』第一卷、邦譯本第一册。序第二一頁)。隨つて歴史的に言へば、マルクス價値律の效力は現在に於ける資本制生産方法にのみ、商品生産にのみ限られることゝなる。

即ちマルクスの經濟説に於いて問題となるものは、時に應じて行はれる偶發的の交換ではなく、寧ろ勞働生産物たる商品、而も自家使用を目的とせず、市場を目的とし、加ふるに資本制生産に伴ふ全く限定された條件のもとに生産される所の商品である。我々はマルクス價値説を論究するに當り、先づ此、マルクス自身に依つて與へられた歴史的限定を念頭に置かなければならぬ。

所でマルクスは、商品の價値なるものは商品の裡に結晶してゐる勞働時間に依つて決定されるといふ主張について、如何なる論證を提出してゐるか。此歴史的に限定された極めて具體的の價値律を論證するに當り、マルクスは同樣に具體的にして限定された歴史的の觀察を以つてすることなく、寧ろ永久不變と見ゆる抽象的の論究を以てしたのである。彼れはアリストテレースも尚且つ敢てすることを恐れた一つの領域に踏み込まうとしたものと云ひ得るのである。アリストテレースは交換について大いに頭を惱ました。彼れは斯う立論したのである。――五個のベッドが斯々量の貨幣に等しいと云ふことは、五個のベッドが一軒の家に等しいと云ふことゝ同じである。そこで如何なる商品の價値も、勝手に選び出した他の何等かの商品の一定量に依つて言ひ現はし得ることになる。されど『交換は等一なくして生じ得るものにあらず、等一は又通約性なくして存在し得るものではない。』然るに各種の商品の如き、それぞれ明確に異つた物件は、如何にして之れを相互通約し得るであらうか。之れはアリストテレースの説明し得ざりし所であつた。彼れは斯くして、諸商品は質の上から見れば相互通約し得ざるものであり、交換に基く方程式なるものは要するに『實質上の目的に對する應急手段』に過ぎないとの結論に到着したのである。(『資本論』第一卷、邦譯第一册第五二頁)。

此論理上の問題は、當のアリストテレース自身ですら斯樣に斷念せざるを得なかつた所であるが、爾後優に二千年を經過したる今日、マルクスはアリストテレース式スコラ哲學の精神を以つて之を解決しようと試みたのである。

マルクスは1クオターの小麥=aハンドレッドウエートの鐵といふ任意の一方程式を以つて立論を開始してゐる。『此方程式は何を意味するか。それは同じ大さの一つの共通なる物が、二つの異れる物、即ち一クオーターの小麥と、ハンドレッドウエートの鐵との内に存在することを示すのである。故に此兩者は、それ自體に於いて小麥でもなく又鐵でもない、或る第三者に等しいのである。隨つて此兩者の各は、それが交換價値である限り、斯樣な第三者に約元し得るものでなくてはならぬ。』(前掲第六頁)

此立論は興味あるものである。マルクスは二商品の如何なる交換方程式も三つの物より成ることを力説したる後、此三つの中の第三に當るもの(即ち比較の標準たるべき第三の物)は何であるかを確めようとしてゐる。彼れは言ふ。――『この共通物は諸商品の幾何學的、物理學的、化學的、若しくは其他の自然的性質はあり得なり。諸商品の有形物的性質は、總じて唯それが商品を有用ならしむる、即ち使用價値たらしむる限りに於いてのみ、考慮に入り來たるのである。他方に又、諸商品の使用價値の抽象こそ、諸商品の交換比例を一目瞭然的に特徴する所のものである。……商品は之れを使用價値として見れば、互ひに質を異にするといふことが先に立つが、交換價値として見れば、たゞ量を異にし得るに過ぎず、隨つて使用價値の一原子をも含まぬのである。そこで商品體を其使用價値から離れて見るときは、殘る所はたゞ勞働生産物たる一性質のみである。……諸勞働はもはや、互ひに相異る所なく、總てが等一なる人間勞働、即ち抽象的人間勞働に約元されてゐる。然らば、勞働諸生産物の殘基は何であるかを考察しよう。右の抽象の後に勞働生産物に殘るものは、同一なる空幻的の對象性のみである。即ち無差別なる人間勞働の、換言すれば、其支出の形式に頓着なき人間勞働力の支出の單なる凝結のみである。之等の物は結局たゞ其生産の爲に人間勞働力が支出され、人間勞働が堆積されてあると云ふことを示すに止まる。之等の物は斯くの如き共通なる社會的實體の結晶として見るとき、價値――商品價値――である』(前掲第六‐八頁)。

要するにマルクスは、中世におけるスコラ學者の如き態度を以つて經濟現象の攻究に着手したのであつて、單に經濟上の價値問題のみではなく、又あらゆる物の實體に關する形而上學的の問題をも解決しようとしたのである。かくて十九世紀の唯物論者たる彼れは、十三世紀スコラ學者の衣裳のもとに、有ゆる現象の根柢に横はる眞實在をば、陰暗なる色彩を以つて我々に呈示することゝなつた。

マルクスにして若し一つの思惟概念竝びに經濟上の補助概念としての價値説を樹立したものとすれば、此所に彼れの論證を批評することは寔に望ましい事となるであらうが、實際彼れの與へたものは價値説ではなく、寧ろ商品交換を支配する所の法則たる一つの價値律に過ぎないのである。此法則は具體的の性質を有するものであるから、マルクス説の當否を吟味することは至つて單純の問題となる。要するに、此價値律なるものは、果して現實における交換比例の標準となるか否かを決定すれば宜いことになるのである。

マルクスの教ふる所に依れば、價格なるものは價値の貨幣形態に過ぎない。彼は言ふ――『金に於ける一商品の價値表章は……其商品の貨幣形態即ち價格である』(前掲第一二四頁)と。マルクスは、この價格を支配する價値律をば、重力の法則と比較してゐる。『斯樣な私的諸勞働の生産物の偶然的な、又絶えず動搖してゐる交換比例に於いては、それらの物の生産上社會的に必要な勞働時間なるものが、一つの規律的自然律として權力的に確立すること、恰も家が人の頭上に倒れかゝる場合における重力の法則の如くである』(前掲第八五頁)。

此主張は更らに、『資本論』第三卷の中にも述べられてゐる。彼れは第三卷の中に言ふ。――『種々なる商品の價格は最初如何樣にして相互に確定又は調整されやうとも、之等の商品の運動は價値律に依つて支配されるもので、他の事情に變化なき限り、其生産に要する勞働時間が減ずる時は價格は低落し、勞働時間が増す時は價格は即ち昂騰する』(第三卷邦譯本、第一册三〇九頁)。價値律は常に價格を決定する。(前掲第三一四頁)。

マルクス自身の言葉を借りて言へば、『質的に價値を異にする價格といふ概念は、不條理な一矛盾である』(第三卷邦譯本第二册第三〇五頁)。『普通商品の購買者が購買する所のものは其使用價値であり、支拂ふ所のものは其價値である』(前掲第三〇一頁)。『然るに其概念に從つて言へば、價格とは此使用價値の價値を貨幣に依つて言ひ現はしたものに等しいのである。』(前掲第三〇四頁)。

マルクス自身に依つて呈示された此種の主張は、彼れの價値説に對する吟味を比較的單純ならしむるものであるが、彼れの價値律が果して斯かる吟味に耐え得るか否かを攻究する前に、我々は先づ、マルクス説におけるヨリ斬新なる第二の部分に論を轉じようと思ふ。

貨幣の所有者たる資本家は、商品を價値通りに購買して價値通りに販賣しなければならないのであるが、それにも拘らず、彼れは此賣買取引の終末に至り、最初そこに投入した以上の貨幣を収納しなければならぬ。此問題は如何にして之れを解決すべきであるか。利潤なるものは、そもそも如何にして生じ來たるものであるか。

此問題は次の如くに解決される。――茲に勞働力といふ特殊の商品がある。此商品は他の總ての商品と同樣に、市場に於いて價値通りに購買されるものであるが、資本家は此商品の中から餘剩價値を引き出すことが出來る。

勞働力なる商品が自由に供給され得る爲には、其所有者たる勞働者は自由の人間でなければならぬ。彼は其勞働力たる自己の人格をば、意の儘に處分し得るものたることを要するのである。勞働力を商品たらしむべき第二の歴史的條件は、勞働力以外には何等の生産機關をも所有することなき一階級たる、プロレタリアなるものが存在して居らねばならないといふ事である。

資本家は市場に於いて、勞働力の代價を支拂ふのであるが、然らば此の特殊商品たる勞働力の價値は如何にして決定されるか。マルクスに依れば、此價値も亦他の總ての價値と同一の樣式に決定されるのである。即ち『勞働力の價値は、他の總ての商品の價値と同じく、此特殊の物品の生産隨つて又再生産に必要なる勞働時間に依つて決定される。勞働力は價値である限り、それに體化してゐる勞働時間に依つて決定される。……勞働力なるものは、生きた個人の力能としてのみ存在してゐる。……生きた個人は其生存維持の爲に、一定量の生活資料をば必要とする。されば勞働力の生産に必要なる勞働時間は、結局この生活資料の生産に必要ある勞働時間に歸する。或は、勞働力の價値あるものは、勞働力の所有者の生活維持に必要なる生活資料の價値であるといふことになる』(第一卷第一册第二〇三頁)。

即ち勞働力の價値なるものは、一定量の生活資料の價値、換言すれば此生活資料の生産に要する勞働量に外ならないのである。

今、斯樣に決定される勞働力の價値が日に三志であつて、此三志といふ價値が資本家に依つて勞働者の手に支拂はれるものと假定する。資本家が若し其購賣せる勞働力の生産に必要なる勞働時間(例へば六時間)しか勞働者に勞働させないとすれば、かゝる場合には何等の餘剩價値も生じ來たるものではない。

此六時間の勞働は、資本家が賃銀として勞働者に支拂ふ右の三志以上の價値を生産物に附け加へるものではないのである。これでは營利にならぬことは明かである。そこでマルクスは斯う解釋した。即ち資本家は、六時間の勞働に相當した三志を以つて一日分の勞働力の價値を支拂ふのであるから、事實に於いては勞働者をして一日中(例へば十二時間)勞働せしめる。かくして勞働者は賃銀として支拂はれた三志を生産する上に尚、三志又はそれ以上の價値を造り出すことになるのであつて、之れが即ち資本家の得る餘剩價値を構成する所のものである。

けれども斯樣にして勞働者の造り出す餘剩價値は、資本家の立場から見れば決して純粹利得たるものではない。生産を行ふには資本が必要である。生産に投ぜらるる資本をマルクスは不變資本と可變資本との二つに分類した。不變資本とは、生産機關たる建物や、機械や、原料や、助成材などに投ぜらるる資本を謂ふのであつて、此資本部分はそれ自體としては何等の餘剩價値をも造り出すものではない。可變資本とは勞働力の購買、換言すれば勞働者の雇傭に投ずる資本を謂ふ。而して餘剩價値を造り出すものは、實に此資本部分のみである。

今、一つの生産事業に百四十磅の不變資本と九十磅の可變資本とを要し、而して可變資本に對する餘剩價値の率が十割即ち九十磅であるとすれば、資本家は五百磅(四十磅プラス九十磅)なる總投資本に對して九十磅即ち一割八分の餘剩價値を得ることになる。他方に又、充用不變資本が十磅きりであつて、可變資本は九十磅、而して餘剩價値は先きの場合と同樣に九十磅なる一産業があるとすれば、此産業における餘剩價値率は十割であつて先きの場合と同一であるが、一百磅なる總投資に對して計算した利潤率は九割となる。

即ち餘剩價値の相等しき種々なる産業の利潤率は、資本組成(不變資本と可變資本との比例)の如何に從ひ種々異なることゝなるのであつて、餘剩價値の唯一の源泉たる可變資本の百分率が大なれば大なるほど利潤率は益々大となり、反對に、餘剩價値を送り出すことなき不變資本の率が大なれば大なるほど利潤率は益々小となることは明かである。

隨つて、何等の又は殆んど何等の機械をも使用することなく、小價値の原料と多數の勞働者とを使用する産業の利潤率は極めて高きものとなる譯である。反對に機械と材料とに投ずる資本が大であつて、使用勞働力の比例量が小であればあるほど、資本家の手に歸する利得は益々小となるべきである。なぜならば、ひとり生きた人間勞働のみが、餘剩價値の源泉となるからである。

マルクス説の謂ふ所が果して眞實であるとすれば、主として人間勞働に立脚する産業の利潤は、不變資本の率高き企業における利潤よりも相對的に大でなくてはならぬ事になる。然るに種々なる産業の利潤率が、其それぞれの放下資本の内部的組成から全く獨立したものであることは經驗の教ふる所であつて、これはマルクス自身も充分に認めてゐる所である。巨額の不變資本と、相對的に少額なる可變資本とを投ずる鐵道企業も、また資本の大部分を賃銀として支出する飛脚會社その他の企業も、同一の利潤率を齎らし得るのであつて、あらゆる利潤率は平均に歸する傾きを有してゐる。此傾向はマルクス自身の充分に認めてゐる所であるが、一度び斯樣な利潤率平均化の傾向を許した後にも、マルクス價値率なるものは尚重力の法則と同樣に作用すべきものと主張し得るであらうか。

これはマルクスが解決を約束した所の謎であつて、エンゲルスは一八八五年『資本論』第二卷の序文中に此問題の解決困難なる所以を強調し、世の經濟學者たちに向つて、均等の平均利潤率なるものが、如何にして『價値律に抵觸せざるは勿論、寧ろそれに基いて』、成立することを得、又成立せざるべからざるかとの問題を解決して見よと要求してゐる。(第二卷邦譯本第一册序第四一頁)。而して此大なる謎の解決は、『資本論』の第三卷の中に與へられると約束されたのであつた。

第三卷は遂に刊行された。それは極めて重要の文獻たることを失はない。なぜならばマルクスは是れに依つて、彼れ自身の與へた搾取説が全く無效に了つた所以を裏書したことになるからである。彼れは第三卷に於いて、其本來の立場を變更し、其勞働價値説を全く放擲したのみではなく、尚また場合に依つては偉大なる功績を擧ぐるであらうと期待された彼れ自身の歴史的研究法をも放擲してしまつたのである。ロリアは此第三卷を飜讀したる後問うて言つた。――これ以上に完全なる歸謬、これ以上に大なる學説上の破産の行はれたることがあるであらうか。又これ以上に大なる壯觀と嚴肅とを以つて、科學上の自殺の遂げられたることがあるであらうかと。

『資本論』の中に説かれた資本制生産方法の價値律なるものは、重力の法則の如き自然律と同樣に作用すべきものであつたが、此マルクス價値律は『資本論』第三卷に入ると共に、資本制度の下に行はるゝ競爭に依つて全く無效に歸せしめられることになつた。放下資本の有機的組成如何といふ問題は、資本家の毫も介意する所ではない。不變資本が九十磅で可變資本が十磅であらうが、可變資本が九十磅で不變資本が十磅であらうが、そんなことは資本家にとつては何うでも宜い問題である。何れの場合にも、彼れは百磅の投資をするのであつて、此投資に依り一つの収益を期待してゐるのである。個別的投資における組織的組成は如何に異らうとも、『異れる産業部面における平均利潤率の差異なるものは、現實的に存在せざるものであり、又資本制生産の全制度を廢除せずしては存在し得ざるものであることは疑を容れない』(第三卷邦譯本、第一册、第二六〇頁)。此點に於いてマルクス價値説なるものは、現實における事象、現實における生産現象とは一致し得ざるものの如く見えて來る。隨つてマルクス價値説を固執する限り、此現實的事象を理解せんとの企圖は放棄されなければならぬことになるのである。第三卷の教ふる所に依れば、生産上の目的に等額の資本を投ずる所の種々異つた生産部面における費用價格は、かゝる資本の有機的組成の如何を問はず同一のものであつて、費用價格なるものは、資本の組成や可變資本對不變資本の區別などに頓著するものではないのである。資本家が百磅を投じて生産した一商品は、此百磅中の九十磅が不變資本、十磅が可變資本であるにしろ、又十磅が不變資本、九十磅が可變資本であるにしろ、いづれにしても資本家から見れば百磅なる費用を要するものであつて、費用價格の斯かる等一こそ、實に平均利潤を齎らすべき投資競爭の基礎となるのである。(前掲第二六一頁)。

以上の見解は、明かに正統派生産費説への退却を意味する。これに依つてマルクスは、價格なるものは貨幣に言ひ現はされたる價値に過ぎないといふ命題、竝びに商品は其價値通りに交換されるといふ主張を覆へしたことになるのであつて、其代りに今や、現實的に平均利潤率を齎らすものは、資本の組成に頓着することなく考へた生産費總額であり、商品は現實に於いて其價値以上にも以下にも販賣されてゐるといふ主張が採用されることになつたのである。マルクスは『俗學的』正統派經濟學の淺薄を嘲笑して、彼れ自身の價値率を聲高く吹聽したが、第三卷に教ふる所に依れば、價格なるものは價値とは何等關係する所なきものとなるのである!『要するに商品の生産價格なるものは、商品の費用價格と、一般的利潤率に從つて百分率的に其費用價格に附加せらるべき利潤との和、換言すれば商品の費用價格と平均利潤との和に等しいのである。』(前掲第二六八頁)。

商品の價格を決定するものが價値ではなく、又資本家の利得は彼れの引き出す餘剩價値に依つて決定されず、寧ろ生産費總額を基礎とした平均利潤率に依つて決定されるといふ事實を許すとすれば、マルクスが『資本論』第一卷を書いたことは殆んど全く無益に歸し、我々は有ゆる交換と交換上の方程式とを支配するところの非實體的の實體、人間勞働の凝結として、マルクスの定義した『共通の第三者』を探求すべき一切の勞力を省かれることになるのである。マルクスの價値律は現實的の法則であるとは、彼れ自身の斷言したところであるが、事實に於いてはさうではないことが明かになつた。而してマルクス自身も、明かに此歸結を認めてゐるのである。ただ彼れは、かゝる歸結の責任をば彼れ自身の發見した法則の裡に求めずして、彼れの主張する如き事物の内部的意義を理解せざる人間の不合理の裡に求めたのである。彼れは教へて言ふ。――『資本制生産行程の現實的、内部的聯結を分析する事は、讀者の認めて以つて遺憾とせる如く、極めて複雜な事柄、極めて微細に亘つた仕事であり、而して目に見える單に現象的たるに過ぎぬ運動を内部的なる現實の運動に約元することは、科學の一任務であるから、生産上の法則とは全然一致せず外觀的運動の意識的表章たるに過ぎざる、此法則についての諸觀念が、資本制的なる生産竝に流通上の當事者たちの腦裡に生ぜねばならぬことは實に自然の事實である。商人や、株屋や、銀行業者などの有する見解は、必然に全く虚妄のものである。製造業者等の有する諸見解は、彼等の資本が通過する流通取引と、一般的利潤率を生ぜしむる平均化とに依つて、虚僞のものとされる』(第三卷、邦譯本第二册第二一六‐七頁)。

ところでマルクスは、上記の自認をば如何にして彼れ自身の價値律と一致せしめようとしてゐるかといふ事が問題になつて來る。

有らゆる投資の總和を一資本と見做し、有らゆる投資の有らゆる生産物を一つの集合體として考へるならば、其場合には斯樣な集合體としての生産物のみが價値通りに販賣されることになるであらう。けれども個々の資本家的企業の生産物について言へば、それは價値通りに販賣されることはないであらう。何故であるか。マルクスは答へて言ふ。――『若し商品が其價値通りに販賣されるとすれば、種々なる生産部面に放下せる資本量の有機的組成の異なるに準じて、之等の生産部面に生ずる利潤率が種々樣々のものとなることは、既に説明した通りである。然るに資本は、利潤率の低き部面を引き上げて高き利潤を生ずる他の部面に移動してゆく。斯樣な絶え間なき出入移動に依り、一言にして盡せば、利潤が此處では増進し彼處では低減するに準じて行はるべき種々なる生産部面間への資本の配分に依つて、之等の部面に於ける平均利潤を等一のものたらしめ、斯くして價値を生産價格に轉化せしむる如き需給比例が成立するのである。』(第三卷、邦譯本、第一册第三四九頁)。

マルクスは右の證明に依つて商品は其中に含まるる勞働量に比例して交換されるものでないことを、明かに且つ力を罩めて論證したのである。語を換へて云へば、彼れが最初に樹立した價値説は、誤謬であつたといふ事になる。マルクスは、有らゆる生産物の價格總和が其價値總和に等しきことを力説してゐるけれども、かゝる力説は何等の意義をも有するものでない。なぜならば、交換比例を説明するといふ一點を除き、價値説なるものは何等の意義をも有するものではないからである。有らゆる生産の總和は、有らゆる生産物の總額に等しいといふ偉大なる思想は、決して思想界を革命するに適したものではない。ベーム・バヴエルクはマルクスの斯かる主張を批評して次ぎの如く言つてゐる。

『交換比例なるものは、個々の異つた商品相互の間についてのみ言ひ得るものであることは明かである。一切の商品を總括して觀察し、其價格の統計を考察する限り、かかる總和の内部に存する比例は、必然に、又故意に閑却されることになる。内部に存する相對的の價格差異は、總計の上から見れば互ひに相殺されるのであつて、例へば茶が鐵以上に價する所は、それだけ鐵の方が茶よりも少なく價することになるのである。兎に角、國民經濟の上に於ける財の交換比例が問題である場合に、一切の個別的價格を合算した總價格を以つて答へることは眞の解決となるものではない。それは丁度、競爭優勝者が、相手の人々よりも何分又は何時間早く決勝點に着いたかを問題としてゐる場合に、競爭者全體で二十五分十三秒を要したと答へるやうなものである。

『これを價値問題について言ふと次の如くになる。即ち價値の問題について、マルクス派の人々は最初にその價値律、即ち商品なるものは、其中に體化してゐる勞働時間に比例して交換されるといふ法則を以つて答へる。然るに彼等は軈て、個々の商品の交換領域、換言すれば價値の問題を有意義ならしむる領域に屬すべき右の解答を陰に陽に取消して、總括的に考へた國民的生産全體、換言すれば價値の問題を無對象たらしむる領域に對してのみそれを保持するといふことになる。かくて嚴密の意義における價値問題の解決として與へられた價値律は、事實に依つて其虚僞なる所以を曝露されることになる。而して其虚僞を曝露せられざる唯一の應用方面について言へば、それは最早嚴密なる解決を要求しつゝある當該問題の解決たるものではなく、高々他の何等かの問題に對する一解決となり得るに過ぎないのである』

否、それは他の問題に對する解決ともなり得るものではない。それは何等の解決にあらず單なる重語に過ぎないのである。蓋し貨幣取引なる隱蔽的形態を離れて直接に問題の眞相を觀察するならば、商品なるものは終極に於いて商品と交換されることになるからである。交換に入る各商品は、商品であると同時に又それと交換される他の商品の價格であつて、各商品の總和は、其代價として支拂はれる價格の總和に等しい。語を換へて言へば、國民的生産物全體に就て支拂はれる價格は、國民的生産物そのものに外ならないのである。隨つて國民的生産物全體の價格總和は、國民的生産物全體の裡に結晶してゐる價値又は勞働の總和と完全に一致するものと見ることは全く當を得てゐる。けれども斯樣な重語的の言ひ現はしは、現實的認識の何等の増進をも意味するものでなく、又特に各種の財はその裡に體化されてゐる勞働量に比例して交換されると云ふ法則の正確を立證すべき論據となるものでもない。此筆法で行けば、勝手に造り上げた如何なる法則も、例へば、各種の財は其比重に從つて交換されるといふ法則でさへも、同樣に正確のものと(或は寧ろ同樣に不正確のものと)なり得るからである!蓋し一封度の金(きん)は『個々の商品』として見るとき一封度の鐵と交換されるものではなく、寧ろ四萬封度の鐵と交換されるものであることは言ふ迄もないが、一封度の金と四萬封度の鐵との全體について支拂はれる價格總和は、四萬封度の鐵及び一封度の金以上でもなければ以下でもない。即ち價格總和の總重量(四萬一封度)は、商品總量の裡に體化されてゐる所の同樣に四萬一封度なる總重量と確然一致するのであつて、財の交換比例を決定すべき眞の標準は即ち重量であるといふことになる!(ベーム・バヴエルク著『カール・マルクスと其體系の終結』英譯版紐育一八九八年刊第七二‐七五頁)

マルクスの學説が如何に支持し難きものであるかは、其全論證の歴史的背景を移動せしめようとしたエンゲルスの企圖が最もよく之を證明する所である。マルクス自身も『資本論』第三卷(邦譯本第一册第三〇九頁)の中に、結局同一の趣旨に歸する企圖を暗示したのであるが、エンゲルスは更に一歩を進めて、マルクスの價値律なるものは總べての成文史の開始以後第十五世紀に至るまでの間、經濟上普遍的に行はれたものであると主張してゐる。(『ノイエ・ツアイト』誌。一九〇六年、第一四年卷、第一册、第三九頁)

幾千年の間、商品は其中に含まるゝ勞働價値に比例して交換されてゐたものであるが、今は最うさうではない。エンゲルスに依れば、此期間は五千年乃至七千年間に亘つたが、今から五百年前に終了してしまつたのである!此辯解は寔に悲痛極まるものである。マルクスの價値律は、資本制生産方法のもとに於ける、換言すれば商品生産の時代に於ける充分に發達した市場についてのみ通用し得るものであるとは、マルクス自身の斷乎として教ふる所である。更らに又有史時代なるものは、自由なるプロレタリア階級、即ち人格的には自由にして法律上雇主と平等の地位に在るが、而も自己の勞働力以外には販賣すべき何等の商品をも有せざる一階級の存在する時代に限られてゐる。マルクスは此プロレタリア階級について言ふ。――『勞働力なるものは、それ自身の所有者に依つて、それが其人の勞働力である所の當人に依つて、商品として賣物にされるか又は販賣される限りに於いてのみ、又其理由に基いてのみ、商品として市場に現はれることが出來る。所有者が之れを商品として販賣する爲には、彼れはそれを自由に處分することができ、隨つて其勞働能力の、其人格の自由なる所有者でなければならぬ。彼れと貨幣所有者とは互ひに市場で出くわし、同權の商品所有者として相互の關係に入る。ただ異なる所は、一方は購買者、他者は販賣者であるといふ一點のみである。隨つて雙方とも、法律上同等な人である』(第一卷、邦譯本第一册、第二七六頁)。

かくの如く、マルクスの全學説は資本制生産の分析を意味するものである。然るに今や、彼れの價値律の崩壞が議論の餘地なき迄に顯著の事實となつたことを知るや、此法則は資本制生産については適用し得るものでないが、隔絶した家内的經濟の時代や、未開時代や、野蠻時代や、賦役時代や、ツンフト時代などを含む第十五世紀以前の時代、約して言へばマルクスの學説體系に意義あらしむべき一時代を除いた他の各時代について云へば當を得てゐるとの主張が持ち出されるのである。

一見した所、『資本論』第三卷に入つて平均利率の問題を解決しようとするに至つた時迄、マルクスは此大破裂を覺知しなかつたかの如く思はれる。然し仔細に穿鑿すると、彼れは第一卷を書くとき既に此位置を善く心得てゐたことが知られる。彼れの價値律の崩壞は、第一卷の裡に既に現はれてゐるのである。それは彼れの賃銀説を見れば分ることである。

彼れの教ふる所に依れば、勞働力なるものは一つの商品であつて、その價値は他の總ての商品の價値と同樣に決定される。『勞働力の價値は、他の總ての商品の價値と同じく、此特殊の物品の生産隨つて又再生産に必要なる勞働時間に依つて決定される。……勞働力の生産に必要なる勞働時間は、結局勞働者の生活資料の生産に必要なる勞働時間に歸する。或は、勞働力の價値は、勞働力の所有者の生活維持に必要なる生活資料の價値であるといふことになる』(前掲第二八三頁)。

これは賃銀の生活費説を此上なく明瞭に叙述したものであつて、マルクスの價値説と全く一致する所であるが、彼れは果して此賃銀説を固守したかといふに、決してさうではない。彼れは『資本論』第一卷の中でも既に、此生活費説に加ふるに賃銀の産業豫備軍説竝に貧困増進説を以つてしたのである。勞働力の價格は時に生活費の水準を突破することもあり、また屡々それ以下に降るものであるが、然し賃銀の高低如何に拘らず、資本の蓄積が進むにつれて勞働者の境遇は惡化することは免れないのであつて(第一卷、第三册、第一六七頁)、マルクスの價値律なるものは『勞働力』なる商品の價格を決定するものではないのである。マルクスに依れば、勞働力の價格は失業勞働者より成る産業豫備軍と就業勞働者との、競爭に依つて決定されるものであつて、この産業豫備軍、換言すればマルクスの謂ゆる相對的過剩人口なるものは、資本家の搾取すべき餘剩價値が餘りに少額である場合資本が即時に利用する所の勞働節約装置(機械)に依つて造り出されるものである。

要するに價格は價値律に依つて決定されるものではなく、寧ろ價値律からは全く獨立して決定されるものである。かくて我々は、マルクス經濟論の根本學説と稱せられてゐる價値律なるものが、具體的なる經濟事情の上には適用し得られざる、且つ内部的に見ても精神的聯絡を缺如した一個のシヤボン玉に過ぎないことを見るのである。マルクス説の有らゆる批評は、これを不問に附さうと思へば附せられないことはないが、マルクス經濟論の謂ゆる中心學説につき彼れ自身の手に依つて與へられた否定は、これを如何ともすることは出來ないであらう。(終り)


底本:第二次『局外』第四號(大正十二年八月)

注記:

※句読点は適宜補った。
※ルビは( )内に入れた。

改訂履歴:

公開:2007/11/18
最終更新日:2010/09/12

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