圓本に競ふ―民衆娯樂としてのラヂオ―

高畠素之

例へて見れば圓本である。圓本出版はいはゆる讀書階級の限線を遙かに突破し、文藝思想に對して無縁の衆生と考へられてゐた市井大衆を顧客に惹き入れ、彼等の藝術的乃至學問的なる教養を革命的に向上することが出來た。即ち八百屋の小僧や洋食屋の女給に至るまで、よし生ま齧ぢりなりにも、トルストイやマルクスやの如何なる存在であるかを開眼せしめ得たのである。

ラヂオに依る各種の娯樂と知識との庶民的普及は、恰も圓本出版に依るそれに類似してゐる。例へば音樂會は洋装孃、温習會は振袖娘、謠曲は隱居で浪華節は熊公といふやうに、およそ得意とする壇上は專門的に分別されてゐたのであるが、聽取料一圓で身分上下の隔てなく愛宕山(に限らないが)の恩惠を平等に享樂し得た結果は、斯うした趣味好尚上の特殊性を著しく一般化したのである。勿論、ラヂオに先行した蓄音器も、右の如き一般化に貢獻せるところは少くなかつた。併しそれは、より多く消費者の自由選擇に依頼せしめ、同時により多く費用上の負擔を重荷ならしめた意味で、ラヂオの如き革命的貢獻をなすことは出來なかつた。

大規模かつ組織的に合財袋としての意義を果たし、東西古今の上下左右に亘る趣味實益を注入し得たのは、圓本とラヂオであつたといふも失當でない。殊に人間と生れた淺猿しさは、金を拂つた以上は如何に少額でも、讀まなければ損だ聽かなければ損だといふ慾を道連れとし易いが故に、最初のお役目御苦勞にいつの間にか惹き入れられ、やがてこれを血肉的に消化する場合も少くないのである。ラヂオのなじみでリサイタルに顏を出したり、築地小劇場に足を運んだりする人々も多かるべく、もしそれを高級な趣味と言ひ得べくんば、ラヂオの社會的效用も大なりといはなければなるまい。豆本講談と寫眞小説に教養されてゐる八百屋の小僧や洋食屋の女給が、圓本の媒介に依つて近代藝術や社會科學に對する新しい興味を刺激されたのと同樣、學藝平民主義に飛躍的な貢獻をなしたのは事實である。

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ラヂオの社會的效用に於けるもう一つの意義は、報道機關としてのそれである。筆者の知る或る友人は、稀代の野球フアンであるが、折り惡しく早慶戰を前にして旅行しなければならなかつた。親の敵を打ち洩らした程の無念さで東京を發つた彼は、東北のある小さな町に差しかかつたとき、店頭の意外なる人だかりを發見したのである。何事ならんと近寄つて見れば、それはワン・ストライク、ツウ・ボールの野球放送、それも夢寢に忘れなかつた早慶戰とあれば欣喜雀躍の状は推して知るべく、棒の如く立ちつくしたまま最後までラウド・スピーカーを洩れる神宮球場の熱狂を謹聽したといふ。野球には無縁の衆生たる筆者も、彼れが『これほどラヂオを有りがたいと思つたことはない』と述懷せる言葉の意味を全部的に理解し得たと同時に、大正天皇の御大葬に際して大連在住の邦人が、ラヂオを洩れる靈轜のきしりに無限の哀愁を覺え、號泣して遙拜の微意を捧げたといふ挿話を思ひ合はせたことであつた。

三圓トンデ八錢の相場放送は知らず、夕刊と朝刊との間を繋ぎ(、)朝刊と夕刊との間を繋ぐニユース放送に於いては、東京在住の筆者ですら毎度の恩惠を感じつつある。況して我々が市内版として見る新聞記事を、一日半をくれか二日をくれでなければ見られぬ地方讀者が、我々と同時に同一のニユースを聽取し得ることは、何程か便宜でもあり利益でもあらねばなるまい。ラヂオは斯くして、空間的と同時に時間的の距離を短縮し、社會的效用を著しく増大したのである。一方また、これらの地方聽取者に對して、一年に一度は愚か一生に一度もお目にかゝるか掛かれないかの名人上手を偲ばしめ、述懷を圍みながら日々夜々の樂しみに供へることは、娯樂と教養への參加機會を驚ろくばかり均等ならしめたとも言ひ得るであらう。さうした意味の貢獻は、滔々たる圓本すら遠く及ばないかも知れない。――などと、課題が課題だけに些さか口吻は放送局宣傳部員に類したが、必らずしも提灯のための提灯ではないつもりである。目下の有閑的應用に必要的應用を加味すれば、人生の利用厚生に貢獻し得る程度は甚大であらう。

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あらゆる文明の利器は、いづれも半面の弊害が免れざる如く、ラヂオもまた稀薄なりに弊害の散布を免れない。本郷菊坂かどつかの下宿屋が、隣りのラヂオに邪魔されて客が減つたことを楯に取り、例に依つて例の如き損害賠償を提起したといふ話しがあつた。當時『婦人公論』が『隣りのラヂオ』といふ課題で寄せ書きを募り、斯く言ふ、筆者も末席を穢したことがある。その論法を繰り返すまでもなく、下宿屋の親爺や内儀は素より、當の下宿人にしたところで平素は『隣りのラヂオ』を享樂したに相違なかるべく、時に吉田奈良丸の一節か何んかを口三味線で追隨したこと無きにしも非ずと察せられるが、人間といふものは手前勝手な動物である。試驗の接近を口實に飛び出す(*1)學生も學生なら、提供する食膳の寂寥を棚に上げて『隣りのラヂオ』を逆恨みする下宿屋も下宿屋であつて、これを恐れながらと法廷に持ち出しはしたものの、公明な判官はそこの道理を算へて最近これを却下したと聞いてゐる。

ラヂオの弊害といへば、先づそんなところ、下宿屋や蓄音器屋の利害が多少あつたにしても、市井大衆がこれに依つて裨益する程度には比較すべなくもない。(*2)のみならず、ラヂオと蓄音器との效用はおのづから別途であり、やがてラヂオ的興味の開眼が蓄音器的興味の増大に貢獻せぬとも限らない以上、何にもさう大して悲觀するにも當らないであらう。單に蓄音器とはいはず、劇場にしても寄席にしても、新しくラヂオに依つて誘導された顧客を將來に期待し得るとすれば、若し假りに目前の不利が多少ともあつたところで、それを目の敵としてつけ覗ふ理由もないのである。恰も圓本流行に依り、出版界は高級專門の書籍刊行を不可能とするかに悲觀されてゐるが、圓本讀者の圓本讀者への向上は、やがて彼等をしてより高級なる藝術的乃至科學的興味への開發を豫定するが故に、寧ろやがてヨリ高級專門の書籍刊行を刺激助成すべしと信ぜられる事情に類似してゐる。その意味でラヂオと圓本とが、趣味教養の大衆的普及に革命的貢獻をなしたと斷言しても、決してそれが過襃の故を以つて抗議する者はゐないであらう。


底本:『經濟往來』第三卷第一號(昭和三年一月)

注記:

※表題の「民衆娯樂としてのラヂオ」は雑誌の題目。便宜上タイトルに加えた。
※句読点を改訂した場合は〔 〕に入れた。
(1)飛び出す:もと「飛ぶ出す」
(2)すべなくもない:もと「すべななくもない」

改訂履歴:

公開:2006/12/17
最終更新日:2010/09/12

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