マルクス經濟學界

高畠素之


一張一緩はすべての進行に免れがたいがマルクス經濟學の社會的浸滲も絶えず波動を描きながら次第に波頭を大きくして、その絶頂に達したのではないかと思はれるほどの活氣を呈した。もつとも、これは圓本全盛の氣運に助けられた點も多いのだが、何しろ、安い高いに拘らず、マルクス經濟學書に對してこれほどの多くの讀者を吸引し得るものとは、何人も想像しなかつたらうと思ふ。

マルクス經濟學の、本年度に於けるすばらしい普及状況を齎らす導火線となつたものは、自分の口から言ふのも變だが、拙譯『資本論』の普及版の成績だつたと考へる。その發行は御承知の通り昨秋から開始したものだが、『資本論』の如き難解の定評ある書物の圓本策が、果してうまく行くか何うかとの懸念があつたに拘らず、その懸念も幸か不幸か杞人の憂に終つた。マルクス經濟學に對する世人の興味は、難解の定評などに恐れをなす程度でなかつたのだ。もつとも、いざ取り掛つて見ると、お茶受けを噛るやうな具合に行かないのは當然だと見え、『資本論解説』に對する需要が頓に増加して來た。拙譯、カウツキー原著の『資本論解説』は、賣文社以來のもので、大正八年に初版を出し、今日に至つたのだが、その間絶えず賣れて總計二萬餘に達してゐた。然し昨年後半期に於いては、この『解説』の需要が非常に殖え、僅か數ケ月の間にそれ以前の何年分の總計に二倍する部數が捌けた。數字をいへば、約四萬部の『資本論解説』が昨年後半の數月間に捌けたのだが〔、〕經濟學の書物でこれほど需要の盛んだつたものは他に類があるまいと思ふ。それほど世間のマルクス經濟學研究慾は旺盛だつたのである。

改造社の『マルクス・エンゲルス全集』は、この形勢に基いて立案された。ついで岩波書店を筆頭とする五社聯盟の同種全集が發表されて、はからずも激烈な競爭の場面は展開され天下の視聽をあつめたが、この全集の成績は豫想外に不良だつた。些かならず、宣傳倒れの傾があつた。改造社のには、拙譯『資本論』が參加し、聯盟版では河上肇氏の『資本論』が樞軸をなす筈であつた。河上博士の『資本論』飜譯事業はこれより以前、既に着手されてゐて、昨秋岩波文庫により第一分册が刊行され、逐次續刊の筈になつてゐた。この河上譯『資本論』を中心とする批評駁論も、本年度に於ける注目すべき一事件といへやう。

尤も、この批評駁論の應酬戰は昨年末から開始されたもので、河上譯『資本論』の第一分册が出ると早々から始まつた。その戰端を與へたのは、福田博士の『改造』誌上に連續執筆せる論文『アリストテーレスの流通の正義』である。福田博士はこの論文の中で河上博士譯の缺陷誤謬を指摘し、皮肉と揶揄の妙を示された。これに對して河上博士も直ちに應戰の矢を放ち、負けず劣らずの皮肉と毒舌を福田博士の面上に加へた。この兩雄の取組に、それぞれの應援が加はり、名も無きひよろひよろ武者までが飛び出して、トンチンカンな横槍を入れるなどの御愛嬌も演じたが、兎に角盛んなことであつた。

福田、河上の東西對立も久しいもので、犬猿の間なる文字はこの兩人のために出來たかと思はれるほどだつたが、永年の修練で兩者とも益々戰ひ振りが巧者になり、學者もこれだけの機轉があるかと、思はず感嘆させられる場面も展開されたが、戰機の白熱するところ脱線も亦勢ひやみ難いものか、河上博士は『反動學派の陣營における窮餘の一戰術としての事實の虚構』なる一文を草して、福田博士――ひゐてはマルクスに對し批判的態度を持する者一般を、反動派に見立て、經濟學界に共産非共産の對立的空氣を持ち込んでしまつた。河上博士にして見れば、これは脱線的結果でも何でもないか知れぬが、經濟學を研究するに共産派か非共産派かをきめて掛らねばならぬなどといふことは、學問の正道ではあるまい。アナかボルかなどと騷ぎ廻る文士が碌な作品を作り得ないと同樣、主義と學問を(1)結びつけて良い結果が得られるものでない。

河上博士が持ち込んだこの空氣は、改造社及び五社聯盟の『マルクス・エンゲルス全集』宣傳戰に於いて、ますます濃厚を加へた。河上博士等の支持する聯盟版が、共産主義學者の集合を吹喋して、共産主義者でなければマルクスを正解し得ぬかのやうに宣傳し、『非マルキシズムに低迷する所に何のマルクス全集ぞや』などと改造社版にケチをつけんとすれば、改造社側もこれに誘はれて、嘘か眞かロシアのマルクス研究所から新文獻を送られたことなどを鬼の首でも取つた樣に吹喋し、恰も共産黨の本家爭ひでもしてゐるかに見えた。兩方とも、マルクスの讀者はマルクス信者たるべきものと豫定してかかつてゐたらしい。その結果は何うだ。

改造社も聯盟版も、豫約募集成績はみぢめなものであつた。『資本論』の景氣に比較して豫想外の不成績である。で、聯盟版の如きはつひに出版不可能に陷つて宣傳費準備費の丸損に終り、初めの共産黨的口吻が物々しかつただけ、それだけ大きな耻を天下に曝す結果となつた。マルクスの書物を讀者は(2)マルクス信者でなければならぬ。マルクス學は信ずべきで批判すべきでないといふ樣な宣傳は、マルクス學の普及發達を阻害こそすれ助長するものではない。これはマルクス學のみ限らず、すべての學問に共通の原則であらう。マルクス信者でなければマルクスを讀まぬとすれば、マルクス書の捌け口は極めて狹い。全國二三千信者ばかりを目標に置いた樣なパンフレツトまがひの出版物が、どれもこれも一二千しか捌けないのに見ても、事實は明かである。五萬十萬の讀者をあつめるには、會社の重役でござれ、銀行員でござれ、教師、學生でござれ、勞働者でござれ、在郷軍人、青年團員でござれ、あらゆる方面に呼び掛けねばならぬ。それには、マルクス學を學として提供すべきで、主義宣傳の道具化すべきではない。さもなければ、何人も虚心坦懷マルクスの書物を手にして白晝往來を歩くことが出來ぬ。それに、主義宣傳物に定價を附けるとは押しが太い、主義書なら只で配附すべしだといふ心理が誰れの胸にも働いてゐる。

『マルクス・エンゲルス全集』の不成績のあとを承けて、本年の後半には、改造社及び日本評論社の經濟學全集の競爭出版が開始された。この全集でも、改造社は性懲りもなく主義宣傳的口吻を弄し、札つきの共産系學徒を驅り集めて重複的に執筆を擔當させ、恰も共産主義者のための事業であるかの觀を呈した。その結果が矢張り良くない。世間の非難に厭されて、マルクス經濟學を新興經濟學などとぼやかしたが、非難と不成績は何もマルクス經濟學をマルクス經濟學と呼んだ結果ではないのだ。 inserted by FC2 system

以上、圓本物について述べたが、何といつても圓本の功績は大したものである。マルクス經濟學が、本年度に於いて空前の普及を見たのは全く圓本のお蔭だといつても過言でない。

他方、マルクス經濟學に關する研究論文の方面では、今年はちよツと一服の形である。昨年に比較して非常に淋しかつた。土方博士が昨年に引續いて二三の論文を發表し、マルキシズムの排撃を試みたるに對し〔、〕河上博士が『社會問題研究』その他でちよツとした駁論を提供しただけである。マルクスの人口論に關して、矢張り昨年に引續く論爭もあるにはあつたが〔、〕大して目立つたものもなかつたやうだ。


底本:『經濟往來』第三卷第十二號(昭和三年。「昭和三年學界・財界・産業界・社會運動界回顧」の一つ)

注記:

※句読点を増補した場合は〔 〕内に入れた。
(1)学問を:底本は「学問をを」に作る。
(2)マルクスの書物を讀者は:ママ。

改訂履歴:

公開:2006/12/17
改訂:2008/08/04
最終更新日:2010/09/12

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