『マルクス經濟學』について

高畠素之


私の擔任は『マルクス經濟學』であるが、マルクス物については從來幾册となく譯著を出してゐるので、改めて『書き卸しの新著』と銘打たれると自然氣持が固くならざるを得ない。既刊自著の燒直しだとか、寄せ集めだとか言はれさうな氣がして手も足も出ない。しかし一旦さう標榜したからには、出版元の面目のためからいつても、この際どうしても非常な決心で机に向はねばならぬ。

私の從來出したマルクス物では『資本論』全三卷の譯書は別として、自著『マルクス學解説』と譯書『カウツキー資本論解説』との兩書が最も廣く歡迎された。しかし、カウツキーの解説は主として『資本論』第一卷の範圍に限られ、『マルクス學解説』は第三卷の主題をも部分的にはとり入れてゐるが決して十分でなく、加ふるに第二卷の主題は全然顧慮せずにある。

そこで今度の『マルクス經濟學』では、『資本論』全三卷にわたつて平易な解説を試み、その間たえず自分自身の批判的態度を臭はせて行くつもりである。私はこれに依つて別段一家の新見地を提供しようなどいふ大それた抱負はなく、ただ出來る限り平明通俗にマルクス經濟學全豹(1)の要領を傳へ得れば、それで十二分の成功と思つてゐる。

で、大體の骨格は次の樣にするつもりである。

第一部 餘剩價値の生産
第二部 餘剩價値の實現
第三部 餘剩價値の配分
第四部 資本制經濟の崩壞

マルキシズム方法論の骨髓たる唯物史觀の問題は、右の第四部で取扱ふ。右の第一部は『資本論』第一卷、第二部は『資本論』第二卷、第三部は『資本論』第三卷の主題に該當するものである。

終りに、こんなことを自分で言ふのもどうかと思ふが、私のマルクス物はこれまで實によく捌けた。一體に日本の讀書界ではマルクス物が大流行と聽くが、實をいふと種類の多い割に版を重ねたものは至つて少ない。この點で、私一人のマルクス物は、日本に於ける大小マルキシスト全體の既刊總數よりも多く捌けてゐると思ふ。その原因が那邊にあるか。私の考では矢張りマルキシズムに對する私の態度が專ら歡迎されてゐるのではないかと思ふ。即ち、狂信的でなく批判的であり、泥醉的でなく傍觀的であるといふやうな點、これが一般讀書子にとつて如何ばかり私を愛着の的たらしめたか。要するに、信仰や宣傳が鼻につくやうでは、賢明な讀者は立どころに誇張や僞瞞を聯想して鼻も引ッかけない。

この點、評論社の今度の全集計畫に通ふ落ちついた空氣がひどく私を滿足させた。從來私を歡迎してくれた全國數十萬の讀者諸君は、この際擧つて評論社の現代經濟學全集を支持して下さるであらうと信ずる。


底本:『經濟往來』第三卷第十二號(昭和三年十二月。「現代經濟學全集に寄す」の中の一つ)

注記:

(1)全豹:ママ。

改訂履歴:

公開:2006/12/17
最終更新日:2010/09/12

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