廉價多賣と出版資本主義の確立

高畠素之

出版も生産であり、一切の重要生産が資本主義の原理に從つて動く世の中であるから、出版界が資本主義化して行く傾向に不思議はない。が、この傾向は從來さほどに著しくはなかつた。無論あるにはあつたが、他の一般生産界におけるほど甚だしくはなかつた。その證據には、比較的纏まつた資本を擁して大規模の經營に立つ少數の有力な出版業者と相竝んで、如何に多數の獨立した中小出版屋が群生してゐたことか。他の生産業には、斯ういふ現象は餘り見られなくなつてゐる。

その原因は、日本の出版物が極めて局限された需要範圍を有つに過ぎないといふ事實にあつた。資本主義化とは一面資本の集中であり、資本の集中は生産規模の擴大と表裏し、生産規模の擴大は大量生産を意味し、大量生産は需要範圍の擴大を前提する。しかるに、日本の出版物に對する需要範圍は極めて狹小であつて、高級文藝物なら精々四五萬、思想物なら普通五六千といふところが限度とされてゐた。しかるに、出版物の眞の利益といふものは、出版物の種類を多くするよりも、寧ろ同じ出版物の版を重ねるところに獲られるのであるから、資本を増加し、生産規模を擴大したところで、増版の可能が極めて極限された從來の状態が續く限り、利得の可能も亦至つて極限されてゐるわけである。それだけにまた、微細の資本しか有たない素人上りにでも、何か特殊のものをためて細々とやつて行く段には、必ずしもやつてやれぬことはなかつた。

これが、出版界に豆粒のやうな中小營業者を簇生せしめた原因であつて、同じ出版界でも、教科書とか通俗讀物とかいふやうな比較的需要範圍の廣いものには、早くから或程度の大規模經營が發達してゐた。

要するに、わが國における出版界資本主義化の傾向が、從來他の一般生産界におけるほど甚だしくなかつた原因は、生産品たる出版物の需要制限といふ事實に存してゐたのである。これは出版物そのものの性質に存するといふよりも、寧ろわが國における文化の普及が歐米諸國ほど進んで居らず、隨つて一般民衆の讀書慾が至つて狹い範圍に極限されてゐた結果である。文化が普及して讀書慾が縱横に擴がれば、出版物の需要もそれにつれて擴大されて來る。尤も、讀書需要の擴大は單にそれだけで、出版物の大量生産を喚び起す原因となり得るものでない。さうなるためには、單なる需要が更らに有效需要たるべきことを要する。即ち需要の擴大が、直ちに購讀の擴大を意味するやうでなくてはならないのである。ところが、この點に大きな疑問があつた。

つまり、如何に讀書慾が普及しても、圖書の購買範圍には限りがある。教科書や講談物なら兎も角、思想物や高級文藝物になると、なかなかさうは吸収され得るものでない――といふ考へ方が、從來出版界の常則となつてゐたのである。

これには一面、重要な決定因子として價格の問題が絡らんでゐる。從來の出版物は餘りに高價すぎた。こんなに高い價格では、如何に讀書慾が普及し、圖書の需要が擴大されても、その割りに出版物の購讀範圍、有效需要範圍が擴大されないのは當然である。けれども價格が高いのには、出版部數の制限といふことが重大な原因をなしてゐる。價格が高いから出版部數が制限されるともいへるが、出版物の見込部數が低いから價格を高くせねば算盤が立たぬといふことになる。要するに、部數の制限と高い價格とは、互ひに原因となり結果となり兩々相携えて進んで來たのである。

しかし、假りに價格を思ひ切り引下げたところで、思想物や何かはさう澤山賣れるものでないとも考へられてゐた。それには、傳統的の古い出版觀念が標準をなしてゐたのである。從來でも、比較的實力があり頭のいい出版屋は、この傳統の型を破つて或程度まで廉價多賣に成功して來た。新潮社や岩波は、その著しい例である。だが、一般出版業者は依然として古い傳統的標準に囚はれてゐた。

しかるに、この二三年來になつて、廉價多賣の可能が漸く一般に認められるやうになつて來た。その第一の徴候をなしたものは、講座物の流行である。菊池寛君の『文藝講座』は、實にその俑を開いたものであつた。これが、當時の標準としては可なりの大成功を見たのに刺戟されて、その後簇々と講座式豫約物が發表された。大正十四五年度のわが出版界は、實に講座物の獨り天下であつたといふも過言でない。

しかし、講座物の成功だけではまだ廉價多賣隨つてまた大量生産の可能を十分に納得せしむる社會的體驗とはなり得なかつた。當時の標準としては、可なりの成績であつたとはいへ、それでも第一回の應募が『文藝講座』一萬弱、『社會問題講座』三萬弱、『社會經濟體系』二萬弱といふ成績であつた。高級物でこれだけの成績は、從來の標準からいへば破天荒といひ得ぬことはないであらうが、それでもまだ出版界資本主義化の大段落を形づくるには十分でなかつた。

ところが、昨年末にいたり、突如として一個の怪物が飛び出した。改造社山本實彦君の投じた『現代文學全集』がそれである。山本君は實に破天荒なことをやりだした。即ち、謂はゆる一圓本の廉價革命を高級文藝物の繩張りに持ち込み、一擧にして二十數萬といふ驚くべき應募數を獲得したのである。これに刺戟されて、新潮社は更らに大規模の豫約全集物を計畫して五十萬の成績を擧げたといひ、續いて簇々と同種豫約物の計畫が發表されて今日に及んでゐることは、毎日の新聞紙廣告面が示す通りである。

山本君の破天荒なことは、從來最高級評論雜誌を以つて目されてゐた『改造』をもこの渦中に投じて、僅々二三ヶ月足らずの間に四五萬部臺から二十萬部といふ驚くべき高水準に達せしめたことである。山本君は、行々百萬突破の計畫だと豪語してゐる。

春秋社では思想全集物をやつたが、その募集宣傳に後藤新平さんの推讚がひどく有效だつたといふ話を聞いて面白く感じた。從來の見方では、思想物に後藤さんの提灯では、提灯に藥罐の嫌ひがあつた。無害を通り越して、有害の謗りを免れなかつた。後藤さんに推讚されたのでは、單にそれだけでモウ、その本を讀む氣になれぬといふやうな玄人ずれした讀者も、決して少なくなかつたであらう。

けれども、今日豫約全集物に誘ひ込まれる讀者の大部分は、さういふ既成の玄人ずれした高級讀者でなく、まるで方面の違つた畑から新たに供給されて來るホヤホヤの讀者である。これらの新米讀者を供給する水源地となるものは、多く『キング』や『現代』級の畑である。だから、さういふ繩張りで鳴らしてゐる後藤さんの鶴の一聲が、この場合恐ろしく有效な客引となつたことは訝しむに足りない。

これは戲談でない。實際、思想物や高級文藝物に對する一般の興味は、それが單に部分的概念に對する興味程度を出でないにしろ、今やすさまじい勢ひで『キング』級民衆の間に浸潤しつつある。全集物の讀者が凡ゆる家庭、凡ゆる使用人社會に行きわたつた事實は注目に値する。私の或友人が主宰してゐる某新聞社編輯局では、十六七歳のボーイに至るまで五十錢の『改造』を携えてゐるので、編輯長たる自分が公然『改造』を讀むのも氣恥しくなつたといつてゐる。實際、それほど迄に最高級の出版物が最低級の讀者範圍に侵入して來たのである。

勿論、讀んでわかるかどうかの問題でなく、單なる概念と名稱との興味が普及した程度に止まるであらうが、それにしても恐ろしい現象である。今日マルクスや、餘剩價値や、菊池寛や、スローガンぐらゐを自由に口走り得ないやうだと、一ボーイに至るまで肩身が狹いと感ずるやうになつたのだ。

しかし、讀者範圍が斯ういふ方面にまで擴大されて來ると、自然、出版物の内容も通俗化され調子を下ろして來ることを免れない。『改造』の如きでさへ、値下げ以來著しく丸味を加へて來た傾向を看取し得る。斯うなると、從來通俗そのもので通つて來た『キング』『現代』の類はどうなるか。こちらは寧ろ、地盤擁護の必要からいつても、次第に『改造』級の執筆者を加へ込む程度に硬化することを避けられまいと思ふ。從來の内容では、『改造』にかぶれるやうな讀者からは輕蔑されるし、實際またさういふ讀者が段々『キング』級讀者の中堅をなして來るのである。

以上述べた如き廉價多賣可能の傾向こそ、出版界資本主義化の事實を確立するところのタートベシュタンドとなるのであつて、斯うなつてはモウ、小規模の經營では迚も太刀打が出來ない。そこで、實力あるものは更らに伸びようとするし、從來中流どこで納まつて來たものは、この際一擧にして幕の内に漕ぎつけようとあせる。どのみち、中流では仕方がない。小さければ小さいで、これはまた一種の特殊的道樂的の立場を保持し得るが、貧乏少尉、やつとこ中尉と來ては、一番苦しいところだ。中流銀行に破綻が一番多かつた。幕下十兩は貧乏神といはれる。そこでこの種の階級ほど、後れ馳せながら一齊に豫約全集物をためるといふことになる。

けれども、それに成功すれば一流にもなれやうが、失敗すれば上ツたりである。成功する者、落伍する者、伸びる者、縮む者、要するにこの豫約戰のあらしの後は、さながら歐洲戰爭の後のやうな趣きで、出版國力の分布地圖に可なり著しい變化が行はれることであらう。

結局、數個の一流出版屋が日本出版業を獨占して、中流どこが蹶落され、佃煮のやうな小營業者も次第にその數を減じて、わづかに特殊者を道樂半分に玩ぶ半素人的出版屋として瑞西、スペイン、ポルトガルのやうな遁世的餘生を引摺る運命となるが落であらう。


底本:『經濟往來』第二卷第五號(昭和二年五月。「經濟學徒の見た最近の出版界」の一つ)
『英雄崇拝と看板心理』(忠誠堂,昭和5年)再録。

注記:

※『英雄崇拝と看板心理』は小目◇を(一)(二)……に作る。
※二三の常用表現(小尉→少尉など)を『英雄崇拝と看板心理』によって改訂した。

改訂履歴:

公開:2008/01/13
最終更新日:2010/09/12

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