『春秋』断片語

高畠素之

アンケート「昭和の新理想」

皇室を中心にして、經濟的實生活の上に國家共同の實を擧げること。

即ち、日本國家社會主義の實現。

※『春秋』創刊号(昭和二年四月)


アンケート「私の心を撼かした賢哲の至言」

汝の道を行け、人には彼等の言ふに任せよ。(ダンテ)

年少社會主義を信ずる者は痴愚なり、年長社會主義を棄てざる者は更らに痴愚なり。(ムツソリニー)

※『春秋』第一卷第二號(昭和二年五月)


アンケート「愚問賢答」

(題目)

一 好きな人
二 嫌ひな人


思想界の重鎭 高畠素之

好きな人

頭山滿(浪人)茫漠としてゐるやうだが、どことなく頭のよさと利口さがひらめいて冴えて見える。ドロ臭いところがない。どんな無名な青年に對しても、ひどく謙遜だといふ噂は、この人に舊式浪人型以上のものあるを思はしめる。

東郷平八郎(軍人)純粹の軍人といふ感がする。厭味や芝居氣の無ささうなところ、軍人として乃木將軍よりも好きだ。

犬養毅(政治家)策士型だが、策以上のものがある。多量と僞惡と辛辣味の横溢するところ、策にゐて策に倒れず。鬪志衰へず、永久に無視すべからざる存在を維持する所以か。

嫌ひな人數限りもなし。

※『春秋』第二卷第一號(昭和三年一月)


煎餅とコマ切れの兩大關――新潮社と改造社について――

改造社が竹竿で栗をはたいて歩くと新潮社があとからそれを拾つてゆく。山本實彦氏が豐臣秀吉なら、佐藤義亮氏は徳川家康だと思つてゐたら、時々それがあべこべになることもある。文藝專門の佐藤氏が後れ馳せに社會問題やマルクスに足を踏み入れて成功しかけたときには、流石に新潮社の家康振りは冴えたものだと思はせかけたが、そのあとをまた改造社が追つかけて、こんどは改造社がマルクスと社會思想を獨占しかけてゐる。この點は却つて改造社の方が家康だつた。山本氏の特徴は、氣は小さいが我武者羅な冒險振り、それがウント當つて文學全集のやうに出版革命の導火線となることもある。しかし、どことなく場當り的で際物師臭味のぬけぬところは偉大なるモグリの感を與へる。改造社も天下の改造社になつたことだから、もうそろそろモグリの足を洗つてドツシリした底力のある大出版に深入りすることを心掛けたらどうかと思ふ。その方が結局、商賣にもなる時勢だと氣付かないやうな山本氏でもあるまい。

山本氏に比べると、佐藤氏は頭もよく精悍でムラがない方だが、その代りせせこましく餘りに節約的な行き方で、目前の利益のためには看板の估券も顧みないところがあり、そのこせこせした經濟主義が却つて看板を汚した上に利益まで取り逃してしまふことが無いでもない。新潮社も天下の新潮社なら、徒らに目前の算盤玉ばかりでなく、一つどツしり(1)腰を据ゑて、せめて十年を期する位の内容的に有意義な大出版でも計畫したらどうか。改造社にしろ、新潮社にしろ、あれだけの大店でありがなら、煎餅やコマ切れのやうなクヅ物澤山でお茶を濁してゐるのでは、顧みて心細いと思はぬことはないか。新潮社に奈良の大佛のやうな文藝辭典がなく、改造社に萬里の頂上のやうな社會事典がないことだけでも〔、〕彼等の心掛けが如何に遠大でなく、その日暮し的に賤劣低級であるかを表白するものだ。

※『春秋』第二卷第二號(昭和三年二月)


(無題)

人が神を作る

オスカー・ワイルドは「人類の夥しき發見の中、その最大なる者は神の發見である」と喝破した。神が人を創つたのではなく、フオイエルバツハの言ふ如く人が神を作つたのである。その姿に似せたのは、神でなくして實は人であつた。蟹が甲羅に似せて穴を掘る如く、人はその姿に似せて神をつくり、而かも善化し美化し得る最上の姿において神を創造したのである。――民衆にとりての英雄は、謂はば神の現世的なる投影圖に外ならない。故に英雄を英雄たらしめんには、あらゆる理想化が必要である。(高畠素之)

英雄と「僞人」

英雄とは人類の崇拜本能の上につくり上げられ、神と共にあらゆる善化美化を經て一個の偶像となり、當初の實物とは似ても似つかぬ超凡性を附與された「僞人」だ。――高畠素之

※『春秋』第二卷第五號(昭和三年五月)


『勞農』と『共和』

かつて憲政會内閣は、農民勞働黨を禁壓したが、政友會内閣は勞農黨や日本勞農黨の公然なる存在を許してゐる。議會中心主義の憲政會(民政黨)に比べて、皇室中心主義の政友會としては、この點、柄になくデモクラ弱氣を發揮したものだが、それが氣に食はぬとあつて、建國會あたりでは頻りに勞農黨や日勞黨の解散を慫慂してゐると聞く。

勞農黨も、日勞黨も、共に共産黨たる點に變りはなく、日本をロシヤ流に赤化して勞農出店の屬領にしようといふのが彼等の魂膽であるから、こんなものは一樣に賣國奴として彈壓すべきだが、それが出來ない。さきの農民勞働黨は、その構成分子に共産主義者を抱擁してゐたといふので、それが禁壓の主一理由であつた。しかるに、勞農黨や日勞黨に至つては、共産黨員を抱擁してゐるどころの騷ぎでなく共産黨そのものである。だから、それを解散することが出來ぬ。といふのが、小川平吉氏や鈴木喜三郎さんの皇室中心主義の發露だと見える。

我々からいへば、勞農黨の解散などは末の末である。どだい『勞農』といふ標榜語の使用からして宜しくない。彼等の言ふ『勞農』とは單なる勞働者及び農民の略語ではない。サウヱート主義の譯語である。サウヱートとは、勞働者及び農民の委員會を以つて國家の統治主體たらしめんとする共和主義、簡單に言へば勞農共和主義の謂である。『勞農』は勞働者及び農民の略語だから結構な言葉だといふなら、共に和する『共和』は尚さら結構でなければならぬ。しからば『共和』主義の看板を鈴木喜三郎が公認するかといへば、なんぼ皇室中心主義の腕なし喜三郎でも其處までは弱氣になれまい。といふのは、『共和』は共に和するの略語ではなくて、レパブリツクの譯語だといふことを知つてゐるからであらう。それほど物分りの善い鈴木さんや小川さんの政友内閣でありながら、『勞農』の一語に限つて齒が立たんといふのは、これはまた一體どうした譯であるか。日本には『共和』といふ雜誌が許されてゐることを聞かぬが、共産黨員は公然と『勞農』を刊行して居れる。勞農主義といふ言葉は、日本の津々浦々に鳴り響いてゐる。勞農黨もあれば、日本勞農黨も許されてゐる。

皇室中心主義の名にかくれて共和主義の流行を認許する如きは、最も罪が深い。それで善いといふなら、國民は『勞農』を破壞する前に、先づ政友會内閣を粉碎すべきだらう。

(四月五日)

※『春秋』第二巻第五号(昭和三年五月。「一人一話」の一つ)


注記:

※句読点を増補した場合は〔 〕内に入れた。
※「『勞農』と『共和』」の強調部分、底本は△点とする。
(1)どツしり:底本は「どシしり」に作る。

改訂履歴:

公開:2006/12/17
最終更新日:2010/09/12

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