資本家の勞働

高畠素之

資本家の利潤は勞働搾取から來るといふマルクスの餘剩價値説に對しては、いろいろな反對論が向けられてゐるが、そのうち最も注目すべき一つで且つ相當に論據もあると思はれるのは、いはゆる管理賃銀説と稱するものである。

一概に資本家といつても、資本家のうちには銀行に金を預けたり公債を買つたりして、寢ながらにその利子を蓄積する者もあるが、また一方にはみづから産業に從事して企業上の計畫と冒險と管理とを一身に擔任する者がある。前者は金利資本家、後者は企業資本家であるが、この兩資本家の間には本質的な相違がある。前者は何等の勞働をなさず、寢ながらに利を占めるのであるが、後者は計畫とか管理とか、一言でいへば産業上の指導勞働をする。彼等の取得する利潤、少なくともその大部分は、斯かる指導勞働の賃銀と目すべきものであつて、この賃銀が他の一般勞働者の賃銀よりも高いのは、それは資本その者の性格から來るのではなく、勞働の差等の結果である。

同じ勞働者のうちでも、不熟練工の勞働と熟練工の勞働との間に差等の存することは、マルクスも認めてゐたところで、彼れは後者を示すに『強められた勞働』(自乘された勞働)といふ言葉を以つてし、この『強められた』勞働力が他の單純な勞働力に比してヨリ高い代金を支拂はれることの當然性を認めてゐる。

また、この『強められた』勞働力のうちにもいろいろな差等があつて、高級な專門技師の如きになると、その持つて生れた天分以外に修業や熟練のため多大の費用と教育とを要する。隨つて、その勞働力が同じ一時間分の勞働力であつても、それ程に高級でない他の熟練勞働力に比して、ヨリ高い代金を支拂はれることは當然である。

企業資本家の勞働も亦この種の高級熟練勞働に屬するものであつて、彼れの得る企業利得なるものは畢竟するにこの高級勞働の報酬である。それが賃銀である點は、他の種類の勞働者が受ける賃銀と本質において何等の相違がない。

勞働には單純な筋肉勞働もあれば、複雜な頭腦勞働もあり、後者のうちにもいろいろな種類段階がある。企業資本家の勞働は後者に屬するものであつて、その機能は種として企業上の管理にあるから、彼れの勞働は當然に管理勞働と稱すべきであり、彼の受けとる(1)企業利得は當然に管理賃銀と稱すべきである。

これが、いはゆる管理賃銀説なるものゝ主張であつて、この主張は今日でも可なり有力に行はれてゐる。管理賃銀といふ名稱は知らない人でも、常識的にこれと同じ考を抱いてゐる人が少なくない。マルクスの餘剩價値説に對しても、しばしばこの立場から反對論が持ち出され、それに對してマルキシスト側でも、何とか彼とか辯護論が試みられてゐるやうだが、多くは要領を得ない。それもその筈、斯ういふ場合にはマルクス信者はいつも論究より感情が先きに立ち、例によつて例の如く相手をブルヂオア呼はりするだけで問題をかたづけようとする癖がある。そこで、冷靜に第三者的の立場から見物してゐると、どうやらマルキシスト側の方が旗色がわるいやうに見える。

が、實をいふと、この問題に對しては、マルクス自身すでに嚴正な解決を與へてゐる。それは『資本論』第三卷第二十三章を熟讀すればよく解ることだが、マルキシストを以つて任ずる人でありながら、その勉強を怠つてゐる向も少なくないやうだから、餘計なお節介ではあるが以下少しくマルクスの論究をおさらひして見る。

それについて、一應マルクスの餘剩價値論(勞働者搾取説)を瞥見して置く必要がある。この學説によれば、利潤の本體は資本家が使用勞働者から搾り取るところの餘剩勞働にある。餘剩勞働とは、必要勞働以上に出づる勞働のことである。そこで、この『必要』の意味を明かにせねばならぬ。

今の社會の原則としては、資本をもつ人と勞働する人とが別々にわかれてゐる。資本をもつ人(資本家)は、資本をもたないで勞働する力だけをもつ勞働者に一定時間勞働させて産業を營む。けれども、只で人を使ふわけにはゆかない。自分の工場なり作業場なりで勞働者の勞働力を發揮させるためには、相當の代金を支拂はねばならぬ。これが即ち賃銀であつて、資本家はそれを自分の資本のうちから支拂ふ。資本家の資本の他の部分は、建物や機械や原料など、約言すれば生産上の物的諸條件に投ぜられる。この方面の資本は餘剩勞働搾取の必要條件であるとはいへ、餘剩勞働の原因ではない。それはその儘、生産物に價値を移轉してゆくだけである。

しかるに、賃銀として勞働者に支拂ふ資本は、それ自身の價値を増殖する。資本家は一日分の勞働力の代金として、一日分の賃銀を勞働者に支拂ふ。一日分の賃銀の大小はいろいろな條件によつて左右されるが、終極においては一日分の勞働力を造り出す費用、即ち勞働者の一日分の生活費によつて決定される。この一日分の勞働力を買つて、資本家はこれを生産上に發揮させる。勞働力の發揮は價値の生産である。これを發揮させてゐるうちに、支拂つた賃銀を回収するにちやうど相當した價値限點に達するところがある。この限點までの勞働を『必要』勞働といふ。資本家から見れば、投下賃銀を回収するに必要な勞働であり、勞働者から見れば、自己の生活費を造り出すに必要な勞働であるといふところから、この『必要』といふ概念が出て來るのである。

若しこの『必要』な限點で生産を打ち切つてしまへば、資本家は損も得もない。得をしようとすれば、更らにこの限點を超えて働かせねばならぬ。必要勞働の時間が六時間であるとすれば、それ以上に出る一日の勞働時間部分は悉く資本家の儲けになる。一日分の賃銀は一日分の勞働力の代金であるから、一日の最高限度二十四時間までは一日分の賃銀で勞働させることが出來る。假りに十二時間だけ勞働させたとすれば、このうちから必要勞働六時間を差引いた殘餘の六時間といふものは全部資本家の儲けになる。これが即ち『餘剩』勞働時間であり、この時間中に造られる價値が即ち餘剩價値である。資本家の得る利潤とは、この餘剩價値の具象化した形にほかならぬ。

これで見ると、利潤の出處は專ら勞働搾取にのみあるといふことになるが、しかし勞働するのは單に勞働者だけではあるまい。生産には勞働が必要であるが、この生産上の勞働にはいろいろな種類がある。單純な筋肉勞働もあれば、複雜な頭腦勞働もある。頭腦勞働の最も複雜なるものに生産上の指導、統制、監督といふ勞働がある。資本家はこの勞働を擔任する。そしてその勞働の賃銀として受けるものが即ち利潤だといふ、これが管理賃銀説の言分であることは前にも述べた。

もちろん、廣い意味での利潤といふうちには、この勞働の賃銀に相當しない部分も含まれてゐる。普通、利子と稱するものがそれである。この關係は、資本主と企業資本とが別々の人である場合を考へて見ればよく解る。企業家で金貸や銀行から資本を借りて産業を營む場合を考へて見る。彼れが自己の産業から得る一年間の利潤を二千圓と假定する。彼れはこの二千圓のうちから、一部分を利子として金貸又は銀行の手に支拂はねばならぬ。それを假りに五百圓とすれば、この五百圓は収納者の不勞所得を代表するものである。けれども、殘餘の一千五百圓(狹義の利潤、即ち企業利得)は企業者の管理勞働の賃銀に相當するものであるから、決して不勞働所得ではない。勞働者の賃銀と本質的に何等相違するところのない勞働所得を代表するものである。

けだし、如何なる生産も社會的生産である。そして如何なる社會的生産も、個々の勞働者の生産行爲のほか尚これらの個別的生産行爲を指揮し總括し調節するところの管理勞働を要する。オーケストラに指揮者を要する如くである。各合奏者の勞働が特殊の熟練勞働である如く、識者の勞働も亦た一種の熟練勞働である。同樣に、資本家の管理勞働も亦、一種の頭腦勞働であり熟練勞働である。狹義の利潤、即ち企業利得なるものは、資本家がこの勞働について受ける賃銀にほかならぬ。

この管理賃銀説に對して、マルクスは斯う反問する。――けれども、勞働者は資本家から賃銀を受けるのであるが、資本家としての勞働者は一體誰れから賃銀を受けるか。資本家の管理勞働なるものが假りに一種の勞働であるとしたところで、この勞働は資本の所有又は占有と固く結びついてゐるのではないか。しかるに、オーケストラの指揮者は、自己の使用すべき樂器の所有者又は占有者たることを要しない。ところが、資本家の勞働なるものは、資本の所有又は占有を離れては意味をなさない。だから、假りに資本家が勞働をするとしても、その勞働はオーケストラの指揮者の管理勞働と同じ種類のものではない。指揮者の勞働は、資本家としての資本家の機能とは何等關係するところがない。資本家といふ者のまだ存在しない原始的の共同生産においても、この勞働は行はれて〔ゐ〕た。勞働者の共同組合的工場においては、この種の管理勞働は、勞働者に對立して資本を代表するものではなく、寧ろ勞働者によつて賃傭された特殊勞働者の仕事となつてゐる。

金貸や銀行に比べれば、企業資本家は勞働者であるといふ。この場合の勞働には、右にいふ如き指揮者的の勞働ではなく、他人の餘剩勞働を搾取するには、この勞働である。(2)他人の勞働を搾取するには、この意味の特殊管理勞働を要する。けれども、搾取される餘剩勞働は、この特殊勞働によつて造り出されるものではない。それは、資本家に雇はれる勞働者の勞働から來るのである。また、この餘剩勞働の大小も、資本家の勞働ではなく被傭勞働者の勞働の生産力や能率の如何によつて決定される。資本家の管理勞働といふのは、如何にしてこの生産力や能率を充分に發揮せしめるかといふこと、その他それに類似の操作に限られてゐる。

しかも、この勞働搾取上の勞働は、必ずしも企業資本家自身がするに及ばない。資本家は、これを自分の雇つた管理勞働者に一任することが出來る。株式會社において、株主及びその代表者たる重役が企業者である。けれども、彼等は直接管理勞働をしない。この勞働は支配人以下、監督、工場長等に一任する。これらの人々はその勞働について一定の給料を支拂はれる。この給料こそ、寧ろ管理賃銀と稱すべきものである。しかるに、企業資本家たる株主たちは、この管理賃銀を支拂ふ以外に尚、利潤として一定の配當を受け、彼等の代表者たる重役はその持株に對する配當以外に賞與及び俸給を受けてゐる。日本でも、大會社の社長のうちには一年十五六萬乃至二十萬圓の賞與を受けてゐる者があり、その下にゐる取締役でも七八萬乃至十數萬圓の賞與を受けてゐる者がある。また彼等の俸給は、さほど大きくはないが、それでも年俸にして二萬四五千圓に及ぶ者がある。

今日の産業界の状勢を見ると、企業資本家の資本家たる機能と、如上の意味の管理勞働の機能とはますます分離して、後者は資本家の下に雇はれる特殊勞働者の擔任に歸する傾がある。管理勞働者には相當の賃銀が支拂はれる。この賃銀以外に尚、企業資本家としての資本家に歸すべき利潤が存在してゐるのである。だから、利潤を以つて管理賃銀なりとする論據は成り立たない。利潤の源泉は、資本家の資本家たる機能その者よりも以外のところに求められねばならぬ。

マルクスの餘剩價値説は、少なくともこの源泉をつきとめようとしてゐる點において、ヨリ根柢的である。茲まで推し詰めると、管理賃銀説なるものは結局、利潤の道徳的辯護をしてゐるだけではないかと怪まれて來る。


底本:『經濟生活』第六卷第十號(『文化生活』改題。昭和三年十月)
『英雄崇拝と看板心理』(忠誠堂,昭和五年)再録。

注記:

※『英雄崇拝と看板心理』によって本文を補った場合は〔 〕内に入れた。
(1)とる:底本は「たる」に作る。
(2)以上、單行本は「この場合の勞働は、右にいふ如き指揮者的の勞働ではなく、他人の餘剩勞働を搾取するための勞働である。」とする。

改訂履歴:

公開:2007/12/09
最終更新日:2010/09/06

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