藝術の顧客として

高畠素之


私は藝術については全くの素人である。單に素人なることを自覺してゐるのみでなく、またそれに甘んじ、それを自任して居る。私には藝術家たるべき、或は藝術家的の天分が微塵もない。詩のやうなもの、小説のやうなものゝホンノ眞似事だけでもやれたなら、嘸面白いだらうなどゝ時々考へるが、さて戲れにやつて見ようかと、さう考へた丈けでも既に身慄ひがするほど恐ろしいやうな、氣はづかしいやうな、變な氣分に襲はれるのが常である。

私は斯樣に、藝術家的には全くゼロな男であるが、それなら全然非藝術的かと云ふに必ずしも其うではないやうだ。私は小説のホンノ眞似事だけでも出來ないが、人の作つた小説は可なり興味をもつて讀んで居る。役者の眞似などは夢にも出來さうにないが、それでも芝居は好きで月に二度ぐらゐは觀客の末席を穢さして頂いて居る。そして單に好きだと云ふばかりでなく、あの役者はうまいとか、あの臺詞が惡くないとか、此の小説は下らないとか下つてゐるとか、私相當に一種の藝術的鑑賞眼を持つてゐるやうだ。そこで私は考へた。私には藝術的天分は爪の垢ほどもないが、藝術的興味若しくは藝術的本能と云つたものは可なり濃厚にあるのではないか。若しさうだとすれば、何もさう遠慮ばかりしてゐるにも當らない。世の中に藝術家といふ本職がなければ、我々素人の藝術的興昧が頗る寂寥を感ずると同じ意味で、我々のやうな普通人としての藝術的觀客がなければ御本職の先生方も困るに相違ない。若し物資の消費者が消費者としての立場から、生産者に向つて相當容喙する社會的權利があるとするならば、我々も亦藝術品の消費者として、藝術問題に對し相當喙を容れる權利がなくてはならぬ。

藝術家的天分と云ふことゝ、藝術的興味と云ふことは必ずしも同じものでないことは、私自身の場合を考へて見ても分る。勿論、藝術的興味なくして、藝術家的天分があると云ふ場合は考へられぬ。さりとて藝術的興味があつても藝術家としての天分がないと云ふ場合は慥かに考へられる。そこで社會的に考へると、此天分のない享樂者があればこそ、本職の藝術家が生れて來るのではないか、或は少くとも立ちゆけるのではないか。斯う考へて見ると、本職の大家方は藝術家を尊重する前に、先づ此凡俗の顧客を尊重しなければならない。我々は消費者として充分に先生方を尊重してゐるのであるが、先生方の方で兎かく俺はエライんだと云つたやうな顏をされると、ベラ棒め、誰のお蔭で喰つてゐる?と怒鳴りたくなる。此點になると『藝人』の態度が頗る宜しい。廣い社會の立場から見れば、藝術家だつて藝人だつて少しも違ひはない。産婆も助産婦も仕事は同じだ。基督信者もキリスト者も、エホバの小羊たる點に變りはなささうに思はれる。

藝術家が藝術家の仕事を非常にエライものゝ樣に考へてゐるのは、學者が學問を特別高貴なものゝやうに考へ且つ言ひ振らし、社會主義者が社會主義者でない人間を人間でないやうに考へ、基督教徒が異端者を獸扱ひするのと同じやうに、此上なく氣障な者だ。學問も、藝術も、社會主義も、基督教も、人間社會に必要なればこそあるので、敢て俺の仕事だけは格別だと云つたツラをしないだつて、なるべく充分に社會の要求を充たして呉れさへすれば、御當人の注文はなくとも世間樣がエライものにしてやる。

要するに藝人でも藝術家でも、結構な藝さへ、善い作品さへ出せばそれで宜しいので、餘計な自尊心は却つて鼻につく。

所で、其の結構とか善いとか云ふことは何を標準としての話か。たゞ多くの人が善いと思へば、それが善いのだと云ふやうなタウロトロギシユな斷定から、今少し深入りして素人考へを弄んで見たい。

藝術は文字の示す通り、藝であり術である。歐羅巴語でアートとかクンストとか言ふが、要するに技術に外ならない。同じ技術が人間の物質的欲求の充足に向けられた場合には、テクニーク即ち生産技術となり、審美的欲求の充足に向けられた場合には、クンスト即ち藝術となるのではないか。何れにしても藝術は技術に外ならないのだから、藝術上の評價の標準は、一に巧拙と云ふ點に存しなければならぬ。つまり多くの人が見て成るほど之れは巧いと思ふ作品は善い作品と云はねばならぬ。其點を除いて、私には藝術的評價の標準が見出だせない。

無論之だけではまだ駄目だ。更に立入つて、その巧拙の一般的標準は抑々何處にあるか、一般的に如何なる資格を具へた作品が巧であり、知何なるものが拙であるかの問題を吟味しなければならぬ。それは面倒なことだ。考へて考へられないことは無いが、それよりも私は此問題をキツカケに、此頃チヨクチヨク問題になつてゐる社會的藝術のことにチヨツト喙を容れて見たい。

社會的藝術と云ふことは、社會問題を取扱つた藝術と云ふことに外ならぬものであるか。若しそれだけの事ならば、其れは寔に結構なものである。藝術の本領は巧拙にあつて材題にないのであるから、そして材料は何であつても構はぬ、否如何なる人間事象も藝術的力作の對象にならなくてはならぬものであるから、社會問題も勿論藝術的に取り扱はれ得なくてはならぬ。のみならず社會問題は時代のトピークである。隨つて、他の問題以上に現代人の興味を吸引することが出來る。だから社會的藝術は大いに興らなければならぬ。興つて欲しいのだ。

たゞ一寸氣に食はないのは、社會的藝術論者の間には、以上の立場から更に一歩を進めて(或は一歩墮落して)杜會的藝術でなければ眞の藝術でないと云つた口吻を洩らすものがあることだ。之れは甚だ宜しくない。藝術の本領は材料になくて技巧にある。醉ぱらいの大立廻りでも、夫婦のちんちん喧嘩でも、乃至は廻し部屋の缺伸でも藝術家の靈筆にかゝつたなら、それが悉く立派な藝術品になり得なくてはならない。社會問題も勞働爭議も、此意味に於て立派な作品になるが、それを取扱つたものでなければ眞の藝術品でないなどと云ふ、そんなベラ棒な話はなささうに思はれる。

藝術の社會化といふことは、社會問題を藝術的對象の範圍に引入れると云ふ程度に止めて貰ひたい。藝術を社會主義や社會改良主義の宣傳の道具にすると云ふのでは有難くない。總ての『傾向藝術』は非藝術的である。藝術が社會問題に溶解して行くのでなく、反對に社會問題を藝術の繩張りに引張り込むのでなくてはならぬ。藝術が社會問題に引つ張られた時は、即ち藝術の亡びる時である。私は社會主義者ではあるが、藝術を社會主義化させたくない念願に於ては、總ての非社會主義者以上に非社會主義的であることを公言する。


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